礼拝説教から 2022年5月15日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章27-32節
  • 説教題:姦淫しない

 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。

 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。

 

0.

 2月から、マタイの福音書5-7章、一般的に「山上の説教」と呼ばれる所を開いています。先々週からは、イエス様が、神様の言葉である律法について語られた所を見ています。イエス様は、律法を廃棄するためではなくて、成就するために来られたのであり、その律法に従って生きることを教えておられるということです。そして、5章21-48節では、律法の言葉や律法に対する人々の解釈が取り上げられながら、律法の本来の意味が教えられています。全部で六つの言葉が取り上げられています。

 先週は、5章21-26節から、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」という言葉について見てみました。今日は、27-32節から、「姦淫してはならない」、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」という言葉について見ていきたいと思います。

 

1.

 「姦淫してはならない」というのは、律法そのものの言葉です。律法の中心である十戒の言葉です。十戒の第七戒になります。

 どうでしょうか。

 姦淫という言葉を聞くと、もしかしたら、私たちは、無意識に性的な道徳の乱れをイメージすることになるかも知れません。しかし、聖書の中で、姦淫という言葉が使われる時、その意味は、実は、かなり限定されていると言えるでしょう。

 聖書の中で姦淫と言われる時、それは、結婚または婚約している女性と性的な関係を結ぶことです。ちょっとややこしい話ですが、男性が、自分の妻や婚約者以外の女性と不倫をしても、不倫相手の女性が別の男性と結婚や婚約をしていなければ、姦淫にはなりません。不倫相手の女性が別の男性と結婚や婚約をしている場合に、その性的な関係は姦淫になります。そして、そうであるならば、そこで問題とされているのは、単純に、性的な道徳の乱れということではないでしょう。性的な道徳の乱れを何とかしようということであるならば、結婚関係以外のあらゆる性的な関係が禁止されなければならないことになります。しかし、「姦淫してはならない」という言葉の中で、禁じられているのは、あくまでも、すでに別の男性と結婚や婚約をしている女性との間で、性的な関係を結ぶことです。そして、そこで問題とされているのは、他人の妻を奪うということになるでしょう。あるいは、自分の妻が他人に奪われるということです。

 旧約聖書の時代、イスラエルの民が「姦淫してはならない」という言葉を受け取った時、妻は夫の所有物でした。夫と妻は対等な関係ではありませんでした。結婚している女性は、そのパートナーである男性の所有物でした。そして、姦淫の罪を犯すというのは、その所有物である女性を奪うことに他なりませんでした。他人の物を奪ったり盗んだりすることと同じです。あるいは、「姦淫してはならない」というのは、男性中心の社会を前提とした教えだったと言ってもいいのかも知れません。そして、いずれにしろ、「姦淫してはならない」という言葉によって、目的とされていたのは、結婚という関係が守られることです。姦淫というのは、すでに結婚や婚約によって結ばれている関係を破壊することであり、その姦淫を禁じているのは、結婚によって結ばれた関係を守ることに目的があったと言えるでしょう。そして、イエス様は、その「姦淫してはならない」という言葉を取り上げられたということです。

 イエス様は、「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです」と言われました。

 先週の「殺してはならない」という言葉もそうでしたが、どうでしょうか。私たちは、もしかしたら、「してはならない」ということを言われると、「そのことをしなければ、何の問題もない」というようなことを思うかも知れません。「殺してはならない」ということであれば、「殺さなければ、問題がないじゃないか」ということです。今日の「姦淫してはならない」ということであれば、「姦淫しなければ、問題がないじゃないか」ということです。

 しかし、イエス様が言われているのは、どういうことでしょうか。それは、情欲を抱いて女性を見るならば、心の中ですでに姦淫を犯しているのだということです。実際に行動に移すかどうかは、関係ありません。情欲を抱いて女性を見るならば、それだけで姦淫を犯していることになるということです。

 しかし、どうなのでしょうか。情欲を抱いて女性を見るというのは、どういうことなのでしょうか。女性を見て、性的な欲望を抱いてはならないということなのでしょうか。そうであるならば、それは、男女の性的な関係そのものを否定することにもつながりかねないのではないでしょうか。結婚が性的な関係を含むものであるなら、性的な欲望を持つということは、認められているのではないでしょうか。

 しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、情欲を抱いて女性を見るならば、誰もが心の中で姦淫を犯していると言われているわけです。

 どういうことなのでしょうか。

 繰り返しになりますが、「姦淫してはならない」というのは、他人の妻となっている女性を奪うことが問題とされていました。そして、それは、女性を物として見ていることが前提になっています。姦淫してはならないという言葉が与えられた時、イスラエルの社会では、女性が物として扱われていたということです。

 もちろん、それは、神様が願っておられることではありません。女性が物のように扱われるというのは、神様の御心ではないということです。そして、イエス様が、「情欲を抱いて女性を見る者は」と言われたのも、女性が物のように扱われている現実を踏まえておられたと言ってもいいのかも知れません。

 情欲を抱いて女性を見るというのは、どういうことでしょうか。それは、単純に、いやらしい目で女性を見るということではないでしょう。より本質的には、女性を物として見るということではないでしょうか。一人の人として見るのではありません。自分の性的な欲望を満たすための道具として見るということです。自分の性的な欲望を満たすために、女性を自分の物にしようとするということです。情欲を抱いて女性を見るというのは、単純に、性的な欲望を抱いて、女性を見てはならないということではなくて、性欲を抱くことそのものが問題とされているのではなくて、より本質的には、女性を物として見ることが問題だということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。イエス様は、姦淫の問題を、離婚の問題と結びつけておられます。「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」という言葉です。

