礼拝説教から 2022年6月26日

  • 聖書個所:マタイの福音書6章1-4節
  • 説教題:神様の前に立つ

 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。

 ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

1.

 イエス様は、「善行」、善い行い、気をつけなさいと言われています。それは、「人に見せるために人前で」「しないように」ということです。善い行いなんてどうでもいいということではありません。善い行いは大切だということです。ただし、人の前で、人に見せるためにしてはいけないということです。

 皆さんはどうでしょうか。善行、善い行いをしているでしょうか。善い行いをしているとすれば、それは、何のためでしょうか。

 ちなみに、自分が善い行いをしているかどうかを振り返ろうとするならば、そもそも、何が善い行いであるのかを知らなければならないでしょう。

 善行、善い行いというのは、何なのでしょうか。人助けをすることでしょうか。社会の役に立つことでしょうか。笑顔で気持ちの良い挨拶をすることでしょうか。他にも、いろいろなことが思い浮かぶかも知れません。

 今日の本文を含めて、6章1-18節には、三つの善い行い、善行が挙げられています。一つ目が施し、二つ目が祈り、三つ目が断食です。イエス様は、気をつけなければならない善行の例として、施し、祈り、断食を挙げておられるということです。

 施しをするというのは、困っている人に必要なものを分かち合うことであり、現在の私たちが考える善い行いのイメージと、ピッタリと一致しているのではないかと思います。しかし、祈りや断食が、善い行いだというのは、どうでしょうか。もしかしたら、何だかしっくりとこないかも知れません。

 ちなみに、今日の本文で「善行」と訳されている部分には米印が付いています。欄外の注によると、直訳では「自分の義を行わないように」という意味になるようです。「善行」の部分が「義」となっています。善行というのは、「義」ということになるでしょうか。実際に、「善行」と訳されている言葉をギリシア語の辞書で調べると、まさに「義」と訳される言葉が使われています。聖書でお馴染みの「義、」、イエス様が同じ山上の説教の中で、「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ」と言われた時の「義」です。それは、神様の民としての相応しい行いと言えるでしょうか。他の誰でもなく、神様から善いと認められる行いです。そして、その義の代表的な行いが、施しであり、祈りであり、断食だということです。

 しかし、イエス様が言われているのは、その善い行いをするにあたって、気をつける必要があるということです。具体的には、他人に見せるためにしてはならないということです。施しや祈りや断食のような善い行いを、他人に見せるためにしてはならないということです。

 どうしてでしょうか。それは、自分の善い行いを他人に見せることによって、神様から報いを受けられなくなるからだということです。自分の善い行いを他人に見せてしまうと、神様から報いを受けることができなくなるということです。

 どういうことなのでしょうか。

 イエス様は、善い行いの一つである施しをすることについて、「偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」と言われています。

 会堂や通りというのは、人が集まる所です。人の目につく所です。何か目立つことをすれば、注目の集まる所です。そして、自分の前でラッパを吹くというのは、自分のやっていることを派手に宣伝するということです。ラッパを吹いて、人々の注目を集めるということです。「見てください!!」ということです。「私はこんなに立派なことをしていますよ、私は神様を愛して、神様の教えに従っている立派な信仰者ですよ!!」ということです。しかし、それは、偽善者がすることだということです。

 どうでしょうか。ラッパを吹いて、他人の注目を浴びて、善い行いをするというのは、現在の日本に生きる私たちからすると、ちょっと露骨な感じがするかも知れません。私たちの多くは、そんな露骨なことをしないだろうと思います。特別に、イエス様から注意を受けなくても、自分の善い行いを派手にアピールするようなことは、しないのではないでしょうか。なぜなら、そんな露骨なことをすれば、かえって、他人に嫌われる恐れがあることを知っているからです。謙遜であることを美徳とする日本社会において、自分の善い行いをアピールするようなことは、歓迎されていないということです。私たちは、クリスチャンであろうとなかろうと、自分の善い行いを露骨にアピールするようなことを控えようとするわけです。

 しかし、だからと言って、そこには、他人にほめられたいという思いがないわけではないでしょう。他人にほめられたいという思いは、必ずあるということです。他人にほめられるために、善いと考えられていることをすることは、いくらでもあるということです。そして、その自分の善い行いが、上手に知れ渡って、ほめられることになれば、満足するということです。もちろん、言葉では、「いえいえ」と言いながら、謙遜さをアピールするでしょうか。「すべては神様がなさいました」と言ったりすることもあるかも知れません。しかし、心の中では「よっしゃ」と叫んでいるということです。だからこそ、本当に誰にも知ってもらえなければ、誰からも感謝されなければ、私たちは、落ち込んだり、腹が立ったりするのではないでしょうか。

 偽善者という言葉を聞くと、私たちは、とても嫌な感じのする人をイメージするかも知れません。しかし、イエス様が言われている偽善者というのは、必ずしも嫌な人ということではないのかも知れません。

