礼拝説教から 2022年4月17日

  • 聖書箇所 マタイの福音書28章1-10節
  • 説教題 勝利の復活

 さて、安息日が終わって週の初めの日の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行った。すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。その姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになった。御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこでお会いできます』と。いいですか、私は確かにあなたがたに伝えました。」彼女たちは恐ろしくはあったが大いに喜んで、急いで墓から立ち去り、弟子たちに知らせようと走って行った。すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。イエスは言われた。「恐れることはありません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。」

 

0.

 今日はイースターです。イースターというのは、主イエス様の復活を記念して喜び祝う日です。十字架にかかられたイエス様は、死んだだけではなくて、復活されました。

 教会は、その始まりの時から、イエス様の復活を記念するイースターを、一年間の歩みの中で、最も大切にしてきました。なぜなら、教会が、毎週の日曜日を「主の日」と呼び、その主の日に集まって礼拝をしてきたのは、主イエス様の復活を記念して喜び祝うためだったからです。教会は、主イエス様の復活を記念して喜び祝うために、毎週日曜日の礼拝に集まってきたということです。あるいは、すべての主の日は、小さなイースターと言ってもいいでしょう。いずれにしろ、イエス様の復活は、主の日の礼拝の根拠となっているのであり、主の日の礼拝から始まる私たちの信仰生活のすべてを根本的に支えるものであると言えるでしょう。

 栗東キリスト教会では、毎年のイースターの礼拝の中で、召天者の方々、先に天に召された方々を記念して感謝する時を持ってきました。

 召天者の方々を記念するというのは、召天者の方々のために、冥福を祈ることではありません。召天者の方々の天国行きを、より確かなものにするということではありません。なぜなら、召天者の方々は、すでに天において確かな幸いを得ておられるからです。すでに天において確かな幸いを得ておられる召天者の方々のために、私たちが追加でしなければならないことは、何もないわけです。そして、そうであるにもかかわらず、私たちが毎年のように召天者の方々を記念するのは、その召天者の方々に与えられた神様の恵みを見つめることだと言えるでしょう。そして、なおも地上の生涯を歩む私たちにもまた、同じ神様の恵みが注がれていることを確信して、天国への確かな希望をいただいて、地上の生涯の終わりに備えていくことです。

 

1.

 イエス様は、金曜日の午後三時頃、十字架の上で息を引き取られました。そして、その後、日が暮れるまでの間に、アリマタヤのヨセフという人が、イエス様の遺体を十字架から下ろして、亜麻布に包んで、墓に納めました。それは、安息日が始まる前のことでした。

 そして、その安息日が終わった後、週の初めの日というのは、日曜日のことです。日曜日の明け方に、マリアという同じ名前を持つ二人の女性が、イエス様の葬られた墓を見に行きました。他の福音書を参考にすれば、二人のマリアがイエス様の墓に行ったのは、イエス様の遺体に油を塗ろうとしていたからであることが分かります。それは、十字架刑によって傷つけられたイエス様の遺体をきれいにして、丁寧に葬りたいという願いの現れと理解することができるでしょうか。二人のマリアはイエス様の死を痛み悲しんでいたということです。そして、それは、二人のマリアにとって、イエス様は死んだ人だったということを意味しています。二人のマリアは、イエス様が復活するなどということは、夢にも思わないで、ただ、イエス様の死を痛み悲しみながら、墓に向かったということです。

 死というのは、誰もが平等に経験することです。例外はありません。誰もこの死の力に対抗することはできません。そして、私たちの誰もが死を迎えるという現実は、死というものが、私たちを最終的に支配する力であることを物語っています。私たちは、どんな人生を送るとしても、結局の所は、死に支配されているということです。そして、それは、イエス様も例外ではなかったということです。イエス様も、私たちと同じように、死んでしまわれたということです。そして、そうであるならば、イエス様が生前に語っておられたことも、イエス様がなされていたことも、結局は何の意味もないものだったということになるのかも知れません。イエス様は、死んでしまわれたのであり、救い主でもなんでもなかったということです。すべては終わったということです。

