- 聖書箇所:マタイの福音書5章21-26節
- 説教題:和解に生きる
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
0.
先週は、マタイの福音書5章17-20節から、律法を成就されたイエス様について分かち合いました。律法というのは、神様がご自分の民であるイスラエルの人々に与えられた言葉であり教えです。イスラエルの民は、その律法の教えを大切にして生きることが求められていました。イエス様の時代には、律法学者と呼ばれる人々が、律法を研究して人々に教えていて、パリサイ人と呼ばれる人々が、その律法を徹底的に行うことを目標としていました。そして、そのような雰囲気の中で、イエス様は、登場されたのであり、ご自分の働きを始められました。その働きは、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」という宣言から始まりました。イエス様の働きの中心は、神様の国の良い知らせを伝えることであり、その神様の国に人々を招き入れることだったと言えるでしょう。
しかし、イエス様の教えは、律法学者やパリサイ人の間では、律法に反すると考えられたりしたようです。あるいは、イエス様に従う弟子たちの間でも、誤解があったと言ってもいいのかも知れません。そして、その様々な誤解を意識してということになるでしょうか。イエス様は、ご自分が来た目的を宣言されました。それは、律法を廃棄するためではない、成就するためだということです。イエス様は、律法を成就するために来られたのであり、弟子たちにもその律法に従って生きることを教えられたということです。ただし、その律法に従って生きる具体的なあり方については、律法学者やパリサイ人との間に、大きな理解の違いがあったようです。
イエス様は、律法に従って生きることを、どのように教えられたのでしょうか。今日の本文を含めて、5章48節までの所は、イエス様が、律法に従って生きることについて教えておられる所と言えるでしょう。今日は、その最初の段落、5章21-26節から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。
1.
括弧の中の「殺してはならない」という部分は、律法の言葉です。律法の中心である十戒の言葉です。しかし、その後の「人を殺す者はさばきを受けなければならない」という部分は、律法の言葉そのものではないようです。ただ、律法全体を見ると、人を殺した場合のことについて定められている所もあり、人を殺した者が何らかの裁きを受けるのは、律法の中でも当然のように受け止められていると言ってもいいのだと思います。いずれにしろ、イエス様の時代に生きる人々にとって、「殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない」というのは、何の疑問もない教えだったことでしょう。
しかし、イエス様は、言われました。それは、「しかし」ということです。「しかし、わたしはあなたがたに言います」ということです。そして、今日の本文の後から5章の最後までを見ていくと、イエス様は同じ言い方を繰り返しておられることが分かります。それは、「あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います」ということです。
イエス様は、「律法にはこう書いてある」と言われたのではありません。「私は律法をこう解釈する」と言われたのでもありません。そうではなくて、「わたしは言います」と言われたということです。まるで、「ご自分が律法に取って代わってでもあるかのように」、あるいは、「ご自分こそが律法そのものであるかのように」、イエス様は、「わたしは言います」と言って教えられたということです。そして、それは、まさに、イエス様が、律法を成就するために来られた方であることを示していると言えるでしょう。イエス様は、律法を成就するために来られた方だからこそ、「わたしは言います」という言い方をされたということです。律法を捨てるのでもなく、律法に対する自分なりの解釈を示すのでもなく、ご自分が律法を成就する方であることを示すために、イエス様は「わたしは言います」という言い方をされたということです。そして、その上で、ご自分に従う人々に、律法に従って生きることを教えられたということです。
2.
人々は、律法によって、「殺してはならない」ということを教えられていました。そして、人を殺してしまった場合には、何らかの裁きを受けなければならないという理解を持っていました。それは、現在の私たちにとっても、納得のいく教えのように思います。確かに、人を殺してはいけないのであり、人を殺してしまった場合には、何らかの裁きを受けることになるわけです。そうでなければ、社会は無茶苦茶になってしまうでしょう。
しかし、イエス様が言われているのは、それ以上のことのようです。それは、兄弟に対して怒る者もまた、同じように、裁きを受けなければならないということです。具体的に、人を殺すことはないとしても、誰かに対して怒ることがあるならば、同じように、裁きを受けなければならないということです。そして、それは、誰かに対して怒ることも、殺すことと変わらないということでもあるでしょう。イエス様は、具体的に、人を殺してしまうことだけではなくて、誰かに対して怒ることもまた、人を殺すことに他ならないということを言っておられるわけです。心の中に怒りを持ちながら、「ばか者」、「愚か者」と言うことは、人を殺すことと同じだということです。
「殺してはならない」という言葉の前に立つ時、私たちはどうでしょうか。
確かに、具体的に人を殺してしまうようなことは、ないかも知れません。最近は信じられないような事件も多いですが、それでもやはり、私たちにとって、人を殺すというのは、簡単にはできないことです。「殺してはならない」というのは、当たり前のことです。
