礼拝説教から 2022年6月5日

  • 聖書箇所:コリント人への手紙第一12章12-13節
  • 説教題:一つの御霊の教会

 ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。

 

0.

 今日は、教会独自のカレンダー、「教会暦」において、「ペンテコステ」と呼ばれる日です。ペンテコステというのは、クリスマスやイースターとは違って、教会の外では、まだまだ馴染みのある言葉ではないかも知れません。しかし、クリスチャンである私たちにとっては、とても大切な日になります。なぜなら、クリスマスがイエス様の誕生を記念する日、イースターがイエス様の復活を記念する日であるならば、ペンテコステというのは、イエス様を信じる人々の上に、聖霊が与えられた日だからです。

 今から約二千年前、イエス様は十字架にかかられました。死んで復活されました。それは、私たちが、罪を赦されて救われるために、神様との関係の中で新しく生きるために、イエス様が成し遂げてくださったことです。そして、そのイエス様の復活の日から五十日後がペンテコステになります。

 ペンテコステの日、イエス様を信じる弟子たちの上に、聖霊が降りました。聖霊というのは、復活されたイエス様が、天に昇る前に、弟子たちに与えられると約束されていた神様の霊です。弟子たちは、イエス様が約束してくださっていた聖霊を受け取ったということです。そして、その約束の聖霊を受け取って、イエス様を信じる弟子たちの集まりが、新しい時代の教会となって、現在に至っているということです。ペンテコステは教会の誕生日という言い方がされる場合もあります。

 昨年のペンテコステの日には、ペンテコステの出来事を描いた使徒の働き2章を開きました。今年は、コリント人への手紙第一12章12-13節を開きました。使徒パウロが、聖霊によって誕生した教会について分かち合っている所です。今日は、そのコリント人への手紙第一12章12-13節から、聖霊と教会について、少し分かち合うことができればと思います。

 

1.

 パウロは、今日の本文の直前と所で、聖霊の賜物について分かち合っています。

 パウロによれば、聖霊の賜物は様々です。それは、例えば、知恵や知識の言葉を語ることであったり、癒しや奇跡を行うことであったりします。聖霊を受け取った私たちには、様々な賜物が与えられています。しかし、その様々な賜物を分け与えてくださっているのは、一つの聖霊だということです。一つの聖霊が、私たち一人一人に、相応しい賜物を分け与えてくださっているということです。そして、私たちに様々な賜物が与えられているのは、教会全体の益となるためです。

 パウロは、その教会について、今日の本文の所では、「からだ」と「部分」という言葉を使って説明しています。

 体にはたくさんの部分があります。どんな部分があるでしょうか。手や足があります。顔があります。顔の中には、目や鼻があります。他にもたくさんの部分があります。目に見える部分もあれば、目に見えない部分もあります。細かく分けようと思えば、本当にたくさんの部分に分けることができるでしょう。しかし、そのたくさんの部分から成る体は一つだということです。そして、そのたくさんの部分から成る一つの体というのが、キリストを頭とする教会だということです。キリストを頭とする教会は、たくさんの部分から成る一つの体だということです。

 それでは、パウロが、教会のことを、キリストを頭とする一つの体と表現しているのは、どうしてでしょうか。今日の本文には含めませんでしたが、14節以降の部分を見ていく時、その理由の一つは、一人一人が大切な存在であることを示すためとでも言えるように思います。

 体の部分というのは、あってもなくても良いものではありません。体の部分の中に、あってもなくても良いものは、一つもないということです。どの部分も、役に立っていないような部分も、大切であり、必ず必要だということです。

 かつて、体の中で、何の役にも立っていないと考えられていた臓器があります。必要ないと考えられていた臓器があります。

 何でしょうか。それは盲腸です。私は経験がないですが、ものすごい激痛を引き起こす、やっかいな奴です。

 盲腸は、長い間、必要がないものと考えられていました。何の役にも立っていないと考えられていました。しかし、最近の研究では、その盲腸も、体の中で大切な役割を果たしていることが分かっているということです。評判の悪かった盲腸も、実はなくてはならないものだったということです。

 パウロは、教会のことを、キリストを頭とする一つの体と表現しました。一つの体が多くの部分から成り立っていると説明しました。そして、それは、どのような部分もなくてはならない存在だということです。頭であるキリストにとって、なくてもいい部分は一つもないということです。キリスト・イエスは、一人一人を大切にしていてくださるということです。だからこそ、ご自分の命を犠牲にまでして、私たちの罪を赦してくださったのであり、私たちをご自分との関係の中で新しく生きる者として招いてくださっているということです。あるいは、教会は、一人一人が大切にされる所と言ってもいいのかも知れません。

 私たちの教会はどうでしょうか。

 

2.

 パウロは、キリストを頭とする教会が、一つの体である根拠を説明しています。それは、自分たちが、一つの聖霊によって、バプテスマを受けた、洗礼を受けたということです。同じ一つの聖霊によって、洗礼を受けたからこそ、頭であるキリストに結び付けられているのであり、一つの体である教会を一緒に形作っているということです。教会がキリストを頭とする一つの体であるのは、一人一人が同じ一つの聖霊によって、洗礼を受けたからだということです。そして、それは、キリストを頭とする教会が、聖霊の働きに他ならないということです。教会は、最初から最後まで、聖霊の働きに他ならないということです。私たちが教会として集まることができているとすれば、それは、聖霊が働いていてくださるからだということです。聖霊が働いていてくださるからこそ、私たちは、キリストを頭として告白しているのであり、キリストの体として集まっているということです。そして、それは、ペンテコステの時から現在に至るまで、変わることがないということです。

