礼拝説教から 2022年7月3日

聖書個所:マタイの福音書6章5-8節

説教題:求める前から知っておられる父に

 また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。

 

1.

 今日のテーマである祈りというのは、私たちの信仰生活において、とても大切なことです。

 祈りというのは何でしょうか。それは、神様にお話しをすることです。神様との交わりです。御言葉によって、神様からの語りかけを聞いて、祈りによって、神様に答える、そこに神様と私たちとの交わりがあるということです。私たちと神様との交わりは、祈りによって、深まっていくのであり、相応しく整えられていくということです。そうであるならば、祈りというのは、とても善い行いに他なりません。しかし、その善い行いであるはずの祈りにおいても、私たちは間違いを犯してしまうことがあるということです。そして、イエス様は、二つの間違いを挙げておられます。その一つ目が、祈る時に偽善者たちのようであるということです。私たちは、祈る時に、偽善者たちのようであってはならないということです。

 どういうことでしょうか。

 先週の施しの所にも出てきましたが、偽善者というのは、他人の目を強く意識している人です。他人にほめられることを強く願っている人です。他人にほめられるために、善いと考えられている行いをする人のことです。だからこそ、会堂や大通りの角に立って祈ることが好きだったようです。わざわざ目立つ所に行って、自分の祈りを見せびらかしたということです。自分の立派な信仰生活が認められるために、施しをするのであり、祈るのだということです。

 どうでしょうか。私たちは、敢えて他人に見せるために祈るということは、しないと思います。しかし、そうであるにもかかわらず、祈る時に、他人の目が気になるというのは、よくあることなのではないでしょうか。例えば、礼拝の時に代表で祈る場合なんかには、私たちもまた、自分がいかに他人の目を気にしているかに気づかされるのではないでしょうか。「大丈夫やったかなぁ、『無茶苦茶な祈りしかできひん人やなぁ』て、思われたやろか」などということが気になるわけです。いずれにしろ、私たちは、祈る時に、他人の目を気にすることがあるということです。そして、私たちの祈りが、他人の目を気にするものになっているとすれば、それは、本質的に、偽善者が他人に見せびらかしている祈りと変わらないということです。つまり、祈りが、神様に向かっていないということです。祈りが、神様にではなくて、人に向かっているということです。

 どうすればいいのでしょうか。

 イエス様は、祈る時に、家の奥の自分の部屋に入りなさいと言われました。家の奥の自分の部屋で祈りなさいということです。

家の奥の自分の部屋というのは、他に誰もいない所です。自分しかいない所です。そして、誰もいない所であれば、自分しかいない所であれば、他人の目を気にしないで祈ることができるということです。人ではなくて、神様に向かって祈ることができるということです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、自分一人だけの所であるならば、他人の目を気にしないで、神様に向かって祈ることができるでしょうか。

 実は、意外と難しかったりするのではないでしょうか。一人きりであったとしても、祈りながら、いろいろなことを考えてしまったりすることはないでしょうか。祈りながら、「今日の晩御飯はどうしようかなぁ」と考えたりするようなことは置いておいて、自分の祈りについて、「上手に祈れていないなぁ」とか、「今日の祈りはまあまあやなぁ」などと思いながら、自分で自分の祈りを評価していることはないでしょうか。そして、自分の祈りが嫌になったり、自分の祈りに満足してしまったりすることはないでしょうか。

 イエス様は、「家の奥の自分の部屋」と言われました。

 皆さんは家の中に自分の部屋があるでしょうか。あるとすれば、それは、家の奥でしょうか。必ずしもそうではないのではないでしょうか。しかし、イエス様は、「家の奥」と言われています。「自分の部屋」が「家の奥」にあることを前提にしたような言い方をしておられます。

 ちなみに、フランシスコ会訳や聖書協会共同訳では、「家の奥の自分の部屋」というのは、ただ単に、「奥の部屋」と訳されています。ポイントは、奥まった所にあるということです。奥まった所にあって、ドアを締めれば、外からは覗き込むことのできない部屋です。しかし、それは、ただ単に、他人から見られないだけの部屋ではありません。窓がなくて暗い部屋です。自分でも自分が見えなくなるような、暗い部屋です。そして、その奥まった部屋で祈ることが求められているということです。

 どういうことでしょうか。それは、あらゆる目から、自由になる必要があるということではないでしょうか。それは、他人の目からだけではありません。自分自身の目も含めて、私たちは、祈る時に、あらゆる目から、自由になる必要があるということです。逆に言うと、そうしなければ、私たちは、神様の方を向くことができないということです。神様に向かっているはずの祈りにおいて、私たちは、他人の評価を気にしてしまうということです。自分で自分の祈りを判断してしまうということです。そして、祈りを、他人から評価されて満足するための道具にしてしまうということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、あらゆる目から自由になることのできる部屋、奥まった部屋を持つことであり、そこで祈ることです。あらゆる評価から自由になることのできる所で祈ることです。

 もちろん、だからと言って、イエス様は、人前で祈ることそのものを禁じておられるのではないでしょう。礼拝の中で誰かが代表して祈ることや、祈祷会のような集会を否定しておられるのではありません。むしろ、実際には、私たちは、教会の礼拝や祈祷会を通して、祈りを学んでいるわけです。教会で祈りを学びながら、それぞれがそれぞれの奥まった部屋で祈りの時を持つということです。祈りは個人の営みであると同時に、教会の営みでもあるということです。そして、大切なことは、人前であるにしろ、一人だけの所であるにしろ、人ではなくて、神様に向かって祈るということです。

 

2.

