礼拝説教から 2022年4月24日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章13-16節
  • 説教題:地の塩、世の光として

 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

 

1.

 イエス様は、ご自分を信じるクリスチャンのことを、「地の塩」と表現されました。クリスチャンは「地の塩」のようなものだということです。

 地というのは、私たちの生きる世界のことと言えるでしょうか。そして、クリスチャンは、その世界の中で、塩のような役割を果たしているということです。

 塩の役割というのは、どのようなものでしょうか。イエス様がクリスチャンのことを「地の塩」と言われる時、そこには、二つの役割があると考えられているようです。

 塩の第一の役割は、食べ物が腐らないようにすることです。食べ物が腐るのを防ぐこと、それが塩の第一の役割です。そして、イエス様が、クリスチャンのことを地の塩と言われる時、そこには一つの前提があると言えるでしょう。それは、この世界が腐りやすいということです。この世界は、放っておいたら、すぐに腐ってしまうということです。だからこそ、そこには塩のような存在が必要であり、それがイエス様を信じるクリスチャンだということです。私たちは、この世界が腐ってしまわないために、塩の役割を果たすクリスチャンとして、イエス様から遣わされているということです。

 塩の第二の役割は、料理に味付けをすることです。料理をおいしくすることです。食べ物を腐らせないことが消極的な役割であるとすれば、料理をおいしくすることは積極的な役割と言ってもいいのかも知れません。あるいは、イエス様は、クリスチャンの存在を通して、私たちの世界が喜びに満たされていくことを願っていてくださると言ってもいいのかも知れません。

 また、イエス様は、ご自分を信じるクリスチャンのことを、「世の光」と言われました。クリスチャンは「世の光」だということです。世界の中で、光のような役割を果たしているということです。そして、イエス様が、クリスチャンのことを世の光と言われた時、そこには、地の塩の場合と同じように、一つの前提があるでしょう。それは、この世界が暗いということです。この世界は暗い、暗闇に包まれているということです。だからこそ、そこには、光が必要であり、それが、イエス様を信じて生きるクリスチャンだということです。私たちは、暗闇に包まれた世界を照らす光として、イエス様から遣わされているということです。

 どうでしょうか。私たちは、自信を持って、「地の塩」、「世の光」と言えるでしょうか。それは、とても難しいことなのではないでしょうか。自分自身を見て、「地の塩なんて、世の光なんて、とても言えない」というのが、私たちの現実なのではないでしょうか。私たちは、自分のことを、「地の塩」とか、「世の光」などと言えるほどに、立派な者ではないわけです。

 もしかしたら、以前にも分かち合ったことがあるかも知れませんが、キリスト教系の学校に通った経験のある方と話をしていると、「地の塩」、「世の光」という言葉が出てきたりします。それは、少し否定的な意味においてです。「自分は、地の塩になんかなれない、世の光になんかなれない」ということです。そして、だからこそ、「自分は、クリスチャンにはなれない」ということでもあります。私は、本当に残念だなぁということを思います。

 ちなみに、イエス様は、「あなたがたは地の塩です」と言っておられます。「あなたがたは世の光です」と言っておられます。「地の塩になるだろう、世の光になるだろう」と言われたのではありません。「地の塩になりなさい、世の光になりなさい」と言われたのでもありません。そうではなくて、「地の塩です」と言われたわけです。「世の光です」と言われたわけです。それは、将来の可能性が語られているということではありません。努力目標が設定されているということでもありません。そうではなくて、イエス様は宣言をされているということです。「地の塩です、世の光です」と宣言しておられるということです。私たち自身が、自分を見てどう考えるかではありません。イエス様が、私たちのことを、「地の塩」、「世の光」として、認めていてくださるということです。

 イエス様が「あなたがたは」と語られた時、そのイエス様の言葉を聞いていたのは、イエス様の弟子たちであり、群衆と呼ばれる人々でした。それは、別の言葉で言えば、取るに足りない人々です。何の影響力もない人々です。むしろ、問題だらけの人々です。後には、イエス様を十字架に追いやったり、イエス様を見捨てたりしたような人々です。「地の塩」、「世の光」になんて、なり得ない人々です。

 しかし、そんな彼らのことを、イエス様は、「地の塩」、「世の光」と認めていてくださったということです。イエス様を信じて生きる、イエス様の救いを必要としている、その一点だけを見て、「地の塩」、「世の光」であることを認めていてくださるということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。イエス様が教えていてくださるのは、塩が塩気を保つことであり、光が光を輝かせることだということです。「地の塩」として認めていてくださるからこそ、塩気を保つことの大切さを教えていてくださるということです。「世の光」として認めていてくださるからこそ、その光を照らす生き方を教えていてくださるということです。

 私たちはどうでしょうか。「とても地の塩なんかにはなれない、とても世の光になんかなれない」と思っていることはないでしょうか。「地の塩、世の光になれない自分は、クリスチャンとして失格だ、クリスチャンにはなれない」と思っていることはないでしょうか。

 何よりもまず、「あなたがたは地の塩です」、「あなたがたは世の光です」というイエス様の言葉に、いつも耳を傾けていたいと思います。そして、「地の塩」、「世の光」である自分を認めることができればと思います。

 

2.

