礼拝説教から 2022年4月3日

聖書箇所 マタイの福音書5章1-12節

説教題 平和をつくる

 平和をつくる者は幸いです。↩ その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。(9)

 

0.

 今週も、マタイの福音書5章1-12節を開いています。マタイの福音書5-7章は、一般的に「山上の説教」と呼ばれる所であり、イエス様はその山上の説教の最初に、八つの幸いについて語られました。それは、イエス様によって、新しく神様の国の民として招かれた人々の性質についてであり、彼らに約束されている祝福についてです。

 今日は、9節から、7番目の幸いを見ていきたいと思います。それは、「平和をつくる者」の幸いです。

 

1.

 イエス様は、平和をつくる人が幸いだと言われました。平和をつくる人は祝福されているということです。そして、それは、平和をつくる人が、神様の子どもと呼ばれるからだということです。

 もう一ヶ月になるでしょうか。ロシアの軍隊がウクライナを攻撃しました。一言で言うと、戦争の始まりです。そして、その戦争によって、ウクライナの多くの人が命を奪われています。多くの人が、周りの国に避難をしなければならないことにもなりました。家族がばらばらです。それは、日本に住む私たちの目から見れば、一方的な侵略であり、決して許されてはならないことです。だからこそ、世界の多くの国が、ロシアと戦うウクライナを助けています。それは、ロシアに対する経済的な制裁であったり、ウクライナに対する軍事的な支援であったりします。日本もその中に加わっています。そして、それは、微妙な駆け引きの中で行われていることだと言えるでしょう。なぜなら、ロシアによるウクライナへの一方的な侵略を認めるわけにはいかない一方で、だからと言って、ロシアを刺激して、戦争がより大きな規模になって、取り返しのつかない事態へと発展することは、何としても避けなければならないからです。私たちは、その難しい状況を見守りながら、速やかな戦争の終結を願っています。平和を願い求めています。

 私たちにとって、平和は最も大切なことの一つだと言えるでしょう。あるいは、イエス様が「平和をつくる者」の幸いを宣言されているのも、私たちにとって、平和が大切であり必要であることを知っておられるからと言ってもいいのかも知れません。イエス様は、私たちが平和の中に生きることを願っていてくださるということです。

 ちなみに、イエス様は、「平和をつくる」と言われました。「平和を守る」ではありません。「平和を保つ」でもありません。そうではなくて、「平和をつくる」ということです。

 どういうことでしょうか。

 「平和を守る」、「平和を保つ」ということであれば、それは、とにもかくにも、平和が実現していることを前提にしているでしょうか。平和が実現していると考えるからこそ、平和を守る、平和を保つということが言えるのではないでしょうか。そして、平和を守る、平和を保つと言う時、その平和というのは、戦争がない状態ということを意味しているでしょう。あるいは、最近であるならば、テロがないということも、平和の大きな条件になってくるかも知れません。他にも、何の関係もないたくさんの人を意図的に巻き込む事件などが起こった場合にも、私たちは平和が脅かされていることを感じているかも知れません。いずれにしろ、「平和を守る、平和を保つ」と言われる時、私たちは平和が実現していることを前提として考えています。

 しかし、イエス様が言われたのは、「平和をつくる」ということです。「平和をつくる」というのは、反対に、平和が実現していないことを前提にしている表現です。平和が実現していないからこそ、平和をつくるということです。

 そうすると、イエス様が言われている平和というのは、どのようなものなのでしょうか。それは、ただ単に、戦争がない状態のことではないということになるでしょう。イエス様が言っておられる平和というのは、ただ単に、戦争やテロがない状態、秩序がきちんと守られている状態ということではなさそうです。

 これまでにも何度か分かち合っていると思いますが、今日の本文の中で、「平和」と訳されている言葉をギリシア語の辞書で調べてみると、「平安」という意味も持っていることが分かります。

 平安というのは、心が穏やかな状態を意味しています。安心することができているということです。警戒心を解いて、肩の力を抜いて、リラックスすることができているということです。そして、人と人との関係の中で、警戒心を解いて、肩の力を抜いて、リラックスすることができているとすれば、そこには平和が実現していると言ってもいいのだと思います。あるいは、個人の心の中に安心があれば、それは平安があるということであり、人と人との関係の中に安心があれば、それは平和が実現しているという言い方をしてもいいのかも知れません。いずれにしろ、平安や平和というのは、安心の上に成り立つということです。