 しかし、その二人のマリアがイエス様の墓に到着して見たのは、何だったでしょうか。

 二人のマリアがイエス様の墓に到着すると、大きな地震が起こりました。それは、天使が、石を脇に転がして、その上に座ったからです。石というのは、墓の入り口を塞ぐために置かれたものです。力の弱い女性の力で動かすことのできる石ではありません。しかし、天使が石を脇に転がしたということです。そして、イエス様の墓を見張っていた番兵たちは、恐ろしくて、死人のようになってしまいました。

 イエス様の墓は、番兵と呼ばれる人々によって、見張られていました。番兵というのは、ローマ帝国の兵士です。実は、他の福音書には出てこないのですが、マタイの福音書では、その番兵たちの存在に目が向けられています。

 どういうことでしょうか。イエス様は、生きておられた頃に、「三日後によみがえる」と語っておられました。「よみがえる」というのは、「死ぬ」ことを前提にしていますが、イエス様は、ご自分が死ぬことと、よみがえることを語っておられたということです。そして、そのイエス様の言葉を、祭司長と呼ばれる人々やパリサイ人と呼ばれる人々も、聞いていたようです。祭司長やパリサイ人というのは、ユダヤ人たちの宗教的な指導者であり、イエス様を十字架へと追いやった人々です。そして、その祭司長たちやパリサイ人たちが心配していたのは、イエス様の弟子たちがイエス様の遺体を盗み出して、イエス様の復活を主張するかも知れないということです。「イエス様の弟子たちが、イエス様の遺体を盗み出して、イエス様の復活を主張するかも知れない、そうなれば、とてもやっかいなことになる」ということです。そして、そんなことにならないように、祭司長たちやパリサイ人たちは、ローマの総督であるピラトに頼んで、番兵たちに墓の見張りをさせていたということです。

 しかし、その番兵たちはどうなったでしょうか。番兵たちは、天使の前で、恐ろしさのあまりに震えることしかできませんでした。イエス様の復活を知らせる天使の前で、番兵たちは死人のようになったということです。

 どういうことでしょうか。その意味する所の一つは、イエス様の復活という事実の前で、人間の罪の力が完全に打ち砕かれたということではないでしょうか。

 イエス様は、祭司長たちやパリサイ人たちによって、十字架の死に追いやられました。祭司長たちやパリサイ人たちに扇動された群衆も、イエス様の十字架刑を求めました。イエス様の罪を認めていなかったローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトも、自分の身を守るために、イエス様の十字架刑を認めました。

 イエス様を死に追いやった十字架、それは、人間の罪を象徴しています。人間の罪の力、人間の罪の恐ろしさというのは、イエス様に死をもたらした十字架に象徴されています。番兵たちは、そのイエス様の死の事実を確実なものとするために、イエス様の墓を見張っていたということです。

 しかし、神様は、そのイエス様を、死人の中から、よみがえらせてくださったということです。そして、それは、神様が罪の力に打ち勝たれたということです。神様が罪人である人間の企みを打ち砕かれたということです。神様は、罪の力に支配される方ではないということです。死の力に支配される方ではないということです。神様は、罪の力よりも、死の力よりも、強い方だということです。

 十字架というのは、私たち人間の罪を象徴しています。死の力を示しています。そして、イエス様の復活は、その罪の力にも、死の力にも、限界があることを示しています。イエス様の復活は、神様が罪と死の力よりも強い方だということを示しています。

 ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって、一ヶ月以上が経ちました。毎日のニュースを通して、私たちは、その戦争によって起こされた悲惨な状況を目の当たりにしています。そして、もしかしたら、そのニュースを見ながら、「人間というのは、こんなにひどいことができるのか」ということを、改めて感じている人も多いかも知れません。あるいは、私たちは、人間の罪の力を見せつけられていると言ってもいいのかも知れません。限界のない罪の力を見せつけられていると言ってもいいのかも知れません。そして、その罪の力を見せつけられる時、私たちは希望を持つことができなくなります。

