礼拝説教から 2022年8月7日

  • 聖書個所:マタイの福音書6章9-15節
  • 説教題:私たちを試みにあわせないでください

 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。↓ 『天にいます私たちの父よ。↓ 御名が聖なるものとされますように。↓ 御国が来ますように。↓ みこころが天で行われるように、↓ 地でも行われますように。↓ 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。↓ 私たちの負い目をお赦しください。↓ 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。↓ 私たちを試みにあわせないで、↓ 悪からお救いください。』↓ もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

 ですから 立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(コリント人への手紙第一10章12-13節)

 

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 イエス様は、主の祈りの中で、六つの祈りを教えていてくださいます。前半の三つは、神様に関する祈りです。神様の名前、神様の国、神様の意志を求める祈りです。イエス様は、何よりもまず、神様の御名、御国、御心のために祈ることを教えていてくださるということです。しかし、私たち自身のことはどうでもいいということではありません。イエス様は、私たち自身の必要のためにも祈ることを教えていてくださいます。それが、後半の三つです。

 先週は、後半の二つ目、全体で五つ目の祈りを見てみました。それは、私たちの負い目が赦されること、私たちもまた赦す者になることでした。私たちは、救われて新しく生きる者になりましたが、罪人であることには変わりがないのであり、神様に赦された恵みを覚えながら、赦す者として生きるために、祈り求めていく必要があるということです。今日は、最後の六つ目の祈りを見ていきたいと思います。

 

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 最後は試みに関する祈りです。

 「試み」というのは、分かったような、分からないような言葉ですが、どういうことでしょうか。「試み」という漢字から、「試練」を思い浮かべることがあるでしょうか。試練に遭わせないでくださいということです。実際に、試練に関して、私たちがよく知っている言葉、例えば、「あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません」というパウロの言葉を見ると、「試練」と訳されている部分と、今日の本文の中で、「試み」と訳されている部分は、同じ言葉が使われています。

 また、今日の本文の「試み」は、新共同訳やフランシスコ会訳を見ると、「誘惑」と訳されていることが分かります。「誘惑に遭わせないで」、あるいは、「誘惑に陥らないように」ということです。

 ちなみに、ギリシア語の辞書で、「試み」と訳されている言葉を調べてみると、「試練」という意味も、「誘惑」という意味も、どちらも出てきます。そうすると、試みというのは、試練のようなものでもあり、誘惑のようなものでもあるということになるでしょうか。

 どうでしょうか。もしかしたら、試練と誘惑は、正反対のもののように思えるかも知れません。

 試練というのは苦しいものです。大きな事件に巻き込まれることがあるでしょうか。最近であれば、とんでもない自然災害を経験することがあるでしょうか。また、仕事が思うように行かないこともあるでしょうか。人との関係が上手く行かないこともあるでしょうか。それらは、とても苦しいものです。そして、何か苦しいことがあった時、私たちは試練を受けていると感じるわけです。

 その反対に、誘惑というのは楽しさを感じさせてくれるものなのではないでしょうか。パッと思い浮かぶものとしては、性的な誘惑があるでしょうか。もちろん、性的な誘惑だけではありません。いろいろな誘惑があるわけです。そして、もしかしたら、誘惑を受けている時、私たちは誘惑を受けているということに気づいていないことが多いかも知れません。

 いずれにしろ、誘惑というのは、楽しさを期待させてくれるような何かです。そして、それは、試練とは正反対のものです。試練と誘惑は、正反対のもののように思えるわけです。しかし、その試練と誘惑が、試みという一つの言葉の中に、同時に含まれているということです。

 どういうことなのでしょうか。

 試練と誘惑、それは、確かに、表面的には正反対のものです。しかし、その試練と誘惑によって、結果としてもたらされる可能性があるものは、同じです。

 何でしょうか。それは、私たちが神様から引き離されるということではないでしょうか。試練や誘惑は、私たちを、神様から引き離すことがあるということです。私たちは、試練によって、誘惑によって、神様から引き離されることがあるということです。そして、その私たちを神様から引き離すような試練や誘惑、それが、試みに他ならないということです。試みというのは、試練や誘惑として、私たちを神様から引き離そうとするものだということです。そして、その試みから逃れるために祈る必要があることを、イエス様は教えていてくださるということです。私たちは、試みに遭わせないでくださいと祈る必要があるということです。

 しかし、どうなのでしょうか。試みに遭わせないでくださいというのは、具体的には、どういうことなのでしょうか。それは、どんな試練も与えないでくださいということなのでしょうか。どんな誘惑も与えないでくださいということなのでしょうか。イエス様は、私たちのために、あらゆる試練や誘惑を取り除いてくださるということなのでしょうか。恐らくはそういうことではないでしょう。

 イエス様は、山上の説教の最初の所でも、「義のために迫害されている者は幸いです」と宣言しておられました。それは、クリスチャンの生涯に、迫害が伴うということを意味しています。クリスチャンは迫害を受けることがあるということです。そして、その迫害というのは、今日の本文の言葉を用いるなら、まさに試練に他ならないでしょう。イエス様は、クリスチャンの生涯に試練がないことを約束しておられるのではないということです。クリスチャンの生涯にも、試練はあるということです。もちろん、誘惑も同じでしょう。私たちは、試練だけではなくて、誘惑も受けることがあるということです。しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。イエス様は、弟子たちや群衆と呼ばれる人々、現在の私たちに対して、試みに遭わせないでくださいと祈る必要があることを教えていてくださるということです。