 イエス様は、光に焦点を当てながら、光を輝かせなさいと言われました。

 光を輝かせるというのは、どういうことなのでしょうか。

 イエス様は、「あなたがたの光を人々の前で輝かしなさい」と命じながら、「人々があなたがたの良い行いを見て」と言っておられます。

 どういうことでしょうか。それは、逆に言うと、「良い行い」を通して、私たちが光を輝かせるということではないでしょうか。私たちは、「良い行い」によって、光を輝かすということです。

 しかし、どうでしょうか。「良い行い」というのは、どのようなものなのでしょうか。どすれば、それは「良い行い」ということになるのでしょうか。

 イエス様は、人々の前で光を輝かせる理由として、「天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」ということを言っておられます。クリスチャンが、「良い行い」によって、光を輝かせるのは、天の父なる神様が崇められるためだということです。言い方を変えると、クリスチャンの「良い行い」というのは、天の父なる神様が崇められることにつながるということです。クリスチャンの「良い行い」というのは、人々の目を、天の父なる神様に向けさせるようなものだということです。あるいは、人々の目を天の父なる神様へと向けさせるようになるなら、それは「良い行い」と言ってもいいのかも知れません。反対に、どんなに立派な行いに見えても、それが、人々の目を天の父なる神様へと向けさせることにつながらないとすれば、必ずしも「良い行い」とは言えないのかも知れません。

 イエス様の時代、ユダヤの社会には、律法学者、パリサイ人と呼ばれる人々がいました。律法学者というのは、神様の言葉である律法の専門家です。パリサイ人は、忠実に律法に従って生きることを目標としていました。律法学者やパリサイ人は、神様の御心に従って生きることを、何よりも大切なことと考えていました。それは、とても素晴らしいことでした。「良い行い」というのは、何よりも、神様の御心にかなうものであるはずだからです。そして、イエス様ご自身も彼らのことを認めておられたことでしょう。あるいは、ユダヤの社会において、律法学者やパリサイ人は、誰よりも「良い行い」をしていた人々と言ってもいいのかも知れません。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、その律法学者やパリサイ人を、厳しく批判されました。

 どうしてでしょうか。それは、律法学者やパリサイ人が、自分の義を求めたからではないでしょうか。律法学者やパリサイ人は、自分の義、自分の正しさを主張したということです。自分の正しさが、人々からも、神様からすらも、認められることを願い求めたということです。律法学者やパリサイ人が関心を持っていたのは、自分が認められることだったということです。律法学者やパリサイ人は、あくまでも、自分が中心だったということです。そして、自分が中心である以上、彼らの行いは、それがどんなに立派なものであるとしても、人々の目を神様へと向けることにはならなかったということです。イエス様の目から見て、律法学者やパリサイ人は、「地の塩」でも、「世の光」でも、何でもなかったということです。

 そうすると、「良い行い」をするというのは、どういうことになるでしょうか。

 それは、イエス様と共に生きる歩みそのものということではないでしょうか。取るに足りない自分、何の影響力もない自分、何よりも罪人の自分、そんな自分を愛していてくださるイエス様の救いを必要として、イエス様を愛して生きる歩みそのものではないでしょうか。イエス様との関係を大切にして、イエス様ご自身に支えられながら、イエス様の御心に従って生きる歩みそのものではないでしょうか。そして、そのイエス様を喜び、イエス様をほめたたえて生きる歩みそのものではないでしょうか。

 今から20年ちょっと前になるでしょうか。私は、韓国に渡りました。そして、その韓国で、初めて、クリスチャンと呼ばれる人々と出会いました。私は、クリスチャンであろうとなかろうと、韓国の人々と仲良くなることができると、とてもうれしかったです。

 しかし、そのクリスチャンたちとの出会いの中で、私は、とても不思議に思うことがありました。それは、彼らが、日曜日の礼拝をとても大切にしているということでした。私は、最も時間があるはずの日曜日に、彼らとのんびりと出会うことができないのは、ちょっと残念でした。しかし、そんな残念な思いを越えて、私は関心を持つようになりました。彼らが、日曜日に教会でどのように過ごしているのか、それがとても気になったわけです。それは、彼らがとても良い人たちだったからでもありました。もちろん、「えー、何で」と思うこともありました。腹が立つこともありました。良い所だけではなくて、良くない所もあったわけです。しかし、神様を必要としていて、神様との関係を大切にしていて、だからこそ、外国人である自分にも暖かく接していてくれる姿を見る時に、私の目は彼らの信じる神様の方へと向けられていました。

 イエス様は「あなたがたの光」を輝かせなさいと言われました。しかし、それは私たち自身が、自分で光輝くということではありません。なぜなら、私たち自身は光でも何でもないからです。私たちは真の光であるイエス様と共にいてこそ、光として輝くことができるということです。王であるイエス様に人生を明け渡して、イエス様と共に生きる時に、イエス様を喜んで生きる時に、私たちは、イエス様の光の中に招かれた者として、その光を輝かすことができるということです。そして、「良い行い」は、そのイエス様と共に生きる歩みの中から生まれてくるのではないでしょうか。

 大切なことは何でしょうか。それは、塩気を保つことです。光を輝かせることです。そして、それは、クリスチャンがクリスチャンとして生きることに他なりません。イエス様と共に生きることに他なりません。罪人の自分を愛していてくださるイエス様を喜んで生きることです。だからこそ、イエス様を愛して、イエス様の御心を求めて生きることです。

 毎週の礼拝の中で、イエス様の十字架の死と復活を見上げたいと思います。そのイエス様によって、「地の塩」、「世の光」として遣わされていくことができればと思います。そして、イエス様と共に生きる私たちの小さな歩みが、人々の目を神様の方へと向かわせることにつながることを、心から願います。

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