礼拝説教から 2022年7月17日

  • 聖書個所:マタイの福音書6章9-15節
  • 説教題:御国の民として、御心に従って

 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。↓ 『天にいます私たちの父よ。↓ 御名が聖なるものとされますように。↓ 御国が来ますように。↓ みこころが天で行われるように、↓ 地でも行われますように。↓ 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。↓ 私たちの負い目をお赦しください。↓ 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。↓ 私たちを試みにあわせないで、↓ 悪からお救いください。』↓ もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

0.

 今日も、先週に引き続いて、マタイの福音書6章9-15節を開いています。イエス様が祈りについて教えてくださっている場面です。一般的に「主の祈り」と呼ばれている所です。

 イエス様は、弟子たちや群衆と呼ばれる人々、そして、現在の私たちに対して、祈り方を教えてくださいました。それは、私たちの間違った祈り方を踏まえてのことでした。

 イエス様は、偽善者のような祈り方と異邦人のような祈り方の間違いを指摘されました。偽善者のような祈り方というのは、他人に見せるために祈るということです。自分の立派な信仰生活が認められるために、他人に自分の祈りを見せるということです。それは、自分が中心になっているということに他なりません。また、異邦人のような祈り方というのは、言葉数が多いことで聞いてもらえると思って祈るということです。必死のパッチで祈り倒せば、神様も願いを聞いてくださるということです。そして、その異邦人の祈り方も、中心にあるのは自分だと言えるでしょう。つまり、偽善者や異邦人の祈り方は、自分が中心にあるということであり、神様と私たちとの関係が逆転しているということです。そして、その偽善者や異邦人の祈り方を踏まえて教えられたのが、主の祈りです。

 イエス様が教えられたのは、まず神様に関する祈りでした。御名、御国、御心です。神様の名前、神様の国、神様の意志です。何よりもまず求めなければならないのは、神様の名前が聖なるものとされることであり、神様の国が来ることであり、神様の御心が行われることです。そして、自分たち自身の必要については、その後に祈ればいいということです。しかし、それは、単なる順番の問題ではないわけです。そうではなくて、それは、何よりも、自分が中心であることを止めるということです。大切なことは、神様と私たちとの反対になってしまった関係が正しくされることだということです。神様だけが栄光をお受けになる方であることを認め、私たちはその神様に栄光をお返しする者になるということです。

 先週は、呼びかけの言葉と、御名に関する祈りの言葉を見てみました。今日は、御国と御心に関する祈りの言葉を見ていきたいと思います。

 

1.

 イエス様は、「御国が来ますように」と祈ることを教えられました。

 御国というのは、何でしょうか。私たちが死んだ後に行く所でしょうか。何の苦しみもない所ということでしょうか。確かに、そのような面があるのだとは思いますが、十分な理解ではないと言えるのかも知れません。

 これまでにも分かち合ってきたことと思いますが、御国というのは、神様の国ということです。それは、本質的に神様が統治されている国ということです。神様が支配されている国ということです。そして、その神様の国が来るようにと祈り求めることが教えられているということです。

 ちなみに、先週の「御名が聖なるものとされますように」という祈りの背景には、神様の名前が聖なるものとされていない現実があることを指摘していました。神様の名前が聖なるものとされていない現実があるからこそ、神様の名前が聖なるものとされることを祈り求めるということです。そして、そうであるならば、「御国が来ますように」という祈りも、神様の国がまだ来ていないという現実を踏まえていることになるでしょうか。実際に、世界の現実を見ると、私たちは「神様がおられるなら、何でこんなことが」と言いたくなるような出来事が、たくさん起こっているわけです。

 結論から言えば、神様の国というのは、十字架の死から復活をして、天に昇られた主イエス様が、もう一度この世界に帰って来られる時に到来します。イエス様の再臨によって、神様の国は到来します。イエス様の再臨によって、神様の支配は完全な形で実現します。「御国が来ますように」というのは、そのイエス様の再臨と、イエス様の再臨によって到来する神様の国を待ち望む祈りです。それは、確かにまだ実現していない出来事です。未来の出来事です。

 しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。福音書に記録されたイエス様の言葉を見ていく時、私たちは、神様の国がすでに来ていることを知ることができます。

 イエス様は、地上の生涯において、たくさんの奇跡を行われました。悪霊を追い出されました。それは、イエス様が神様だからこそできたことです。神様の御子であるからこそ、真の神様であるからこそ、イエス様は悪霊を追い出すことができたということです。悪霊たちはイエス様の権威に逆らうことができなかったということです。

 しかし、イエス様を受け入れることのできなかった一部の人々は、イエス様が悪霊の頭、悪霊のボスの力を借りていると主張しました。悪霊のボスの力を借りて、悪霊を追い出しているということです。かなり無理やりな主張ですが、いずれにしろ、その「悪霊のボスの力を借りて」と主張している人々に対して、イエス様は宣言されました。それは、「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ている」ということです。

 どういうことでしょうか。それは、イエス様と共に、神様の国がすでに来ているということです。イエス様は、神様の国が来ていることを、ご自分の御業によって証ししておられるということです。つまり、神様の国は、イエス様がこの地上に来られたことによって、すでに始まっているのであり、十字架の死と復活の御業によって、実現したということです。神様は、イエス様によって、ご自分の国を建ててくださったのであり、イエス様を信じる私たち一人一人を、そのご自分の国の民として生きる救いの中に招き入れていてくださるということです。私たちは、「まだ」完成していないけれども、「すでに」実現している神様の国の民として生きているということです。神様の国は、後に来るものであると同時に、すでに来ているものでもあるということです。逆に言うと、神様の国は、「すでに」実現しているけれども、「まだ」完成していないということです。

 ちなみに、神様の国というのは、「日本」や「アメリカ」と言う場合のように、「滋賀県」や「栗東市」と言う場合のように、「ここからここまで」と言えるような場所があるわけではありません。そうではなくて、神様の国というのは、イエス様を信じて、神様の支配を受け入れた人々の心の中に実現していると言えるでしょう。神様の支配を受け入れた人々の集まりの中に実現していると言ってもいいのかも知れません。ただ、それは、「すでに」実現しているけれども、「まだ」完成していません。そして、だからこそと言えるでしょうか。私たちは、神様の国の民として生きようとする時に、様々な困難にぶつかることがあります。信仰を試されたりすることがあります。神様の国は、「すでに」実現しているけれども、「まだ」完成していないからこそ、そこに生きる私たちの信仰生活には、様々な困難や試みがあるということです。しかし、確かに神様の国が実現していることを知っているからこそ、私たちはその完成の日を待ち望んで祈るということです。

 私たちはどうでしょうか。神様の国の完成を待ち望んで祈っているでしょうか。

 もしかしたら、現在の私たちにとって、「御国が来ますように」という祈りは、どこか漠然とした感じがするかも知れません。新約聖書の時代を生きた人々が、イエス様の再臨を目の前に感じていたのとは違って、現在の私たちは、イエス様の再臨と神様の国の完成を待ち望んでいるとは言っても、どこか遠い未来の出来事のように感じることがあるかも知れません。だからこそ、いつになるかも分からないイエス様の再臨と神様の国の完成の日を祈り求めるよりも、目の前の現実ばかりに注目してしまったりするでしょうか。

 イエス様は「御国が来ますように」と祈ることを教えてくださいました。目の前の現実に支配されるのではなくて、終わりの日に目を向けることを教えてくださいました。もちろん、だからと言って、それは、目の前の現実がどうでもいいということではありません。いつになるか分からない遠い未来を見つめて、現実から目を逸らすことではありません。苦しい現実の中で、自分の心を慰めるために、神様の国の到来を祈り求めることでもないでしょう。

 「御国が来ますように」、それは、イエス様の再臨と神様の国の完成を待ち望む祈りです。そして、それは、終わりの日への視点を持ちながら、目の前の現実と向き合うことと言えるでしょうか。

 「御国が来ますように」、その祈りは、私たちの目を「終わりの日」へと向けさせてくれます。それは、イエス様が来てくださる時であり、神様の国が完成する時であり、私たちにとっては希望の時です。だからこそ、私たちは目の前のどのような現実とも向き合うことが可能になるのではないでしょうか。終わりの日の希望は、先行きの見えない現実と、絶望することしかできない現実と、向き合う力を与えてくれるということです。そして、大切なことは、その現実の中で、神様の国の民として、神様の御心に従って生きるということです。

 

2.