 どういうことなのでしょうか。それは、何よりも、試みの結果として、私たちが神様から引き離されることのないようにしてくださいということではないでしょうか。試みはあるわけです。私たちが試練や誘惑に襲われることはあるわけです。しかし、その試練や誘惑によって、試みの結果として、私たちが神様から引き離されるようなことになってはならないということです。だからこそ、神様から引き離されてしまうような試みに遭わないことを、私たちは祈り求める必要があるということです。そして、それは、逆に言うと、とんでもない試みに遭ってしまったら、私たちは簡単に転んでしまうということではないでしょうか。私たちは、自分の力をはるかに越える試練や誘惑に遭ってしまったら、すぐに転んでしまうということではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、イエス様は、「試みに遭わせないでください」と祈ることを教えていてくださいます。その後にも、「悪からお救いください」と祈ることを教えていてくださいます。「試みに打ち勝たせてください」ということではありません。「悪に打ち勝たせてください」ということでもありません。そうではなくて、試みに遭わせないでくださいということです。悪から救ってくださいということです。

 もしかしたら、ちょっと消極的な感じがするかも知れませんが、どういうことでしょうか。それは、私たちが根本的に弱い者だということではないでしょうか。私たちは試みに打ち勝つことのできる者ではないということです。悪に打ち勝つことのできる者ではないということです。私たちは、神様に守られているからこそ、試みから逃れることができているに過ぎないのではないでしょうか。神様の一方的な恵みの中にあるからこそ、悪から守られているに過ぎないのではないでしょうか。

 そうすると、大切なことは何でしょうか。それは、単純に、試みや悪に打ち勝つ力を養っていくということとは、異なるのではないでしょうか。どのような試みや悪にも揺さぶられることのない力強い信仰を養っていくこととは、異なるのではないでしょうか。むしろ、その反対に、大切なことは、私たちが、自分の弱さを認め続けていくことではないでしょうか。試みに打ち勝つことのできない自分、悪に打ち勝つことのできない自分、その弱い自分を覚えて認め続けていくことではないでしょうか。神様の守りがなければ、試みに負けてしまう自分、悪に負けてしまう自分、その弱い自分を覚えて認め続けていくということです。しかし、だからこそ、神様に助けを求めるということです。「試みに遭わせないでください」、「悪から救い出してください」と祈ることしかできない自分であることを覚えながら、神様に助けを求め続けていくということです。そして、神様は、その弱い私たちを助けてくださるということです。神様は弱い私たちの信仰生活を支えていてくださるということです。

 先ほど、試練に関して触れたパウロの言葉を、改めて見てみます。コリント人への手紙第一10章13節です。

 パウロは、神様が、私たちを耐えられない試練にあわせない方だと言っています。神様は、耐えられるように、試練だけではなくて、脱出の道も備えていてくださるということです。「耐えられるように」というのは、私たちの力であるように思えますが、私たちが耐えられるのは、根本的に、神様が脱出の道を備えていてくださるからだということです。

 そして、一つ前の12節を見ると、パウロはちょっと興味深いことを言っています。

 パウロは、「立っていると思う者」に対して、「倒れないように気をつけなさい」と忠告しています。

 どういうことでしょうか。

 「立っていると思う者」というのは、まさに自分の力で立っていると思っている人のことです。「自分には確かな信仰がある、その信仰によって、しっかりと立っている、どんな試練や誘惑も恐くない、どんな悪にも負けない」、そんな自分の信仰を誇りながら、自分の力で立っていると思っている人のことです。

 しかし、その自分の力で立っていると思っている人々に向かって、パウロは忠告をしているということです。そして、それは、「倒れないように気をつけなさい」ということです。自分の確かな信仰の力によって立っていると思うなら、それは錯覚に過ぎないということです。必ず倒れてしまうということです。

 繰り返しになりますが、試練にしろ、誘惑にしろ、試みというのは、私たちを神様から引き離すものです。そして、最大の試みというのは、私たちが自分の力で立っていると思うことです。自分の確かな信仰の力によって立っていると思うことです。そして、自分の確かな信仰の力によって立っていると思っている時、私たちは神様から離れているということです。神様を必要としていないということです。弱い自分を覚えながら、神様に頼るのではなくて、自分の力で何とかしようとするということです。試みの中にありながら、試みの中にあることに気づいていないということです。

 先週にも分かち合ったことですが、私たちは主の祈りを信仰生活の最後まで祈ります。毎週の礼拝の中で祈り、日々の生活の中で祈ります。そして、それは、信仰生活の最後までです。信仰生活の最初は主の祈りが大切だけれども、信仰が成長すれば、主の祈りも卒業だということではありません。そうではなくて、主の祈りに卒業はないわけです。私たちは、信仰生活の最初から最後まで、主の祈りを祈り続けていくことが求められているということです。そして、それは、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」と祈り続ける必要もあるということです。私たちが弱い者であることは、最初から最後まで変わらないということです。そして、その弱い私たちの希望は、自分が強くなることではなくて、どこまでいっても、神様の豊かな憐れみにあるということです。そして、憐れみ深い神様は、私たちを試みに遭わせないで、悪から救い出してくださる方です。

 私たちはどうでしょうか。

 主の祈りを祈りながら、私たちの弱さを認め続けていく者でありたいと思います。試みに打ち勝つことのできない、悪に打ち勝つことのできない者であることを覚えたいと思います。しかし、その私たちを、神様は、あらゆる試みから、あらゆる悪から守っていてくださる方であることを覚えたいと思います。そして、神様から守られている安心をいただいて、謙遜に前へ進んでいきたいと思います。

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