礼拝説教から 2022年6月12日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章38-42節
  • 説教題:悪い者に手向かわない

 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。

 

0.

 先週は、ペンテコステにちなんで、コリント人への手紙第一から、聖霊と教会について分かち合いました。一言でまとめるなら、それは、教会が聖霊の御業に他ならないということです。教会は聖霊の御業だということです。そして、私たちが、毎週の礼拝の中で、使徒信条によって、「聖霊を信じる」、「聖なる公同の教会を信じる」と告白する時、求められているのは、教会が聖霊の御業であることを信じるということであり、教会を導いていてくださる聖霊を、いつも信頼するということです。

 今週からは、マタイの福音書5-7章に戻りたいと思います。山上の説教と呼ばれている所です。

 イエス様は、山上の説教の中で、旧約聖書の律法を廃棄するためではなくて、成就するために来たと言われました。そして、律法そのものの言葉や律法に対する解釈の言葉を取り上げながら、律法本来の意味を教えておられます。全部で六つの言葉が取り上げられています。今日は5番目の言葉です。それは、「目には目を、歯には歯を」という言葉です。

 

1.

 「目には目を、歯には歯を」というのは、ノンクリスチャンの間でも、とてもよく知られている言葉ではないでしょうか。私は、高校の世界史か何かで、「目には目を、歯には歯を」という言葉を習ったように思います。出典は、旧約聖書の律法ではなくて、ハムラビ法典だったと思います。バビロニア帝国のハムラビ王が作ったというハムラビ法典です。

 私は、教科書に出てきた言葉を覚えただけで、その意味を教わりはしなかったと思いますが、とてもひどい言葉だなぁということを思っていました。なぜなら、「目には目を、歯には歯を」という言葉を、「やられたら、やり返せ」というような意味に理解したからです。何だか、仕返しを煽っているように感じるわけです。そして、後に、教会に導かれて、聖書を読むようになって、同じ「目には目を、歯には歯を」という言葉が出てくるのを見た時には、とても驚きました。「愛を教える聖書の中で、仕返しを教えているなんて」ということを思ったわけです。現在の朝の連続テレビ小説の言葉を用いるなら、「まさかやー」という感じです。

 しかし、後に聖書を学んでいくようになると、「目には目を、歯には歯を」というのは、仕返しを教えているのではないことが分かってきました。一般的には、二つの意味があると理解されているでしょうか。

 一つ目は、行き過ぎた仕返しを抑えるということです。

 どうでしょうか。私は、気が弱いので、「やられたら、やり返す」というのが苦手なのですが、人の復讐心というのは、止まる所を知りません。私たちは、一発殴られたら、一発殴り返すだけでは気が済まない、二発も三発も殴り返してしまうということが、いくらでもあるわけです。もちろん、相手も黙ってはいないでしょう。さらに反撃があって、ケンカがどんどんエスカレートしていくわけです。ドラマや映画なんかでは、よく出てきそうな感じがしますが、それは、ドラマや映画の中だけの話ではないでしょう。現実の世界においても、やられた以上のことをやり返すようなことは、いくらでもあるわけです。つまり、「目には目を、歯には歯を」では済まないということです。目をやられたら、歯をやられたら、それ以上の仕返しをしてしまうことがあるということです。そして、「目には目を、歯には歯を」というのは、その行き過ぎた仕返しを抑えることが目的だということです。「やられたら、やり返せ」と、仕返しを煽っているのではなくて、その反対に、仕返しを抑えることが目的だということです。

 そして、二つ目に、「目には目を、歯には歯を」という定めは、個人に対してではなくて、裁判官に与えられたものだということです。

 殴られて歯を折られたら、自分の判断で、勝手に相手の歯を折ってやってもいいということではありません。裁判官が、公正に判断をして、「目には目を、歯には歯を」という判決を下すのだということです。つまり、「目には目を、歯には歯を」というのは、個人的な仕返しを禁じる役割も果たしているということです。

 「目には目を、歯には歯を」、それは、行き過ぎた仕返しを抑えること、個人的な仕返しを禁じることを、目的としています。それは、社会の秩序が守られるために、とても大切な定めだったと言えるでしょう。

 ちなみに、イエス様の時代、律法学者と呼ばれる人々は、その「目には目を、歯には歯を」という定めを逆に用いて、個人的な仕返しを認めていたようです。「目をつぶされたら、目をつぶし返しても良い」、「歯を折られたら、歯を折り返しても良い」ということです。個人的な仕返しを禁じるための定めによって、個人的な仕返しを煽っていたということです。あるいは、そのような背景があったからこそと言えるでしょうか。イエス様は、「目には目を、歯には歯を」という言葉を取り上げながら、さらに踏み込んだことを教えられました。

 イエス様は、まず、悪い者に手向かってはならないと言われました。具体的には、右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさいということです。

 右の頬を打たれるというのは、単なるケンカではありません。ひどい侮辱を受けるということです。そして、そのひどい侮辱を受けた場合には、抵抗するのではなくて、反対に、左の頬も向けるということです。

 二つ目は訴えられている場面のようです。そして、その上着を取るということからすると、それは、借金を返すことができなくて、下着や上着が借金のカタに取られるということのようです。借金のカタに、下着を取られるような場合には、上着まで取らせるということです。

