礼拝説教から 2022年5月1日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章17ー20節
  • 説教題:律法を大切にする

 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。

 

0.

 2月から、マタイの福音書で、一般的に「山上の説教」と呼ばれている所を開いています。先週は、イエス様が、クリスチャンのことを、「地の塩」、「世の光」と表現された所を見ました。イエス様を信じるクリスチャンというのは、「地の塩」であり、「世の光」だということです。そして、クリスチャンが、地の塩として、世の光として、生きることを求められているのは、人々が天の父なる神様を崇めるようになるためだということでした。

 今日の本文は、先週までの内容からすると、ちょっと突然のような感じがしないでもないですが、イエス様が、律法と預言者について、特に律法について語られた所です。律法というのは、神様が、モーセを通して、ご自分の民であるイスラエルの人々に与えられた教えであり、その中心は十戒になります。預言者というのは、旧約聖書の時代に、神様の言葉を預かって、人々に宣べ伝えた人々のことです。そして、イエス様が「律法と預言者」と言われる時、それは旧約聖書のことを指しています。

 今日は、その旧約聖書について、特に、律法について語られたイエス様の言葉を見ていきたいと思います。

 

1.

 「律法と預言者」というのは、旧約聖書のことです。神様の言葉であり教えです。それは、永遠に変わることのない言葉であり教えです。神様からご自分の民として選ばれたイスラエルの人々は、その旧約聖書をとても大切にしていました。旧約聖書、その中でも特に律法は、人々の生活の中心にありました。そして、それは、イエス様の時代にも変わりがありませんでした。

 イエス様は、ご自分が律法や預言者を廃棄するために来たのではないと言われました。廃棄するためにではなくて、成就するために来たと言われました。

 「律法や預言者を廃棄するために来たのではない」というのは、ちょっと突然な感じがします。また、わざわざ強調されているように感じます。

 どういうことでしょうか。それは、イエス様が、律法や預言者を廃棄するために来たと誤解されていたということではないでしょうか。イエス様は、律法や預言者を廃棄するために来られたかのように誤解されていたということです。あるいは、だからこそと言ってもいいでしょうか。律法の専門家である律法学者や、その律法を徹底的に実践することを目指していたパリサイ人のような人々は、イエス様を厳しく批判しました。律法学者やパリサイ人には、イエス様が律法を蔑ろにしているように見えていたのであり、そのイエス様を決して認めることができなかったということです。

 しかし、イエス様が言われているのは、ご自分が律法を廃棄しようとしているのではないということです。律法を廃棄するのではなくて、反対に、成就するために来たということです。イエス様は、律法を成就するために来たということです。そして、それは、新約聖書の時代を生きたイエス様の弟子たちにとっても、現在の私たちにとっても、律法が有効であるということを意味しているでしょう。

 イエス様は、律法の一点一画も決して消え去らないと言われました。そして、それは、律法の些細な部分までも、決して疎かにされてはならないということを意味しているでしょう。

 どうでしょうか。私たちは、イエス様を信じて救われると教えられています。律法を行うことによってではありません。律法の細かな部分に至るまで、その教えに従い通したら、神様から合格点をいただいて救われるということではありません。立派な人間になって、社会の役に立つ人間になって、救われるのではありません。そうではなくて、私たちはイエス様を信じて救われるということです。私たちの救いは、イエス様が、十字架の死と復活によって成し遂げてくださった救いの恵みを、信じて受け取る所に実現するということです。私たちは、自分の行いによってではなくて、イエス様の恵みによる救い受け取る信仰を通して救われるということです。しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。イエス様は、律法に従って生きることを教えておられるということです。

 どういうことなのでしょうか。救いのためには、やはり律法を守ることが必要だということなのでしょうか。律法を守ることが、救いの条件になるということなのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 そもそも、救いというのは、何でしょうか。それは、神様と私たちとの正しい関係が回復することです。救いというのは、神様と私たちとの間に、交わりが回復することです。神様の愛を拒んで、神様から離れていった罪人の私たちが、その罪を認めて、その罪を赦していてくださる神様の愛を受け取って、神様の許に帰ってきて、神様と共に生きることそのものです。神様との関係の中で、新しく生きることです。

