礼拝説教から 2022年5月22日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章33-37節
  • 説教題:真実な言葉を話す

 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。

 

0.

 2月からマタイの福音書5-7章を開いています。一般的に「山上の説教」と呼ばれる所です。

イエス様は、その山上の説教の中で、ご自分が、律法を廃棄するためではなくて、成就するために来たということを宣言されました。律法というのは、神様が、モーセを通して、ご自分の民であるイスラエルの人々に与えられた言葉であり教えです。イエス様は、その律法を成就する方として、律法の本来の意味を回復しようとしておられます。律法の本来の意味を回復しようとしておられるというのは、逆に言うと、律法が間違って教えられてきたということを意味しています。

 5章21-48節の所では、律法そのものの言葉や、律法を踏まえた教えが取り上げられています。一つ目は、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」、二つ目は、「姦淫してはならない」、三つ目は、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」という言葉です。今日は、5章33-37節から、四つ目の言葉を見ていきたいと思います。誓いに関する言葉です。

 

1.

 イエス様は、「偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことは主に果たせ」という言葉を取り上げられました。「偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことは主に果たせ」というのは、律法そのものの言葉ではないようです。律法の中から、いくつかの言葉が組み合わされてまとめられたということになりそうです。

 誓いには、偽りがあってはならないでしょう。誓いに偽りがあれば、その誓いは意味のないものになるからです。誓ったことは、誓った通りに、果さなければならないということです。「偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことは主に果たせ」というのは、もっともな教えのように思います。偽って誓ってはいけないのであり、誓った以上は、その誓いを果たさなければならないということです。

 しかし、「そうであるにもかかわらず」ということになるでしょうか。イエス様は、その誓いに関する言葉を取り上げながら、ご自分の教えを語られます。それは、表面的には正反対の言葉です。しかし、それは、律法が否定されているのではなくて、律法本来の意味を回復することが目的とされています。

 イエス様は、決して誓ってはならないと言われました。誓いを果たしなさいということではありません。そうではなくて、決して誓ってはならないということです。

 皆さんは、どうでしょうか。何かを誓うということがあるでしょうか。

 何か悪いことをして、親や学校の先生の前で、「もう絶対にしません」と、誓ったことがあるでしょうか。絶対に返すことを誓って、知り合いからお金を借りたりすることがあるでしょうか。恋人と永遠の愛を誓うことがあるでしょうか。結婚式というのは、その誓いが、公になされる場ということになるでしょう。また、クリスチャンであるならば、イエス様を信じて洗礼を受ける時に、イエス様に従って生きることを誓うことになります。

 どうでしょうか。私は、誓うということについて振り返りながら、私たちの生活において、誓うというのは、もしかしたら、とても身近なことなのではないかということを思いました。私たちは、様々な場面で、大小の様々なことを誓っているのではないでしょうか。

 そもそも、私たちはどうして誓うということをするのでしょうか。どうして誓うということが必要になってくるのでしょうか。それは、もしかしたら、私たちの言葉に、信頼がないからということではないでしょうか。あるいは、私たちという存在そのものに、信頼がないからと言ってもいいのかも知れません。反対の立場から言えば、誓いが必要になるのは、相手に対する疑いがあるからではないでしょうか。

 私たちが何かを誓う、その第一の目的は、自分の言葉を信頼してもらうためだと言えるでしょう。自分が信頼に足る人物であることを信じてもらうということです。私たちは、自分の言葉を信じてもらうために、嘘偽りがないことを信じてもらうために、誓うということです。自分を信じてもらうために誓うということです。

 もちろん、言葉だけでは足りない場合があるでしょう。言葉だけの誓いでは不十分な場合があるわけです。そして、その場合には、誓いの言葉を保証するものが必要になります。それは、保証人と呼ばれる人である場合もあれば、自分の財産や命である場合もあるでしょう。あるいは、神様が持ち出されてくることもあるでしょう。いずれにしろ、そのように誓うのは、自分の言葉が本当であることを、自分が信頼に値する者でることを、相手に信じてもらうために他なりません。そして、私たちが何らかの形で誓うというのは、よくあることなのではないでしょうか。あるいは、ちょっと極端な言い方かも知れませんが、誓うということなしには、私たちの社会は成り立たないと言ってもいいのかも知れません。

 そうすると、イエス様が、決して誓ってはならないと教えられたのは、どういうことになるのでしょうか。文字通りに、何も誓ってはならないということなのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 イエス様は、決して誓ってはならないという言葉に付け加えて、「天にかけて」誓ってはならない、「地にかけて」誓ってはならない、「エルサレムにかけて」誓ってはならない、「自分の頭にかけて」誓ってはならないということを言われています。天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、自分の頭にかけて、誓ってはならないということです。そして、それは、天が神様の御座だからであり、地が神様の足台だからであり、エルサレムが偉大な王の都だからであり、私たちが自分の髪の毛一本さえ白くも黒くもできないからだということです。

 「何のこっちゃ」という感じがしないでもないですが、どういうことでしょうか。

 先ほど、イエス様が取り上げられた誓いに関する言葉は、律法の中から、いくつかの言葉が組み合わされていると言いましたが、その一つが、レビ記19章12節の言葉です。<あなたがたは、わたしの名によって偽って誓ってはならない。そのようにして、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。> 「わたしの名」の「わたし」というのは、主なる神様のことです。そして、律法の中で、「偽って誓ってはならない」と命じられているのは、神様の名前によってということになります。神様の名前によって、偽って誓ってはならないということです。神様の名前によって、偽って誓うならば、それは、神様の名前を汚すことに他ならないということです。神様の名前によって誓うというのは、軽々しくできることではないということです。とても重みがあるということです。