 しかし、イエス様の復活に目を向ける時、私たちはそこに希望を見ることができます。罪の力がどんなに大きいものであろうとも、神様はその罪よりも大きな力を持っている方であることを確信することができます。そして、その神様ご自身の中に、イエス様の十字架の死と復活の中に、私たちは変わることのない希望を見ることができます。

 天使は、二人のマリアを安心させてから、イエス様がよみがえられたことを告げました。イエス様は、墓の中にはおられないということです。よみがえられたということです。そして、二人のマリアは、天使の言葉に従って、イエス様が復活された事実を、他の弟子たちに知らせに行きました。そこには、恐れと共に、喜びがありました。

 ちなみに、二人のマリアは、天使の言葉を聞いた後、すぐに立ち去ったように描かれています。墓の中を確認して、「ああ、本当にイエス様の遺体がない、天使が言った通りに、イエス様は復活されたんだ」と納得して、それから他の弟子たちの所に走って行ったようには、描かれていません。実際には墓の中を確認したのかも知れませんが、少なくとも、そこに焦点が当てられているわけではありません。むしろ、その反対に、浮かび上がってくるのは、二人のマリアが、空っぽの墓を確認して、イエス様の復活を信じたのではないということです。実は、同じ現場にいて、天使とマリアのやりとりを見ていた番兵たちも、イエス様の復活を信じたのではないわけです。書かれてはいないものの、番兵たちこそ、空っぽの墓を確認しているはずなのではないでしょうか。しかし、そうではあるにもかかわらず、イエス様の復活を信じたのではないということです。

 二人のマリアがイエス様の復活を信じて喜んだのは、何によってでしょうか。それは、イエス様ご自身の言葉によってではないでしょうか。二人のマリアは、天使が「前から言っておられたとおりに」と言ったその言葉によって、イエス様ご自身が語られていた言葉を思い出していたのではないでしょうか。

 復活というのは、客観的に証明できるわけではありません。何らかの形で証明されれば、たくさんの人がイエス様を信じるようになるということではありません。客観的に証明されれば、私たちの信仰がより確かなものになるということではありません。そうではなくて、信仰というのは、イエス様ご自身の言葉によって与えられるものであり、確かなものにされるということです。私たちは、イエス様の言葉の中で、イエス様との交わりの中で、十字架の愛を受け取るのであり、復活の勝利を信じるということです。

 二人のマリアは、イエス様ご自身が語られていた言葉を思い出しながら、イエス様の復活を信じました。そして、復活のイエス様と出会いました。

 私たちは、復活のイエス様を目で見ることができません。しかし、同じイエス様の言葉が与えられています。二人のマリアに与えられた言葉が、私たちにも与えられています。そして、そのイエス様の言葉を覚えて信じる時、私たちは、復活して、今も共にいてくださるイエス様と、生きた交わりを持つことができます。大切なことは、イエス様の生きた言葉によって、十字架の愛を受け取り、復活の勝利を信じることです。私たちが今日の礼拝の中で記念する召天者の方々も、その信仰によって、地上の生涯を歩み、天の故郷に帰って行かれました。

 私たちは、日々の歩みの中で、罪の力を目の当たりにさせられています。その罪の力の前では、私たちは死人のようになることしかできません。私たち自身には何の力もないことを思い知らされます。それは、召天者の方々も同じだったことでしょう。

 しかし、そうであるにもかかわらず、召天者の方々が、イエス様を信じて、天の故郷に帰って行かれることができたのは、そこに復活があったからです。特別な信仰を持っておられたからではありません。復活によって、罪に勝利されたイエス様ご自身に支えられておられたからです。復活によって、罪の力に打ち勝たれたイエス様ご自身に支えられておられたからこそ、召天者の方々は、信仰を持って、天の故郷に帰ることができたということです。そして、それは、現在の私たちも同じです。

 イースターの今日、そして、毎週の主の日の礼拝において、イエス様の十字架の死と復活を見つめることができればと思います。罪と死が大きな力を持つ現実の中で、イエス様の復活の勝利を確信したいと思います。その勝利が私たちにも与えられていることを確信したいと思います。そして、イエス様の言葉を信じて、イエス様の言葉に従って、新しく生きることができることを心から願います。

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