礼拝説教から 2022年7月31日

  • 聖書個所:マタイの福音書6章9-15節
  • 説教題:私たちの負い目をお赦しください

 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。↓ 『天にいます私たちの父よ。↓ 御名が聖なるものとされますように。↓ 御国が来ますように。↓ みこころが天で行われるように、↓ 地でも行われますように。↓ 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。↓ 私たちの負い目をお赦しください。↓ 私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。↓ 私たちを試みにあわせないで、↓ 悪からお救いください。』↓ もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

0.

 2月から、マタイの福音書5-7章、一般的に「山上の説教」と呼ばれる所を開いています。そして、ここ最近の何週かは、その山上の説教の中心にある主の祈りを見ています。

 イエス様は、主の祈りの中で、六つの祈りを教えていてくださいます。前半の三つは、神様に関する祈りです。イエス様は、何よりもまず、神様に関することから祈ることを教えていてくださるということです。そして、後半の三つが、私たちの必要に関する祈りです。イエス様は、神様に関することさえ祈っていれば、「自分たち自身のことなんて、何も気にしなくても良い」と言われているのではなくて、自分たち自身の必要についても、しっかりと祈り求めるべきことを教えていてくださるということです。そして、それは、神様ご自身が私たちの必要に関心を持っていてくださるということでもあるでしょう。

 先週は、六つの祈りの中の後半部分、私たちの必要に関する祈りの一つ目を見てみました。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」イエス様は、何よりもまず、私たちの生活そのものの問題のために祈るべきことを教えてくださいました。それは、誰よりも、神様ご自身が、私たちの生活を根本的に支えていてくださる方であることを信じて、その神様に生活の問題そのものを委ねて生きるということです。そして、それは、自分一人だけの問題ではありません。私たちは、共に生きるすべての人の食べて生きる問題のために、祈ることが求められているということです。

 今週は、主に12節から、五番目の祈りを見ていきたいと思います。

 

1.

 ここまで触れてきませんでしたが、私たちが慣れ親しんでいる主の祈りの言葉と、山上の説教に出てくる言葉は、微妙に違いがあります。五番目の祈りの言葉は、「我らの罪をもゆるしたまえ」になります。祈り求めているのは、罪の赦しです。しかし、山上の説教の中では、「負い目」という言葉が使われています。「罪」のことが、「負い目」という言葉で表現されていることになります。負い目を赦してくださいということです。

 負い目というのは、どういうことでしょうか。それは、誰かとの関係の中で、感じる負担ということになるでしょうか。誰かとの関係の中で感じる負担、それが負い目です。「申し訳ないなぁ」という気持ちとでも言えるでしょうか。助けてもらったけれども、迷惑をかけてしまっているけれども、十分なお返しができない、だからこそ、「申し訳ないなぁ」という負担を感じたりするわけです。他にも、相手を傷つけてしまったけれども、素直に謝ることができないような時に、「申し訳ないなぁ」という負担を感じることがあるでしょうか。

 私たちは、負い目を感じることがあるでしょうか。反対に、誰かに対して、「ちょっとは負い目を感じてくれよ」と思うことがあるでしょうか。恐らくは、どちらもあるのではないかと思います。

 ちなみに、負い目というのは、感じるものです。何か客観的な基準があって、その基準によって、負い目があるかどうかを判断することができるというものではありません。そうではなくて、負い目というのは、あくまでも、心の中で感じるものだということです。例えば、仮に、何か同じことをしたとしても、そのことで、負い目を感じる人もいれば、何の負い目も感じない人もいるのではないでしょうか。だからこそ、「そんなに負い目を感じなくてもいいよ」と言ってあげる必要があったり、「ちょっとは負い目を感じてくれよ」と言いたくなることがあったりするのかも知れません。いずれにしろ、負い目というのは、やっかいな代物だと言えるでしょうか。そして、その負い目について祈る必要があることを、イエス様は教えてくださっているということです。私たちには、「私たちの負い目をお赦しください」と祈る必要があるということです。そして、それは、神様に対してです。

 どういうことでしょうか。その一つの意味は、私たちが負い目のある者だということではないでしょうか。私たちは、神様の前で負い目のある者だということです。だからこそ、その負い目を赦してもらわなければならない者だということです。

 繰り返しになりますが、負い目というのは、感じるものです。感じるものであるがために、場合によっては、「私には誰にも何の負い目もない」と言うことのできる人もいるかも知れません。そして、それは、人と人との関係においてだけではないでしょう。神様との関係においても同じです。あるいは、むしろ、神様との関係においてこそ、私たちは何の負い目も感じないということがあるのかも知れません。私たちは、人と人との関係においては、負い目を感じることについて、少しは敏感であるとしても、神様との関係においては、それほど敏感ではないということです。あるいは、徹底的に鈍感であると言った方がいいのかも知れません。そして、神様との関係の中で、何の負い目も感じないことが、罪の恐ろしい所だということになるでしょうか。

 ルカの福音書18章を見ると、二人の人が神殿で祈った話が出てきます。

 一人は取税人と呼ばれる人です。取税人というのは、ユダヤの社会では嫌われていました。なぜなら、取税人たちは、自分たちの支配者であるローマ帝国の手先になって、甘い汁を吸っていたからです。それは、決して褒められることではなかったわけです。そして、実際に、取税人たちは、仲間であるユダヤ人たちに対して、負い目を感じていたことでしょう。しかし、行いを改めることはできなかったわけです。そして、だからこそと言えるでしょうか。取税人は、神様の前で憐れみを請い願うことしかできませんでした。赦しを請い願うことしかできませんでした。取税人は、自分が罪人であることを知っていたわけです。