 救いというのは、単なる無罪放免ではありません。罪が赦されて、それで終わりということではありません。そうではなくて、神様との交わりが回復することです。神様との交わりの中に生きることです。神様から愛されていることを覚えて、私たちもまた、神様を愛して生きることです。自分自身よりも、自分のことを知っていてくださり、自分の幸せを願っていてくださる神様を中心にして生きることです。先行きの分からない不安に押し潰されそうな中で、共にいてくださり、導いていてくださる神様を信頼して、神様にすべてを委ねて生きることです。神様との交わりに生きることこそが、何よりの幸せであることを確信して、神様に従って生きることです。そして、その神様との交わりにおいて、大切になってくるのが、律法だということです。神様からご自分の民として選ばれたイスラエルの人々は、律法を通して、神様の言葉を聞き、神様の教えを知り、その律法に従うことによって、神様との豊かな交わりの中に生きる道に招き入れられていたということです。そして、それは、現在の私たちにとっても、根本的には何も変わらないということです。

 ちなみに、聖書というのは、「神様からのラブレター」と言われることがあります。本当にそうだなぁということを思います。聖書というのは、神様からのラブレターです。そして、それは、旧約聖書の中心である律法も同じです。

 「律法」というのは、日本語では、漢字で書くと、「法律」を逆さにした言葉になります。そして、だからこそということではないと思いますが、律法というのは、どこか法律のような側面があると言ってもいいのかも知れません。律法には、法律のような側面、社会の秩序を守るための規則のような側面が、確かにあるわけです。しかし、律法というのは、決して単なる法律ではありません。社会の秩序が守られるためのルールブックでもありません。あるいは、律法を単なる法律や規則のように見なしてしまう時に、律法は、生きたものではなくて、死んだものになってしまうと言ってもいいのかも知れません。

 繰り返しになりますが、律法というのは、神様の言葉であり、神様からの愛のラブレターです。そして、そうであるならば、その律法を受け取る時に、何よりも大切なことは何でしょうか。それは、律法が神様の愛の言葉であることを覚えることではないでしょうか。律法は、単なる法律ではなくて、単なるルールブックではなくて、神様の愛の言葉だということです。罪人の私たちと共に生きることを願っていてくださる神様の愛の願いが、律法には込められているということです。私たちが、律法を通して、聞き取らなくてはならないのは、その神様からの愛の言葉に他ならないということです。そして、律法を通して、神様からの愛の言葉を聞き取る時、そこには神様との交わりが生まれます。神様の愛の言葉を聞き取る時に、律法は、死んだ文字ではなくて、生きた交わりの言葉になるということです。

 イエス様は、「律法学者やパリサイ人の義」と言われました。「義」というのは、「正しい」ということです。イエス様の時代、律法学者やパリサイ人は、誰よりも正しい人々として、社会の中で認められていました。神様から義と認められて、天の御国に入ることができるとすれば、それは律法学者やパリサイ人に他ならないと考えられていました。律法学者は律法を詳しく学び、パリサイ人は、その律法学者から教えらえる所を、生活の中で実践していました。律法学者やパリサイ人は、律法を何よりも大切なものとしていました。それは、神様の御心を求めることであり、神様の御心に生きようとすることであり、とても素晴らしいことでした。しかし、その律法学者やパリサイ人を、イエス様は厳しく批判されました。

 どうしてでしょうか。それは、律法学者やパリサイ人が、律法を単なる法律としてしまっていたからです。単なるルールブックにしてしまっていたからです。彼らは、律法を通して、神様の愛を受け取っていたのではないということです。神様から愛されていることを覚えて、そこに平安をいただいていたのではないということです。そうではなくて、その反対に、法律としての律法を徹底的に守って、神様の愛を得ることに努めていたということです。神様の法律である律法を徹底的に守って、神様から義と認められて、天の御国に招き入れられて、神様に愛されて生きる努力をしていたということです。そして、自分たちこそが、実際に、律法に従っているのであり、神様から義と認められているのであり、神様から愛されていると考えて、その自分たちの行いを誇っていたということです。それだけではなくて、律法に違反しているように見える人々を罪人として裁いていたということです。