 イエス様は、祈る時に、異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返してはいけないと言われました。

 異邦人というのは、ユダヤの人々から見て、自分たち以外の人々のことを指しています。単なる外国人ということではなくて、真の神様を知らない人々のことです。ユダヤの人々の目から見れば、真の神様から見捨てられていると考えられていた人々です。そして、いずれにしろ、イエス様によれば、その異邦人というのは、祈る時に、同じ言葉をただ繰り返していたようです。なぜなら、彼らは、言葉数が多いことで、神様が祈りを聞いてくださると思っていたからだということです。とにかく必死のパッチで祈り倒せば、神様は必ず祈りを聞いてくださるはずだということです。そして、それは、逆に言うと、自分たちの祈りによって、神様をも支配することができるという思いに他なりません。神様は、自分たちの特別な努力によって、自分たちの願い通りに動いてくださるはずだということです。神様が主ではなくて、私たちが主になっているということです。

 イエス様は、ご自分の説教を聞くユダヤの人々に対して、異邦人と同じような祈り方をしてはいけないと言われました。それは、逆に言うと、真の神様を知っているはずのユダヤの人々も、異邦人のような祈り方をしているということに他なりません。真の神様を知っているはずのユダヤの人々も、真の神様を知らないはずの異邦人のような祈り方をしているということです。同じことばを繰り返しているということです。言葉数が多ければ、神様が祈りに答えてくださると思っているということです。

 どうしてでしょうか。それは、ユダヤの人々もまた、神様がどのような方であるかを知らないからだということではないでしょうか。

 イエス様は、祈りの中で同じ言葉を繰り返してはいけない理由として、「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」と言われました。神様は、私たちが求める前から、私たちに必要なものを知っておられるということです。そして、その必要が満たされることを、誰よりも神様ご自身が願っていてくださるということです。

 どうしてでしょうか。なぜなら、神様は私たちの「父」だからです。神様は、父として、子どもである私たちを愛していてくださるからです。そして、その父なる神様に向かってお話をすることが、祈りに他なりません。

 私たち夫婦には、二人の子どもがいます。子どもたちは、父親である私に、いろいろなことを話してきます。学校や幼稚園であったことを話すことがあるでしょうか。何かを書いたり作ったりしては、「見てー」と言ってきます。そして、私に話してくることの中には、当然のことながら、「あれがほしい、これがほしい」というような願い事も含まれています。子どもたちは、「あれがほしい、これがほしい」というようなことを言ってくるわけです。しかし、だからと言って、「あれがほしい、これがほしい」というような願い事が、すべてではありません。子どもたちが父親である私に話してくることは、「あれがほしい、これがほしい」という願い事だけではないわけです。いろいろなことを話すわけです。

 どうしてでしょうか。なぜなら、父親というのは、ただ単に、自分の願いを叶えてくれるだけの存在ではないからです。父親は、あくまでも父親であって、自分の願いを叶えてくれるだけの存在とは異なるということです。何も願い事がなければ、特に話しかける必要もない存在ということではないということです。願い事があろうがなかろうが、そこにはいろいろな会話や交わりがあるということです。そして、そのいろいろな会話や交わりを通して、子どもは、父を信頼していくことができるということです。父から愛されていることを知り、その父に対する信頼を深めていくということです。関係が深まっていくということです。

 繰り返しになりますが、祈りというのは、父なる神様にお話しをすることです。しかし、それは、ただ単に、願い事を聞いてもらうこととは異なります。そうではなくて、より深いレベルで、神様と交わりを持つことです。そして、その祈りにおいて、大切なことは、願い事が聞かれることではありません。そうではなくて、父なる神様から愛されていることを知ることです。私たちが願う以上に、私たちの必要を知っていてくださり、満たしていてくださる父なる神様の愛を知ることです。そして、その神様を信頼することです。神様と私たちとの関係が深まることです。

 神様は、私たちの救いのために、御子イエス様を十字架にかけてくださいました。それは、私たちが救いを願い求める前のことです。私たちが、救いの必要を知って、その救いを求めて、神様は、イエス様の十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださったのではありません。そうではなくて、私たちが救いを求める前に、神様は、私たちのために、私たちに必要な救いの道を備えてくださったということです。

 私たちの祈りはどうでしょうか。祈りを通して、神様の愛に気づかされているでしょうか。神様に対する信頼が深まっているでしょうか。あるいは、その反対に、祈りを通して、神様を自分の言いなりにしようとしていることはないでしょうか。

 神様が私たちの父であることを覚えたいと思います。神様は、私たちの願いを聞いてくださるだけの方ではなくて、私たちの父であることを覚えたいと思います。そして、その神様を見上げて、いつも祈る者でありたいと思います。私たちが求める前から、私たちに必要な救いの御業を成し遂げてくださった神様を信頼して、祈る者でありたいと思います。そして、その祈りの中で、父なる神様と子どもである私たちとの関係が豊かなものとなることを願います。

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