 もう一人はパリサイ人と呼ばれる人です。パリサイ人は、ユダヤの社会の中で、指導的な立場にありました。社会の中で尊敬されていました。そして、神様の前でも、自分の善い行いをアピールしていました。しかし、神様の前では、認められることができませんでした。なぜなら、パリサイ人もまた、取税人と何も変わらない罪人だったからです。パリサイ人は、その自分の罪に気づいていなかったということです。

 罪というのは、何でしょうか。それは、神様を神様として恐れないことです。そして、その罪が恐ろしいのは、自分が罪の中にあることに気づかないということです。自分が罪人であることに気づかない、自分が罪の中にあることに気づかない、それが罪の恐ろしさだということです。

 しかし、その自分の罪に気づいたのが、クリスチャンです。クリスチャンというのは、自分の罪に気づいた人です。自分の罪を認めた人です。イエス様こそが、自分の罪が赦されるために、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださった救い主であることを、信じ受け入れた人のことです。イエス様によって、罪を赦された人のことです。しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。イエス様は、なおも罪の赦しのために祈り続けることを教えていてくださるということです。

 どういうことなのでしょうか。それは、私たちが、まだ罪の赦しを受け取っていないということではありません。私たちの罪の赦しが不完全だということでもありません。そうではなくて、私たちの罪の赦しは決して揺るがないわけです。私たちの罪は完全に赦されているわけです。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちは、なおも罪人だということです。私たちが罪人であることは、変わらないということです。あるいは、私たちは、自分が罪人であることを、とても忘れやすい者だと言ってもいいのかも知れません。私たちは、自分が罪人であることを忘れやすい者だということです。神様の前にある負い目を、どこかの棚に置いてしまうような者だということです。そして、そんな罪人の私たちに、イエス様は、「私たちの負い目をお赦しください」と祈るべきことを教えていてくださるということです。そして、それは、私たちが、神様の前にある自分の負い目を知っている者だからこそと言えるのではないでしょうか。イエス様は、神様の前にある自分の負い目を知っている私たちに対して、「私たちの負い目をお赦しください」という祈りを教えてくださったということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、主の祈りを祈りながら、罪人である自分を覚え、その罪人の自分が、神様から一方的に赦されている恵みを喜ぶことです。それは、信仰生活の最初から最後まで、決して変わることがありません。私たちは、信仰生活の最後まで、主の祈りを祈り続けていくわけです。信仰が深まって、神様に似た者となれば、罪を自覚することもなくなって、「私たちの負い目をお赦しください」と祈る必要もなくなるということではありません。そうではなくて、私たちは、最後まで、「私たちの負い目をお赦しください」と祈る必要がある者だということです。

 私たちはどうでしょうか。

 主の祈りを祈りながら、罪人の自分が神様から赦されている恵みを覚える者でありたいと思います。

 

2.

 私たちは、「我らの罪を赦し給え」と祈ります。しかし、その前に、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく」という言葉がくっついています。「我らに罪をおかす者を 我らが赦すごとく↩ 我らの罪をもゆるしたまえ」ということです。

 もしかしたら、「我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」と祈る時に、違和感を持つ人が多いかも知れません。「私たちが誰かの罪を赦さなかったら、私たちも神様から赦してもらえないのだろうか、うーん、どういうことなんやろう」と思う人が必ずいるわけです。主の祈りの言葉ではありませんが、14-15節の言葉などを見ると、私たちが誰かの罪を赦すのは、私たちの罪が赦されるための条件のように思えるわけです。

 どうなのでしょうか。

 結論から言えば、私たちが誰かの罪を赦すことは、私たちの罪が赦されるための条件ではありません。なぜなら、罪の赦しというのは、一方的な恵みとして、神様から無条件に与えられるものだからです。それは、私たちが、誰かを赦せなければ、誰かを愛せなければ、取り消されてしまうようなものではありません。そうではなくて、罪の赦しは、私たちがどうだからということではなくて、無条件に与えられているということです。そして、その神様の一方的な恵みとしての赦しが、無条件の赦しが、祈り求められていることの中心だということです。

 私たちが持っている新改訳2017では、「我らの罪をゆるしたまえ」という部分が、先に訳されています。「私たちの負い目をお赦しください。」私たちの負い目が赦されることを祈り求める、そのことがまず教えられているということです。

 しかし、それだけではありません。その後には、「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」という言葉が続きます。それは、祈り求めることというよりは、宣言のような言葉です。決意表明の言葉と言ってもいいでしょうか。

 「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」、それは、私たちが神様から負い目を赦してもらうための条件のようなものではありません。そうではなくて、神様から与えられた赦しの恵みに対する応答です。赦されるための条件ではなくて、クリスチャンに与えられた義務でもなくて、赦された恵みに押し出されて、私たちは、赦す者になるということです。大切なことは、神様の赦しの恵みをいただき続けることです。その神様の赦しの恵みの中で、赦す者になるということです。

 とは言っても、自分に負い目のある人たちを赦すというのは、決して簡単なことではありません。相手が負い目を感じていてくれたら、まだましかも知れません。相手が負い目を感じてくれていない場合もあるわけです。実際には、相手が負い目を感じてもいてくれない、そのような場合の方が多いと言ってもいいのかも知れません。そして、そのような場合には、余計に赦すことの難しさを覚えるでしょう。

 赦すというのは、苦しいことです。しかし、赦せないというのも、苦しいことです。どちらも苦しいことです。

 私たちはどうでしょうか。

 主の祈りを祈りながら、罪人の私たちが神様から赦されている恵みを覚えたいと思います。そして、その豊かな恵みに押し出されて、赦さない者ではなくて、赦す者として生きることができればと思います。

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