- 聖書箇所 マタイの福音書5章1-12節
- 説教題 主イエス様と受難を共にする
義のために迫害されている者は幸いです。↩ 天の御国はその人たちのものだからです。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。(10-12)
キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(テモテへの手紙第二3章12節)
0.
今日は、教会暦という教会独自のカレンダーでは、「棕櫚の主日」と呼ばれています。イエス様がエルサレムの町に入られる時、イエス様を追いかけていた人々は、棕櫚の木を振り上げながら、イエス様を迎えました。棕櫚の主日というのは、そのイエス様のエルサレム入城の出来事を記念する日です。そして、その棕櫚の主日から、受難週が始まります。エルサレムに入られたイエス様が、十字架へと向かわれた最後の日々です。イエス様は、金曜日に十字架にかかり、その日没前に息を引き取られました。受難週は、そのイエス様の十字架の死を覚えながら、イースターを迎える準備の時となります。
昨年と一昨年は、ヨハネの福音書から、十字架へと向かって行かれるイエス様を見つめました。今年は、いつもの順番に従って、マタイの福音書からイエス様の言葉に耳を傾けていきたいと思います。
2月からマタイの福音書5章1-12節を開いています。イエス様が、山の上で、弟子たちや群衆と呼ばれる人々に語られた説教の最初の部分です。イエス様は、まず、幸いについて語られました。それは、イエス様によって招かれた、新しい神様の国の民に約束されている幸いです。全部で八つの幸いです。
今日は、その八番目、最後の幸いについて、見ていきたいと思います。それは、「義のために迫害されている者」の幸いです。
1.
イエス様は、義のために迫害されている人が幸いだと言われました。義のために迫害されている人は祝福されているということです。そして、それは、天の御国が義のために迫害されている人のものだからだということです。義のために迫害されている人は、天の御国の民、神様の国の民として迎え入れられているということです。義のために迫害されている人は、神様の国の民として迎え入れられているからこそ、幸いだということです。
どうでしょうか。迫害と言えば、どのようなものをイメージするでしょうか。
牢屋にぶち込まれることでしょうか。拷問を受けることでしょうか。そして、ひどい殺され方をすることでしょうか。実際に、新約聖書の時代にも、クリスチャンたちは厳しい迫害を受けました。使徒の働きを見ると、イエス様の一番弟子であるペテロは、牢屋に入れられていることが分かります。ステファノという人は、石を投げつけられて殺されました。そして、その後の二千年に及ぶ教会の歴史を見ても、厳しい迫害は何度も起こっています。現在でも、キリスト教が認められていない国や地域では、厳しい迫害が続いています。いずれにしろ、私たちは、迫害と言われれば、殉教のような、何かとんでもない苦しみを受けることをイメージするかも知れません。そして、そうであるならば、それは、現在の日本で信仰生活をする私たちとは、あまり関係のないことのように思われるかも知れません。
しかし、次の10節を見ると、どうでしょうか。イエス様の言われている迫害というのは、現在の私たちにとっても、身近なものであることが分かるのではないかと思います。
イエス様は、人々が「あなたがた」を罵ると言われました。また、ありもしないことで悪口を浴びせると言われました。イエス様を信じる人は、人々から、罵られることがあるのであり、悪口を浴びせられることがあるということです。今日の本文の中で、イエス様が「迫害」と言われる時、そこには、罵られたり、悪口を浴びせられたりするようなことも含まれてくるということです。そして、そうであるならば、それは、現在の私たちにとっても、決して無関係のことではないということになるのではないでしょうか。私たちもまた、信仰生活の中で、罵られることは、いくらでもあるということです。悪口を浴びせられることは、いくらでもあるということです。国の憲法によって、信教の自由が保障されているとは言っても、信仰生活の中で、気まずい思いをすることや、苦しい経験をすることは、いくらでもあるということです。
ちなみに、イエス様は、迫害を受けることについて、「義のために」と言われました。イエス様が言われているのは、「義のために」受ける迫害です。他に何らかの理由があっての迫害ではありません。義のために受ける迫害です。そして、「義のために」というのは、「わたしのために」と言い換えられています。もちろん、「わたし」というのは、イエス様ご自身のことです。つまり、義のためにというのは、イエス様のために、イエス様を信じているために、イエス様に従っているためにということです。私たちは、イエス様のために、イエス様を信じているために、イエス様に従っているために、迫害を受けることがあるということです。
どうでしょうか。私たちは迫害を受けているでしょうか。あるいは、迫害を受けることがあるとすれば、それは、どのような時でしょうか。私たちはどうして迫害を受けているのでしょうか。
それは、義のためでしょうか。イエス様のためでしょうか。あるいは、何か他のことのためということはないでしょうか。
信仰生活の中で迫害を受けていると感じる時、もしかしたら、私たちは、少し冷静になる必要があるのかも知れません。なぜなら、私たちが、迫害を受けるのは、罵られたり、悪口を浴びせられたりするのは、必ずしも「義のために」であるとは限らないからです。「イエス様のために」であるとは限らないからです。実際には、自分の態度に問題があって、自分の主義主張が原因で、迫害を受けるようなことは、いくらでもあるということです。あるいは、自分自身の何かが原因で苦しんでいるにもかかわらず、義のために、イエス様のために迫害を受けていると考えるようなことが、私たちにはあると言ってもいいのかも知れません。
私たちは、自分で迫害を招く必要はありません。罵られるために、悪口を浴びるために、これ見よがしに、何かをする必要はないでしょう。迫害というのは、受けなければ、受けないに越したことはないわけです。
しかし、イエス様を信じて生きる時、イエス様に従って生きる時、そこには迫害が伴ってきます。そして、聖書全体を見る時、それは、「そういうこともある」ということではなくて、必然的なことと言ってもいいのかも知れません。