 しかし、その「わたしの名によって」という言葉が、逆に利用されているということになるでしょうか。イエス様の時代、律法学者やパリサイ人と呼ばれる人々は、神様の名前ではなくて、神様以外の何かにかけて誓うということをしたようです。それが、例えば、天であり、地であり、エルサレムであり、自分の頭だということです。律法学者やパリサイ人は、天や地やエルサレムや自分の頭にかけて誓ったということです。もちろん、それ以外のものもあったことでしょう。

 律法学者やパリサイ人は、どうして神様以外のものを持ち出して、誓ったのでしょうか。そこにある下心は、「神様以外のものにかけて誓うのであれば、果たせなくてもいいのではないか」ということです。神様の名前によって誓ったことは、必ず果たさなければならないけれども、それ以外のものにかけて誓ったことは、果さなくてもいいということです。「天や地は神様とは違う、エルサレムは神様とは違う、自分の頭は神様とは違う、神様以外のものにかけて誓ったことは、果たさなくてもいい」ということです。そこまで重く考えなくてもいいということです。そして、それは、誓いが軽々しくなされたということでもあるでしょう。

 繰り返しになりますが、誓うというのは、果たすこと、守ることが前提になっています。偽りがあっては意味がありません。誓ったことを実行するからこそ、誓いには意味があるわけです。

 しかし、律法学者やパリサイ人がしていることは何でしょうか。それは、果たさないことを前提にして、守らないことを前提にして、誓っているということです。あるいは、その反対に、自分の偽りを覆い隠すために、神様以外のものを持ち出して誓っていると言ってもいいのかも知れません。

 決して誓ってはならないと言われたイエス様は、天が神様の御座だと言われました。地は神様の足台だと言われました。エルサレムは偉大な王の都だと言われました。

 どういうことでしょうか。それは、神様の名前にかけて誓うのも、それ以外の何かにかけて誓うのも、何も変わりがないということです。天は神様の御座であり、その神様の御座である天にかけて誓うことは、神様ご自身にかけて誓っていることに他ならないということです。地もエルサレムも同じです。地にかけて誓うこと、エルサレムにかけて誓うことは、神様ご自身にかけて誓っていることに他ならないということです。そして、自分の頭にかけて誓うというのも、本質的には同じことになるでしょう。

 律法学者やパリサイ人は、誓いを二つに分けました。神様の名前にかけた誓いと、神様以外のものにかけた誓いです。そして、神様の名前にかけた誓いは必ず果たさなければならない、神様以外のものにかけた誓いは果たさなくてもいいということが、主張されました。

 しかし、イエス様が教えられていることは何でしょうか。それは、何にかけて誓っているとしても、実際には、神様の前で誓っているということではないでしょうか。私たちが何にかけて誓うとしても、それは、神様の前で誓っていることに他ならないということです。あらゆる誓いは、神様の前でなされているということです。そして、それは、誓いの言葉だけに言えることではないでしょう。あらゆる言葉について言えることです。私たちは、どこで、誰と、何を話すとしても、それは、神様の前で話しているということです。神様は、私たちの誓いだけではなくて、私たちのすべての言葉を聞いておられるということです。大切なことは、神様の前にあることを覚えて話すということです。

 最後に、イエス様は、私たちの言葉が、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とされなければならないことを言われています。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」です。

 どういうことでしょうか。「イエスかノー」以外のことを言ってはならないということでしょうか。そうではなくて、それは、「はい」が「いいえ」に変わったり、「いいえ」が「はい」に変わったりしてはならないということではないでしょうか。私たちの言葉が、「はい」と言っておいて、「いいえ」に変わってしまうようなことになってはならないということです。反対に、「いいえ」と言っておいて、「はい」に変わってしまうようなことがあってはならないということです。「はい」は「はい」であり、「いいえ」は「いいえ」でなければならないということです。そして、それは、私たちの言葉が真実でなければならないということです。

 イエス様は、決して誓ってはならないと言われました。それは、文字通りに、何も誓ってはならないということではないでしょう。結婚式や洗礼式の誓いをなくしてしまえということではありません。イエス様は、誓いそのものを否定されているのではありません。誓いが必要な場面では、誓う必要があるということです。そして、イエス様が求められているのは、その私たちの言葉が真実なものでなければならないということです。誓いの言葉だけではなくて、私たちの話す一つ一つの言葉が、真実なものでなければならないということです。あるいは、私たちの言葉が真実なものであるならば、私たちは、敢えて、大げさに誓ったりする必要もなくなるということなのかも知れません。「本当に」、「絶対に」、「心から」、そのような言葉をやたらに繰り返して、自分の言葉を飾る必要はなくなるということです。

 イエス様は、私たちを、真実な言葉を話す者として招いてくださいました。それは、私たちが真実な者だからではありません。私たちが真実な者として認められて、イエス様は私たちを招いてくださったということではありません。そうではなくて、不真実な私たちが、真実な言葉を話す者となるために、イエス様は私たちを招いてくださったということです。そして、それは、神様が私たちを愛していてくださるからに他なりません。

 私たちはどうでしょうか。真実な言葉を話しているでしょうか。「はい」が「はい」、「いいえ」が「いいえ」となっているでしょうか。

 私たちはあくまでも不真実な者であることを覚えたいと思います。しかし、その不真実な私たちを諦めることなく導いていてくださる神様の愛を、同時に覚えたいと思います。そして、その愛に応答して生きる私たちの言葉が真実なものとされていくことを願います。

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