 ちなみに、パウロは、自分たちが同じ一つの聖霊によって洗礼を受けたことについて、「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も」という言い方をしています。パウロの手紙を受け取るコリントの教会には、ユダヤ人もいれば、ギリシア人もいたのであり、奴隷もいれば、自由人もいたということです。

 どうでしょうか。

 現在の日本に住む私たちからすれば、「ユダヤ人もギリシア人も」と言われても、あまりピンとこないかも知れません。「奴隷も自由人も」という言葉も、言葉の意味そのものは理解できても、それがどのようなことであるのかは、あまり実感が湧かないかも知れません。いろいろな国や民族の人、いろいろな身分の人が、一つの教会に集まっていたことを想像するぐらいかも知れません。多様性が尊重されていたことを覚えるぐらいかも知れません。しかし、パウロの手紙を受け取った当時の人々にとって、それは、これ以上ないほどに、インパクトのある言葉だったと言えるでしょう。

 ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人、それは、水と油のようなものです。絶対に混ざり合うことのできないものです。ユダヤ人とギリシア人、奴隷と自由人というのは、決して一緒にいることのできない人々ということです。人間的な常識で見れば、絶対に一緒にいることのできない人々が、一つの教会に集まっているということです。しかも、一つの体とまで言われているわけです。そして、それは、教会が、人間業ではなくて、聖霊の御業に他ならないことを示しています。聖霊の働きがあるからこそ、ユダヤ人とギリシア人のような人々が、奴隷と自由人のような人々が、一緒に集まることができるということです。それは、聖霊の麗しい御業です。

 しかし、パウロが、「ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も」と言っているのは、どうしてでしょうか。それは、聖霊の素晴らしい御業によって、ユダヤ人とギリシア人が、奴隷と自由人が、仲睦まじく信仰生活を送っているからということではないでしょう。むしろ、その反対に、実際には、たくさんの問題が起こっていたということではないでしょうか。パウロは、ユダヤ人とギリシア人の間で、奴隷と自由人の間で、あるいは、他の様々な関係の中で、たくさんの問題が起こっていた現実を見つめているということです。バラバラになっている教会の現実を見つめているということです。パウロは、問題だらけの教会の姿を、ありのままに見つめているということです。そして、だからこそと言えるでしょうか。パウロは、自分たち一人一人を一つの体にしている聖霊に目を向けさせようとしているのではないでしょうか。自分たち教会が聖霊の御業であることを思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 私たちは、毎週の礼拝で、信仰の告白として、使徒信条を唱えています。そして、その使徒信条の中で、「聖なる公同の教会を信ず」と告白しています。私たちは、使徒信条によって、教会を信じると告白しているということです。

 しかし、教会を信じるというのは、どういうことなのでしょうか。教会が私たちを救ってくれるということでしょうか。教会の中にいれば、私たちは安全だということでしょうか。そういうことではないでしょう。

 教会を信じる、聖なる公同の教会を信じる、それは、教会が聖霊の御業に他ならないことを信じるということです。私たちは、教会が聖霊の御業に他ならないことを信じているということです。そして、それは、教会の大きさや、働きの内容や、問題があるかないかというようなこととは、何の関係もありません。

 たくさんの人が集まれば、教会と言えるけれども、少しの人しか集まらなければ、教会ではないということではありません。たくさんの働きやイベントがなされていれば、立派な教会だけれども、礼拝だけしかしていない教会は、教会として劣るということではありません。そうではなくて、問題だらけの教会も、先の見えない教会も、完全な教会であり、すべての教会は聖霊の働きによることを信じるということです。あるいは、聖なる公同の教会を信じるというという告白は、聖霊を信じるという告白と、切っても切り離すことができないと言ってもいいのかも知れません。

 聖霊を信じるというのは、もしかしたら、ちょっと抽象的な感じがするかも知れません。しかし、教会が聖霊の御業であることを信じる時、そこでは具体的な信仰が求められていると言えるのではないでしょうか。あるいは、問題だらけの教会を見つめながら、希望の見えない教会を見つめながら、それでもなお、聖霊を信じると告白することは、神様から与えられた大きなチャレンジであり、同時に、大きな祝福と言ってもいいのかも知れません。

 パウロの時代、コリントの教会にはたくさんの問題がありました。コリントの教会は問題だらけでした。「これが教会か?」と言いたくなるような教会でした。

 しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、コリントの教会もまた、教会として認めていました。コリントの教会に集まる人々を「聖徒」と呼んでいました。そして、それは、パウロが、コリントの教会もまた、聖霊の御業であることを信じていたからです。パウロは、コリントの教会もまた、聖霊の御業であることを信じていたからこそ、聖霊に導かれていることを信じていたからこそ、希望を持って、彼らに手紙を書き送っていたということです。

 教会にはたくさんの問題があります。教会だからと言って、聖霊が働いているからと言って、教会には何の問題もないということではありません。反対に、問題があったら、聖霊が働いていないということでもありません。そうではなくて、聖霊は常に働いていてくださるということです。教会が聖霊の御業であることは、どのような状況においても、決して変わらないということです。あるいは、私たちが、たくさんの問題を抱えながらも、教会として集まることができるのは、聖霊が働いていてくださるからこそと言ってもいいのかも知れません。大切なことは、その聖霊を信じるということです。聖霊が教会を導いていてくださることを信じることです。

 ペンテコステの日に弟子たちの上に降った聖霊は、コリントの教会においても、働いておられました。そして、現在の私たちの教会においても、同じように働いていてくださいます。そして、その聖霊を信じながら、聖霊に導かれて、前に進むことができればと思います。

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