 律法が目指す所は、交わりの回復です。神様から愛されていることを覚えて、その神様を愛する、神様との互いに愛し合う交わりの回復です。その神様の御心に従って、人と人が互いに愛し合う交わりの回復です。そして、その交わりの回復のために、律法の中では、会見の天幕や様々な道具を造ることが指示されたり、罪の赦しとささげ物のことが指示されたり、社会全体の秩序を守るためのルールが定められたりしています。律法の中で定められているすべてのことは、交わりの回復のためだということです。そして、その律法を成就するために、イエス様は来てくださいました。神様と私たちとの間に、互いに愛し合う交わりが回復するために、人と人との間に、互いに愛し合う交わりが回復するために、イエス様は、来てくださったのであり、律法を成就してくださったということです。そして、その律法の成就は、何よりも、イエス様の十字架の死と復活の御業によって、明らかにされました。イエス様は、十字架の死と復活の御業によって、神様と私たちとの交わりが回復する救いの道を開いてくださったということです。

 律法を単なる法律や規則のようにしてしまう時、そこに交わりの回復はありません。どんなに徹底的に律法を行っても、そこで神様との交わりが回復することはありません。

 しかし、律法を通して、律法を成就してくださったイエス様を通して、神様から愛されていることを覚える時、そこには交わりの回復があります。神様の愛を受け取るからこそ、その愛の言葉を熱心に聞き続けるのであり、その愛に応えて生きることにつながっていくということです。あるいは、そのような神様との互いに愛し合う交わりの回復そのものが、天の御国に招き入れられていることと言ってもいいのかも知れません。

 どうでしょうか。律法と言われると、もしかしたら、すぐに律法主義という言葉が思い浮かぶかも知れません。律法が強調されると、私たちは、律法に縛られて、救いの恵みの喜びが奪われてしまうかのように思ってしまうかも知れません。「私たちが救われたのは、信仰によってであって、律法を行うことによってではない、信仰に生きる私たちには、律法なんか関係ない」と思いたくなるかも知れません。律法と恵み、律法と福音は、相反するもののように考えるかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、律法の大切さを強調されています。実際に、教会は、律法の中心である十戒を、使徒信条、主の祈りと共に、「信仰の三要文」の一つとして、大切にしてきました。教会の歴史においても、律法は大切にされてきたということです。

 私たちは、救われるために、律法を行うことが必要だというわけではありません。しかし、救いというものが神様との交わりの回復そのものであることを覚える時、その神様との交わりにおいて、律法はやはり大切だということになるでしょう。私たちは、律法を通して、律法を成就してくださったイエス様を通して、神様と共に生きることができるからです。律法を通して、律法を成就してくださったイエス様を通して、私たちは、神様から愛されていることを覚えるのであり、その神様を愛して生きるのだということです。救われているからこそ、神様との交わりの中に置かれていることを感謝するからこそ、神様を愛するからこそ、律法を通して、神様の御心を求めて生きるということです。そして、その神様との交わりの中で、イエス様の言われた「良い行い」も生まれてくるのではないでしょうか。

 大切なことは神様との交わりの中に生かされることです。そして、その神様との交わりは、律法を通して、神様の言葉を通して、イエス様ご自身を通して、豊かなものになるということです。

 私たちはどうでしょうか。毎週の礼拝の中で、日々の歩みの中で、神様の言葉である律法を通して、律法を成就してくださったイエス様を通して、神様の愛を受け取りたいと思います。そして、同じ律法を通して、イエス様を通して、神様の御心を教えられ、神様の愛に応えて生きる者でありたいと思います。

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