礼拝説教から 2022年6月19日

  • 聖書個所:マタイの福音書5章43-48節
  • 説教題:神様の完全な愛をいただいて

 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 

0.

 2月から、マタイの福音書の中で、山上の説教と呼ばれている所を開いています。

 イエス様は、その山上の説教の中で、ご自分が、神様の言葉である律法を廃棄するためではなくて、成就するために来たということを宣言されました。イエス様は律法を成就する方だということです。それは、イエス様が、ただ単に、律法の意味を正しく教える方というだけのことではないでしょう。そうではなくて、イエス様は、律法を行って、その目的とする所を、実現させる方だということです。そして、それは、神様と私たちとの関係の回復と言えるでしょうか。イエス様は、私たちが、神様との正しい関係の中に生きるために、律法を成就してくださったということです。

 イエス様は、ご自分が律法を成就する方であることを宣言しながら、律法そのものの言葉や、律法に対する人々の解釈の言葉を取り上げながら、律法に従って生きる新しい道を教えられました。全部で六つの言葉が取り上げられています。今日はその六番目、最後の言葉になります。

 

1.

 イエス様が取り上げられた言葉の中で、前半の「あなたの隣人を愛し」というのは、律法の言葉です。具体的には、レビ記19章18節の言葉になります。神様の御心は、隣人を愛するということです。

 しかし、後半の「あなたの敵を憎め」という言葉は、律法の中にありません。律法だけではなくて、聖書全体を見回しても、「あなたの敵を憎め」という言葉は見つかりません。しかし、その「あなたの敵を憎め」ということが、少なくともイエス様の時代には、ユダヤの人々の間で教えられていたということになるでしょう。しかも、「あなたの隣人を愛しなさい」という言葉とセットで教えられていたということです。簡単に言えば、「隣人は愛するべきであるけれども、敵は憎んでも良い」ということになるでしょうか。

 しかし、どうなのでしょうか。隣人を愛して、敵を憎むというのは、どういうことなのでしょうか。そもそも、隣人と敵というのは、はっきりと区別することができるのでしょうか。なぜなら、隣人というのは、とても曖昧な意味の言葉だからです。

 隣人というのは、誰のことなのでしょうか。

 今日の本文の中で、「隣人」と訳されている言葉を、ギリシア語の辞書で調べてみると、最初に、「近くに、近所に、隣に」という意味が出てきます。隣人というのは、何よりもまず、近所の人、隣に住む人ということになるでしょうか。日本語の「隣人」という言葉の通りに、隣近所に住む人だということです。そして、その隣近所に住む人は、愛さなければならないということです。敵は憎んでもいいけれども、隣人は愛さなければならないということです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、隣近所に住んでいる人との関係が、すべて上手くいっていると言えるでしょうか。必ずしも、そうとは言えないのではないでしょうか。隣近所にも、敵と呼びたくなるような関係の人は、いたりするのではないでしょうか。隣近所どころか、家族の中でも、そうではないでしょうか。最も近くに住む家族の中でも、敵対関係が生まれることは、あるのではないでしょうか。そして、そうであるならば、「隣人を愛して、敵を憎め」という教えは、成り立たないことになります。隣人は愛さなければならない、しかし、その隣人と敵のような関係になってしまったら、愛さなければならないのか、憎まなければならないのか、分からなくなってしまいます。つまり、隣人を愛して、敵を憎むというような区別は、最初からできないということです。隣人と敵の区別は、最初からできないということです。なぜなら、隣人の中にも、敵と呼びたくなるような関係の人は、含まれているからです。そして、そうであるならば、「隣人を愛して、敵を憎め」と教えられている時の「隣人」というのは、結局の所は、「仲の良い人」ということでしかないでしょう。仲の良い人こそが隣人であり、仲の悪い人は、敵として憎むことが認められるということです。もちろん、仲の良い人も、仲が悪くなれば、すぐに敵になってしまうのは、言うまでもないことでしょう。つまり、「隣人を愛して、敵を憎め」というのは、仲の良い人とだけ仲良くするということです。それは、実に、自分勝手な教えと言ってもいいのかも知れません。そして、イエス様の時代に、ユダヤの人々は、その「隣人を愛して、敵を憎め」ということを教えていたということです。

 イエス様は、「取税人」、「異邦人」と呼ばれる人々を取り上げられました。取税人や異邦人というのは、ユダヤの人々にとって、まさに敵のような人々でした。

 何度も分かち合っていますが、異邦人というのは、外国人という意味の言葉ですが、ユダヤの人々は、軽蔑の意味を込めて、自分たち以外の人々を異邦人と呼んでいました。神様からご自分の民として選ばれた自分たちとは違って、神様から見捨てられた人々として、神様の救いから遠ざけられた人々として、ユダヤの人々は、異邦人を見下して、敵のように考えていました。

 また、取税人というのは、同じユダヤ人でしたが、自分たちを支配するローマ帝国に、積極的に協力をして、甘い汁を吸っていた人々です。ユダヤの人々にしてみれば、神様を信じない人々に、自分たちの国、自分たちの民族を売った裏切り者です。敵以外の何者でもないでしょう。

 しかし、イエス様が指摘されたのは、律法に従っていると思っていたユダヤの人々も、取税人や異邦人と何も変わらないということです。ただ、自分を愛してくれる人を愛しているだけのことだということです。自分の兄弟にだけ挨拶しているだけのことだということです。つまり、仲の良い人とだけ仲良くしているだけだということです。そして、それは、隣人を愛することとは、似ても似つかないということです。