 イエス様は「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」と祈ることを教えてくださいました。

 繰り返しになりますが、神様の国というのは、神様の支配が実現している所です。そして、それは、同じ主の祈りの別の言葉を用いるならば、神様の御心が行われているということになるでしょうか。

 ちなみに、主の祈りは、マタイの福音書だけではなくて、ルカの福音書にも記録されています。そして、そのルカの福音書の方を見ると、「みこころが天で行われるように、↩ 地でも行われますように」という祈りの言葉はありません。「父よ」というシンプルな呼びかけの後、御名と御国に関する祈りの次には、すぐに私たちの日ごとの糧を求める祈りへと続いていきます。あるいは、「御国が来ますように」という祈りと、「みこころが天で行われるように、↩ 地でも行われますように」という祈りとは、別々のものではなくて、一つのものと言ってもいいのかも知れません。神様の国が来ることを祈り求めることは、神様の御心が、天においてだけではなくて、地でも行われるように祈り求めることでもあるということです。そして、それは、神様の国の到来と同じように、イエス様がもう一度来られる時に、最終的に実現することです。イエス様がもう一度来られる時に、神様の御心は完全な形で行われるということです。

 もちろん、だからと言って、それは、イエス様の再臨を、ただ黙って祈り求めるだけのことではないでしょう。「イエス様が来られたら、どうせ神様の御心が完全に行われるんだから、今はどうでもよい」ということではないでしょう。世界でどんなことが行われていても、私たちがどのように生きていても、関係ないということではありません。そうではなくて、神様の御心が行われることを祈り求めて生きるというのは、イエス様の再臨を祈り求めると同時に、私たちもまた、すでに実現している神様の国の民として、神様の支配を受け入れた者として、神様の御心に従って生きるということです。

 それでは、神様の御心に従って生きるというのは、どういうことでしょうか。それは、具体的には、私たちが互いに愛し合って生きるということにまとめられるのではないでしょうか。

 神様の御心、それは、私たちが救われることです。神様が願っておられるのは、私たちが救われることに他なりません。ご自分の御子である主イエス様を信じるすべての人が救われることです。そして、その神様の救いというのは、私たちが神様の国の民として生きることです。神様の恵みの支配を受け入れて、神様に自分を明け渡して、神様に導かれて生きることです。自分の思いや願いに従ってではなくて、神様の御心に従って生きることです。そして、それは、具体的には、私たちが互いに愛し合って生きる者になるということです。

 私たちはどうでしょうか。

 神様の御心に従って生きる、それは、口で言うのは簡単なことです。しかし、実際には、決して簡単なことではありません。あるいは、私たちは、神様の御心に従おうとするほどに、愛そうとするほどに、愛することのできない自分、神様の御心に従うことのできない自分を見せつけられることになるのかも知れません。

 しかし、幸いなことにと言えるでしょうか。神様はそんな私たちを救ってくださったということです。互いに愛し合うことのできない私たちを諦めるのではなくて、ご自分の御心を成し遂げて、私たちの救いを完成させてくださるということです。御国の民として、私たちを迎えてくださるということです。そして、大切なことは、その神様を見上げて待ち望むということです。

 毎週の礼拝を通して、主の祈りが教えられている恵みを覚えたいと思います。主の祈りを通して、神様を見上げる者でありたいと思います。そして、神様の国の民として、神様の御心に従って生きる者でありたいと思います。

 

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