例えば、使徒パウロは、テモテに宛てた手紙の中で、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うすべての人が、迫害を受けると言っています。例外はありません。みんなです。私たちが、忠実にイエス様に従って生きようとするならば、そこには必ず迫害があるということです。そして、それがクリスチャンの歩みだということです。
それでは、イエス様に従って生きる人は、どうして迫害を受けることになるのでしょうか。それは、イエス様を信じて生きるということが、イエス様に従って生きるということが、世の人々の歩みとは、根本的に異なるからではないでしょうか。イエス様に従うクリスチャンの生き方というのは、世の人々とは根本的に異なるということです。クリスチャンは、この世界の中で、根本的に異質な存在だということです。根本的に人々から理解されることのない存在だということです。そして、異質であるからこそ、理解されないからこそ、そこには摩擦が起こるのであり、迫害も伴ってくるということです。
現代の社会では、多様性ということが、とても大切にされています。それは日本でも同じです。
いつ頃からだったでしょうか。私がまだ教会に導かれる前でした。金子みすずという詩人が脚光を浴びるようになりました。私も大好きになりました。その中で、「私と小鳥とすずと」という作品が、とても印象的でした。ご存知の方も多いと思いかも知れませんが、「みんな違って、みんないい」という言葉が、よく知られています。私たちは、一人一人、みんな違いがあるのであり、違っていていいのだということです。そして、それは、神様の御心でもあると言えるでしょう。
しかし、「その一方で」ということになるでしょうか。あるいは、「現実は」と言った方がいいでしょうか。私たちは、違いを違いとして受け入れられないことが、どれほど多いでしょうか。反対に、違うという理由で、受け入れることを拒んでしまうことが、どれほど多いでしょうか。罪人である私たちは、本質的に異質なものを排除する傾向があるということです。そして、イエス様を信じるクリスチャンというのは、まさに、この世界の中で、根本的に異質な存在だということです。根本的に理解されることのない存在だということです。そして、だからこそ、迫害を受けるということです。しかし、イエス様は、その迫害を受ける私たち一人一人に向かって、幸いだと言われているわけです。なぜなら、イエス様に従って生きるために、迫害を受ける人は、神様の国の民として受け入れられているからだということです。他でもなく、神様ご自身が、迫害されている私たちのことを知っていてくださるのであり、受け入れていてくださるということです。あるいは、逆に言うと、私たちがイエス様のために迫害を受けているとすれば、それは、私たちが、神様の国の民として、神様ご自身によって受け入れられている証しになっているということなのかも知れません。そして、そうであるならば、それは、私たちが迫害を受ける場合にも、大きな励ましになるのではないでしょうか。迫害の中にあって、希望を持つことができるのであり、忍耐する力が与えられるということです。
イエス様は、最後に改めて、喜びなさいと言われました。迫害を受けたら、とにかく耐え忍びなさいと言われたのではありません。そうではなくて、喜びなさいということです。しかも、大いに喜びなさいと言われました。迫害を受けている時には、大喜びしなさいということです。
どうでしょうか。迫害を受けている中で、喜ぶことができるでしょうか。それは、とても難しいことなのではないでしょうか。迫害の中で大喜びをするというのは、それこそ、常識では考えられないことです。理解できないことです。イエス様ご自身も、後に、十字架にかけられる前には、その苦しい思いを言葉にして祈られました。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、迫害を受ける私たちに、大喜びすることを求めておられるということです。
どうしてでしょうか。それは、迫害を受ける私たちに、神様が報いを約束してくださっているからです。大きな報いを約束してくださっているからです。そして、それは、この世界で受けるどのような報いとも比較ができないものです。神様の報いは、この世界で受けることのできるどのような報いとも、比較にならないということです。だからこそ、喜ぶことが求められているということです。喜んでいいのだということです。
繰り返しになりますが、今日は棕櫚の主日です。今日から受難週が始まります。イエス様が十字架に向かって歩まれた最後の日々です。誰よりも、イエス様ご自身が、人々から理解されることなく、十字架へと追いやられていかれました。そして、その受難週を過ごす中で、私たちはイエス様の十字架を見つめます。イエス様の十字架を見つめるというのは、罪人の自分と向き合うということであり、その罪人の自分を赦してくださったイエス様の愛を受け取って喜ぶということです。しかし、そこで終わるのではなくて、私たちもまた、イエス様と共に、自分の十字架を背負うということです。イエス様と受難を共にするということです。
私たちには、殉教をしなければならないような、死を覚悟しなければならないような、厳しい迫害を受ける機会はないかも知れません。これからもないことを願います。しかし、イエス様に従って生きる時、小さなものではあるとしても、何らかの迫害を受けることは確かです。それは、決して喜ばしいものではないでしょう。どんなに小さなものであるとしても、迫害が苦しいものであることには、何の変わりもないわけです。しかし、そこで覚えたいのは、その迫害によって、私たちは、自分が神様の国の民として受け入れられていることを確信することができるということです。
受難週の間、もちろん、受難週の間だけではありませんが、改めて、イエス様の十字架を見つめながら、罪人の自分が赦されている恵みを味わいたいと思います。イエス様と共に、自分の十字架を背負って歩きたいと思います。そして、その歩みの中で、迫害を受けるようなことがあるとしても、そのことを通して、自分が神様の国の民として受け入れられている恵みを確信したいと思います。そして、その確信と希望が、忍耐につながり、喜びにつながり、迫害を乗り越えていくことにつながればと思います。