 それでは、隣人を愛するというのは、どういうことでしょうか。

 イエス様は、はっきりと言われました。それは、自分の敵を愛しなさいということです。自分を迫害する者のために祈りなさいということです。つまり、隣人を愛するというのは、敵を愛するということであり、自分を迫害する者のために祈るということです。そして、それは、隣人の中に、最初から敵が含まれているということでもあります。隣人と敵の区別なんかは、最初からできないということです。神様は、最初から、仲の良い人も、仲の悪い人も、何の区別もすることなく、愛することを教えておられるということです。そして、それは、神様ご自身が、私たちのために、してくださっていることでもあります。

 父なる神様は、悪人にも善人にも、太陽を昇らせてくださいます。正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせてくださいます。神様は、悪人には太陽を隠して、善人にだけ太陽を昇らせてくださる方ではないわけです。正しくない者には雨を降らせないようにして、正しい者にだけ雨を降らせてくださる方ではないわけです。そうではなくて、悪人と善人の区別をしないで、正しい者と正しくない者との区別をしないで、すべての人にご自分の恵みを注いでいてくださるということです。神様の愛は、善人や正しい者だけではなくて、悪人にも正しくない者にも、豊かに注がれているということです。

 善人や正しい者だけではなくて、悪人にも正しくない者にも、神様の愛が注がれているというのは、どうでしょうか。

 「善人や正しい者が愛されるのは当然、でも、悪人や正しくない者が、同じように愛されるのは納得がいかない」というようなことを思うでしょうか。「悪人や正しくない者に必要なのは、愛ではなくて、ムチだ」というようなことを思うでしょうか。あるいは、その反対に、「悪人や正しくない者にまで、注がれている神様の愛は、何て素晴らしいんだ」ということを思うでしょうか。

 悪人というのは、誰のことでしょうか。正しくない者というのは、誰のことでしょうか。

 それは、私たち自身のことなのではないでしょうか。他でもなく、私たち自身が、悪人であり、正しくない者なのではないでしょうか。そして、神様は、その私たちに豊かな愛を注いでいてくださるということです。神様は、悪人であり正しくない者である私たちには、太陽を隠されるということではありません。雨を降らせないということではありません。そして、「滅んでしまえ」と言われているのではありません。そうではなくて、悪人であるにもかかわらず、正しくない者であるにもかかわらず、神様は私たちに完全な愛を注いでいてくださるということです。そして、その愛に気づかされる時、自分が神様の愛によって生かされている者に過ぎないことを受け入れる時、「悪人に情けは必要ない」というようなことは言えないということです。むしろ、その反対に、悪人や正しくない者のために祈る道へと導かれていくということです。自分を迫害する者のために祈る道へと導かれていくということです。

 私たちはどうでしょうか。敵を愛しているでしょうか。自分を迫害する者のために祈っているでしょうか。私は、とても難しいなぁということを、いつも痛感させられています。

 先週の礼拝の中で分かち合ったことと重なりますが、「自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えられたイエス様は、他でもなく、ご自分を迫害する者のために祈られた方でした。ルカの福音書によれば、イエス様は、十字架につけられた時に、ご自分を十字架につけた人々のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」。イエス様は、ご自分を十字架につけた人々のために祈られました。自分のしていることが何も分かっていない人々のために、その罪が赦されることを祈られたということです。そして、その祈りがあったからこそと言えるでしょうか。私たちは、自分のしていることに気づかされたのであり、その自分を赦してくださったイエス様の愛に気づかされたということです。イエス様の愛を受け取って、神様の子どもとしていただいたということです。そして、その神様の子どもだからこそ、私たちは、敵を愛する生き方、自分を迫害する者のために祈る生き方が求められているということです。

 ちなみに、これまでにも分かち合っていることですが、愛するというのは、好きになるということとは異なります。好きというのは感情の問題ですが、愛するというのは、意志や決断の問題です。もちろん、愛するということにおいて、感情が無視されていいということではないでしょう。しかし、好きにならなくても、愛することはできるということです。好き嫌いを越えて、愛することが求められているということです。祈ることが求められているということです。そして、それが、完全な愛と言ってもいいのかも知れません。

 イエス様は、「完全でありなさい」と言われました。そして、それは、「あなたがたの天の父が完全でるように」ということです。神様は完全な方であり、その神様のように、完全でありなさいということです。そして、それは、好き嫌いで、相手を区別しないということです。与えられている隣人との関係の中で、仲の良し悪しによって、相手を区別しないということです。仲の良い隣人も、仲の悪い隣人も、変わることなく愛するということです。

 神様は完全な方です。完全な愛で、私たち一人一人を導いてくださる方です。しかし、私たちは決して完全な者ではありません。愛することのできない者です。自分を愛してくれる人しか愛することのできないような者です。

 どうすればいいのでしょうか。

 それは、とにかく一大決心をして、気持ちを奮い立たせていくということではないでしょう。とにかく必死になって、すべての人を愛し抜くということではないでしょう。そうではなくて、神様の完全な愛を受け取り続けていくことです。不完全な自分の愛を認めながら、その自分をそのままに受け止めていてくださる神様の完全な愛を受け取り続けていくことです。そして、その神様の完全な愛が私たちを完全へと導いてくださるということです。

 私たちの愛はどうでしょうか。

 太陽や雨の恵みを覚えながら、そして、何よりも、イエス様の十字架の死と復活を見つめながら、神様の完全な愛に感謝したいと思います。神様の完全な愛を受け取り続けていきたいと思います。そして、その神様の完全な愛の中で、敵を愛する生き方へと導かれていくことができればと思います。

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