 今日の本文で「偽善者」と訳されている言葉をギリシア語の辞書で調べると、最初に「俳優」という意味が出てきます。イエス様の時代であるならば、それは、演劇の俳優、舞台の俳優ということになるでしょうか。いずれにしろ、それは、演技をする人です。本来の自分とは異なる役を演じて、見ている人を喜ばせる仕事です。そして、それが、イエス様の言われている偽善者の本質ということになるでしょうか。

 偽善者というのは、善い人に見せかけて、腹の中では悪いことを企んでいる、そんな嫌な感じの人というイメージがあります。しかし、より本質的には、他人の目を強く意識している人なのではないでしょうか。他人にほめられることを強く願っている人なのではないでしょうか。他人にほめられるために、善いと考えられていることをする人のことではないでしょうか。そして、それは、要するに、自分自身に注目をしているということです。他人のためであることを謳いながら、結局の所は、自分の満足を考えているということです。自分の満足のために、他人を利用しているに過ぎないということです。自分が中心になっているということです。

 もちろん、他人にほめられることそのものが、必ずしも悪いということではないでしょう。むしろ、他人にほめられるのは、とても大切なことと言えるでしょう。私たちは、他人からほめられることを通して、自信を得ることができたり、やる気が出てきたりして、それが成長につながるわけです。イエス様も、他人にほめられることそのものを否定しておられるのではないでしょう。他人にほめられることを願ってはいけないと言っておられるのではないわけです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、他人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなければならないと言われているわけです。他人にほめてもらうために、自分の施しをアピールしてはいけないと言われているわけです。

 どういうことでしょうか。

 イエス様は、「まことにあなたがたに言います」と言われました。「まことにあなたがたに言います」というのは、とても大切なことを言われる時のサインとも言えるような言葉です。そして、イエス様は、「彼ら」、つまり、偽善者たちが「すでに自分の報いを受けている」と言われました。偽善者たちはすでに自分の報いを受けているということです。そして、それは、十分に他人からほめられたということです。施しを受けた人から感謝されて、周りの人々からも認められて、見返りを十分に受け取ったということです。しかし、そこに問題があるということです。なぜなら、他人からの報いを求めて受け取ったら、神様からの報いを受け取ることができなくなるからだということです。そして、大切なことは、他人からの報いを受け取ることではなくて、神様からの報いを受け取ることだということです。

 それでは、神様からの報いを受け取るというのは、どういうことでしょうか。

 イエス様は、施しをする時に、右手がしていることを左手に知られないようにと言われました。右手がしていることを、左手に知られてはいけないということです。

 どういうことでしょうか。それは、ただ単純に、他人に自分の善い行いをアピールしてはいけないというだけのことではないでしょう。それだけではなくて、自分自身にもアピールをしないということではないでしょうか。そして、それは、自分の善い行いを、いちいち気に留めないということです。すぐに忘れてしまえということです。そして、その目的は、私たちの施しが、隠されているためだということです。私たちの施しが隠れた所にあるならば、隠れた所におられる神様が見ていてくださり、報いてくださるということです。誰にも知られることなく、ほめられることもなく、自分でも忘れているならば、神様ご自身が報いてくださるということです。

 人というのは、忘れる動物です。そして、忘れることができるというのは、幸いなことです。もちろん、忘れないで覚えておかなければならないこともあるでしょう。忘れてしまって、問題が起こる場合もあるでしょう。

 しかし、忘れなければならないのに、忘れることができなくて、困ることもあります。そして、その一つが、自分の善い行いではないでしょうか。

 私たちは自分の善い行いを忘れなければなりません。しかし、なかなか忘れることができません。私たちは自分の善い行いを忘れることができないということです。だからこそ、その善い行いが、誰かに知られることを願います。自分の善い行いをほめてほしいと思います。そして、誰にも知られなければ、誰にもほめてもらえなければ、寂しさを感じたりします。悪い場合には、ほめてくれない人々を責めたり憎んだりします。つまり、善いはずの行いによって、人と人との関係がぎくしゃくしたものになってしまうということです。

 繰り返しになりますが、イエス様は、私たちが施しをする時に、右の手がしていることを、左の手に知られないようにしなさいと言われました。それは、自分の施し、自分の善い行いを、誰にもアピールするなということです。それは、人に対してだけではなくて、神様に対しても、同じです。人の前でも、神様の前でも、自分の善い行いを誇ってはならないということです。逆に、忘れてしまえということです。しかし、その忘れられた善い行いを、神様は必ず覚えていてくださるということです。忘れられた善い行いに対して、神様は必ず報いてくださるということです。大切なことは、自分の善い行いを忘れるということです。そして、それは、私たちが神様の前に立つ時にこそできることです。神様の前に立って、神様が御子イエス・キリストによって、私たちのためにしてくださったことを覚える時に、私たちは、自分のどのような善いと思われる行いも、何も誇ることができないことに気づかされるのであり、忘れることができるということです。

 私たちはどうでしょうか。自分の善い行いを忘れているでしょうか。自分の善い行いにこだわっているでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、神様の前で、御子イエス・キリストを通していただいた救いの恵みに感謝したいと思います。その大きな恵みの中で、自分の小さな行いにこだわることから解放されることができればと思います。そして、そこから、健全な施し、善い行いに生きる者となることができればと思います。

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