しかし、誰かに対して怒ることもまた、人を殺すことであるとするならば、どうでしょうか。自分もまた、人を殺しているということになるのではないでしょうか。私たちにとって、怒らないということは、あり得ないわけです。私たちは怒ってしまうわけです。しかし、イエス様によれは、それは、人を殺すことに他ならないということです。そして、イエス様は、具体的に人を殺すことだけではなくて、誰かに対して怒ることもまた、止めることを求めておられるということです。
そもそもになりますが、私たちはどうして怒るのでしょうか。
結婚してすぐの頃だったでしょうか。私はよく妻に対して怒っていました。今になって考えてみると、それは、ものすごい理由があったということではありません。ただ、妻のすることが気に入らなかっただけのことです。妻のすることや考え方が、気に入らなくて、腹が立って、仕方がなかっただけのことです。あるいは、問題は、妻の側にあったのではなくて、私の側にあったと言ってもいいのかも知れません。
私たちはどうして怒るのか、それは、私たちが、自分を中心にして、相手を見ているからではないでしょうか。私たちは、自分を中心にして、周りを見ているからこそ、怒るということです。そして、その心の奥底にあるのは、「自分は正しい、相手が間違っている」という確信です。「自分は正しい」という前提が心の奥底にあるからこそ、怒りが湧いてくるということです。そして、自分を中心にするというのは、罪の本質でもあるということになるでしょう。
もちろん、怒りの感情を一瞬でも持たないというのは、それこそ、あり得ないことでしょう。一瞬でも怒りの感情を持ってはならないということであるならば、それは、私たちがロボットにならなければならないことを意味しています。それは、イエス様が願っておられることではないでしょう。大切なことは、絶対に怒らないことではなくて、怒っても、その怒りを持ち続けないということではないでしょうか。怒ることがあっても、怒りを捨てるということです。
私たちはどうでしょうか。誰かに怒ることがあるでしょうか。
誰かに対して怒る時、それは、その相手を殺していることに他ならないということを覚えたいと思います。そして、「殺してはならない」という言葉に従って生きる者でありたいと思います。
3.
祭壇の上にささげ物を献げるというのは、礼拝のことです。そして、その礼拝の前に、誰かから恨まれていることを思い出したなら、先にその人と仲直りをして、それから礼拝をするということです。イエス様は、怒りを捨てることと共に、積極的な和解を命じておられるということです。
ちなみに、イエス様がここで問題としておられるのは、誰かが自分を恨んでいるということです。自分が誰かを恨んでいるということではありません。反対に、自分が誰かから恨まれていることです。そして、誰かから恨まれていることを思い出したなら、礼拝よりも先に、自分を恨んでいる相手と仲直りをしなければならないということです。もちろん、自分を恨んでいる相手と和解をするというのは、基本的には、赦しを求めるということになるでしょう。
どうでしょうか。私たちは、和解のために赦しを求めることがあるでしょうか。
私は、和解のために赦しを求めることが、なかなかできないなぁということを思います。なぜなら、和解のために赦しを求めるというのは、自分の間違いや過ち、自分の罪を認めることだからです。自分の正しさが崩れてしまうことだからです。そして、自分の正しさが崩れるというのは、とても苦しいことです。
私たちは土台がなければ立つことができません。土台があって、初めて、私たちは立つことができます。私たちには土台が必要だということです。ただ、問題は、その土台が何であるかということです。
私たちはどうでしょうか。私たちはどのような土台の上に立っているでしょうか。自分の正しさでしょうか。あるいは、他の何かでしょうか。
繰り返しになりますが、自分の正しさを土台とするなら、それは、私たちが、自分を中心にして生きているということです。そして、それは、今日の本文に合わせるなら、怒る者になっているということです。殺す者になっているということです。
イエス様は、自分を恨んでいる相手との和解を求めなさいと言われました。それは、具体的には、赦しを求めるということです。自分の間違いや罪を認めるということです。そして、それは、自分の正しさの土台が崩れ落ちることです。それは、とても大変なことです。だからこそ、和解のために、赦しを求めるというのは、難しいことです。
ちなみに、私たちがイエス様を信じているというのは、イエス様の前で、自分の罪を認めているということです。イエス様の前で、自分の正しさの土台が崩れ落ちてしまっているということです。しかし、そうであるにもかかわらず、私たちはしっかりと立っています。なぜなら、イエス様ご自身が支えていてくださるからです。イエス様ご自身が、先に私たちとの関係を大切にしてくださって、私たちの土台となっていてくださるからです。そして、毎週日曜日の礼拝というのは、私たちが、そのイエス様という土台の上に立たせていただいていることを確認して、新しくスタートしていくことです。和解のために赦しを求めて生きるというのは、そのイエス様という土台の上でこそ実現することです。
私たちはどこに立っているでしょうか。自分の正しさの上でしょうか。イエス様の上でしょうか。
自分の正しさの上に立つなら、それは、怒ること、殺すことにつながります。しかし、イエス様の上に立っているなら、それは、赦されること、赦すことにつながります。
毎週日曜日の礼拝を通して、罪人の私たちが、イエス様ご自身に支えられていることを覚えたいと思います。イエス様ご自身が、私たちを愛していてくださり、私たちとの関係を大切にしていてくださることを覚えたいと思います。だからこそ、そのイエス様との関係の中で、怒る者であることを止めたいと思います。怒る者ではなくて、赦す者、赦しを求める者でありたいと思います。殺す者ではなくて、生かす者でありたいと思います。