 ちなみに、下着というのは、私たちの感覚で言えば、普通の服のことです。上着というのは、文字通りの上着であると共に、夜には布団代わりにもなったようです。そして、いずれにしろ、ユダヤの人々にとって、上着というのは、単なる一つの服ということではありませんでした。特に貧しい人々にとっては、大切な財産でした。律法の中でも、上着だけは、借金のカタに取っても、夕方までに返さなければならないと定められていたわけです。上着は、大切な財産であり、保障されている最低限の権利でした。しかし、イエス様は、その上着までも取らせなさいと言われたわけです。そして、それは、自分の権利を主張しないということを意味しています。

 三つ目はローマ帝国が関わっています。イエス様の時代、ユダヤの地域は、ローマ帝国の支配を受けていました。そして、ローマ帝国の兵隊たちは、ユダヤの人々を荷物運びとして、強制的に用いることができたようです。その距離が1ミリオンだったということです。ローマの兵隊たちは、ユダヤの人々に荷物を持たせて、1ミリオンの距離を行かせることができたということです。1ミリオンというのは、1500メートルほどの距離になるようです。

 ユダヤの人々にとって、ローマの兵隊たちから、荷物運びに駆り出されることは、屈辱的なことだったでしょうか。しかし、イエス様は、強制されて1ミリオン行くだけではなくて、2ミリオン行きなさいと言われたわけです。そして、それは、嫌々ではなくて、喜んで従うということです。

 イエス様は、最後に、求める者に与えなさいと言われました。もちろん、何も考えずに、求められるままに与えることが教えられているということではないでしょう。そうではなくて、出し惜しみをしないということです。自分の必要のために、自分を守るために、出し惜しみをするのではなくて、本当に必要としている相手に対しては、積極的に分かち合っていくということです。

 簡単に四つの言葉を見てみましたが、どうでしょうか。

 私は、イエス様の言葉を見ながら、「そんなことを言われてもなぁ」ということを思いました。右の頬を打たれて、左の頬を向けるなんて、とてもできないと思いました。そして、それは、私だけのことではなくて、多くの人が思うことではないでしょうか。イエス様は実際に極めて難しいことを要求しておられるわけです。

 どうなのでしょうか。イエス様は、私たちにできないことを、一方的に要求しておられるのでしょうか。イエス様の求めておられることは、理想にすぎないことなのでしょうか。

 ちなみに、イエス様が山上の説教で教えておられること、それは、私たちに一方的に要求されていることではありません。そうではなくて、誰よりもまず、イエス様ご自身が、実践されたことです。イエス様は、私たちだけに一方的に要求しておられるのではなくて、ご自身がまず実践をされたということです。

 イエス様は十字架への道を歩かれました。それは強制された道でした。罪人たちによって、強制された道です。そして、イエス様は、その道を歩かれました。しかも、それは、嫌々ながらではありませんでした。イエス様は、十字架への強制された道を、積極的に歩かれたということです。

 そして、イエス様は、誰よりもひどい侮辱を受けられました。罪のないイエス様が死刑の道具である十字架にかけられたのは、イエス様に対する侮辱以外の何ものでもありません。そして、十字架の上では、具体的にひどい侮辱の言葉が投げかけられました。しかし、イエス様は、決して仕返しをしようとはされませんでした。屈辱を味わいながら、怒りに身を任せて、復讐を誓われたのではありませんでした。どのような権利も主張されませんでした。そして、求める人々に、ご自分の命を与えられました。

 今日の本文の中で、イエス様が教えておられることというのは、この世界の常識で言えば、「そんなあほなこと」と言ってもいいのかも知れません。右の頬を打たれて、左の頬も向けるというのは、「あほかいな」と言いたくなるようなことです。借金のカタに、下着を持っていこうとする人に、上着まで持っていかせるというのも同じです。1ミリオンの距離を強制的に行かされる時に、喜んで2ミリオン行くというのも同じです。「そんなあほなこと、できるかいな」と言いたくなるようなことです。しかし、イエス様は、その「そんなあほなこと」をしてくださったということです。

 もし、「目には目を、歯には歯を」という言葉が機械的に当てはめられるなら、どうでしょうか。イエス様の命を奪った罪人の私たちは、その命に対して、命を取られなければならないのではないでしょうか。しかし、イエス様は、仕返しを完全に放棄してくださっています。罪人の私たちに背を向けないで、罪人の私たちと積極的に歩いていてくださいます。だからこそ、イエス様がご自身の教えを実践してくださったからこそ、私たちは赦されているということです。新しく生きる道が開かれているということです。そして、その新しい道が、左の頬を向けることであり、上着まで取らせることであり、一緒に2ミリオンを行くことであり、与えることです。

 イエス様が教えていてくださる生き方、それは、人間業ではありません。私たちの内側にいてくださる聖霊の御業です。聖霊によって新しくされなければ、できない生き方です。それは、極めて難しい生き方です。しかし、何よりも幸いな生き方です。

 私たちはどうでしょうか。

 イエス様の十字架の死と復活を見上げながら、内側にいてくださる聖霊に助けられながら、喜んでイエス様に従っていく者でありたいと思います。そして、私たちの小さな一歩一歩が、仕返しの連鎖を断ち切り、命が守られることにつながることを、心から願います。

コメントを残す