 「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」というのは、旧約聖書の申命記24章の最初と所を踏まえているようですが、律法の言葉そのものではなさそうです。そして、いずれにしろ、離縁状を与えるというのは、弱い立場にある女性を守るためのものと理解されています。離縁状があれば、それは、正式な離婚が成立したということであり、離縁状を受け取った女性は、改めて別の男性と結婚することができるということです。その結婚によって、自分を守ることができるということです。反対に、離縁状がなければ、それは、離婚が成立していないということを意味しています。そして、離婚が成立していない状況で、他の男性と結婚をするならば、それは、姦淫の罪を犯すことになるということです。いずれにしろ、離縁状は、弱い立場にある女性が守られるために、大切なものだったということです。

 しかし、どうでしょうか。私たちは、「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」という言葉を聞いて、どのように理解するでしょうか。もしかしたら、「離縁状を与えたら、自由に妻を離縁してもよい」という受け取り方ができなくもないかも知れません。実際に、イエス様の時代に、妻が夫から離縁されることは、珍しいことではなかったようです。男性たちの間では、離縁状を渡しさえすれば、自由に妻を離縁することができると受け取られていたということです。そして、男性たちは、とても些細な理由で、妻を離縁したりしたようです。例えば、料理がおいしくなければ、離縁する理由になったりもしたようです。もっときれいな女性が現れたら、それも離縁する理由になったりしたようです。現在の私たちの目から見ても、ちょっと信じられないようなことが、離縁の理由になっています。要するに、何が理由であれ、気に入らなくなったら、いつでも離縁していたということです。そして、それは、結婚という関係の中においても、女性が物のように扱われていることを示しています。男性は、結婚相手の女性を、いつでも自由に取り代えることのできる物のように扱っていたということです。

 イエス様は、「淫らな行い以外の理由で」と言われました。淫らな行い以外の理由で、夫婦の関係が壊されてはならないということです。夫婦の関係が、些細な理由で壊されてはならないということです。そして、それは、弱い立場にある女性が守られなければならないということでもあるでしょう。イエス様は、姦淫の罪を戒めながら、結婚によって生まれた夫婦の関係を大切にしながら、弱い立場にある女性が守られて大切にされることを願われたということです。あるいは、結婚というのは、強い方が弱い方を支配するような関係ではなくて、強い方が弱い方を物のように扱う関係ではなくて、対等な人と人との関係と言ってもいいのかも知れません。そして、それは、結婚という関係だけではなくて、男女の関係だけではなくて、あらゆる関係についても、言えることでしょう。イエス様は、一人一人を、物ではなくて、一人の人として、大切にされたということです。そして、だからこそと言えるでしょうか。イエス様は、ご自分に従う弟子たちにも、互いに愛し合うことを命じられたということです。

 先週の本文では、「殺してはならない」という言葉が取り上げられていました。今週は、「姦淫してはならない」です。どちらも、律法の中心である十戒の言葉です。そして、イエス様は、その十戒を中心とした律法全体を、二つの戒めにまとめられました。

 何でしょうか。それは、第一が「神様を愛しなさい」、第二が「隣人を愛しなさい」ということです。十戒を中心とした律法全体が教えているのは、「神様を愛しなさい」ということと、「隣人を愛しなさい」ということだということです。そして、「殺してはならない」と「姦淫してはならない」というのは、結局の所は、隣人を愛するということにまとめられるということです。「殺してはならない」、「姦淫してはならない」という戒めにおいて、大切なことは、愛するということです。

 それでは、愛するというのは、どういうことでしょうか。

 戻って29-30節を見てみると、イエス様は、とても厳しいことを言われていることが分かります。目や手が姦淫の罪を犯すなら、捨ててしまいなさいということです。体の一部を失っても、地獄に落ちるよりはましだということです。

 どういうことでしょうか。

 目や手というのは、自分の一部です。それは、とても大切なものです。簡単に抉り出したり切り取ったりして、捨てることのできるものではありません。「一部だから、いいや」と言えるものではありません。とても大切なものです。そして、私たちが姦淫する相手、私たちが愛する相手というのは、その目や手と同じように大切だということです。

 ちなみに、イエス様が、律法全体の教えを、神様と隣人を愛することとまとめられた時、隣人を愛することについては、「自分自身のように」と説明されました。隣人は自分自身のように愛するのだということです。自分を大切にするのと同じように、隣人を大切にするのだということです。そして、それは、いつでも捨てられる物のように、相手を扱うのではないということです。いつでも取り換えることのできる物のように、相手を扱うのではないということです。そうではなくて、自分の目や手を大切にするように、自分自身を大切にするように、相手を大切にするということです。それが、姦淫しないということであり、愛するということはないでしょうか。

 私たちはどうでしょうか。互いをどのように見ているでしょうか。

 対等な人として見ているでしょうか。自分が支配する道具として見ているでしょうか。神様から愛されている人として見ているでしょうか。自分を満足させるための道具として見ているでしょうか。

 私たちが、神様から愛されて造られた一人一人であることを覚えたいと思います。イエス様が、ご自分の命を犠牲にされるほどに、愛された一人一人であることを覚えたいと思います。だからこそ、互いに愛し合う者でありたいと思います。物ではなくて、人として、互いに尊重し合うことができればと思います。

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