 私たちはどうでしょうか。心の中に平安があるでしょうか。人と人との関係の中に、平和があるでしょうか。もしかしたら、ケンカばかりしていたりするでしょうか。あるいは、表立ってケンカをしているということではないとしても、本当に安心していることのできる関係、完全にリラックスしていることのできる関係は、どこにもないということはないでしょうか。

 人と人との関係について言えば、完全に警戒心を解いて、肩の力を抜いて、リラックスしていることができるというのは、とても難しいことなのかも知れません。むしろ、その反対に、相手を信頼することができなくて、安心することができなくて、いつもどこかで身構えていたりするのが、もしかしたら、私たちの現実と言えるのではないでしょうか。そして、それは、人と人との関係においてだけではなくて、国と国との関係においても、同じでしょう。安心することができないからこそ、武器を捨てることができないということです。いざという時のために、戦いの準備をしておかなければならないということです。それは、不信感以外の何ものでもありません。そして、そのような不信感の上に築かれた平和は、実際には、平和でも何でもないと言ってもいいのかも知れません。相手を信頼して、肩の力を抜いて、武器も捨てて、安心していることのできるような平和は、実現していないということです。だからこそ、イエス様は、平和を守るではなくて、平和を保つではなくて、平和をつくると言われたのではないでしょうか。

 それでは、平和をつくるというのは、具体的にはどうすることなのでしょうか。とにかく、ケンカをしないように努力することでしょうか。ケンカをしている人がいたら、その間に入って、仲直りへと導いていくことでしょうか。あるいは、大きな力で、みんなにルールを守らせて、全体の秩序を維持していくことでしょうか。もちろん、そのようなことも、大切であったり、必要であったりはするでしょう。

 しかし、繰り返しになりますが、イエス様が言われている平和というのは、ただ単に、ケンカがないというだけのことではありません。戦争がないというだけのことではありません。秩序が守られているというだけのことではありません。そうではなくて、それは、互いの関係の中に、様々な関係の中に、完全な安心があるということです。肩の力を抜いて、リラックスしていることができるということです。そして、その完全な安心が土台となって、平和は築き上げられていくということです。そして、そうであるならば、ただ単に、ケンカをしないというだけでは、上手にケンカの仲裁をするというだけでは、みんなに秩序を守らせるというだけでは、本当の平和をつくることはできないと言わなければならないでしょう。

 それでは、どうすればいいのでしょうか。どのようにすれば、私たちは、平和をつくる者になるのでしょうか。

 以前にも分かち合ったことがあるでしょうか。私は、幼い頃から、他人に心を開くことが苦手でした。どうしてそうなったのかは分かりませんが、かなり幼い頃から、心のどこかで相手を警戒していたように思います。もちろん、仲良くなることはあります。嫌いだというわけではありません。しかし、どこかで心が閉じられていて、「誰々ちゃんには心を開いても大丈夫だろうか、裏切られたような気にさせられることはないだろうか」というようなことを考えているわけです。そして、それは、本当に安心をして、心を開くことのできる誰かを探し求めていたことの裏返しでもありました。私は、なかなか心を開くことのできない中で、本当に安心をして、心を開くことのできる誰かとの関係を、切に求めていたということです。

 そして、幸いなことに、私は、本当に安心をして、心を開くことのできる誰かと出会いました。それがイエス様です。

 私は、どうして、イエス様には心を開くことができたのでしょうか。どうして、イエス様の前では、安心することができたのでしょうか。それは、イエス様がすべてを受け入れていてくださることに気づかされたからだと思います。人の前では見せることのできない自分、誰にも知られてはならないような思いを抱えている自分、やばい自分、そんな自分をイエス様はありのままに受け入れていてくださる、このことに少しずつ気づかされたわけです。そして、すべてを受け入れていてくださるイエス様の前で、安心することができるようになったということです。イエス様の前でなら、肩の力を抜いて、リラックスしていることができるようになったということです。だからこそ、イエス様に心を開くことができるようになったということです。

 ちなみに、イエス様は、旧約聖書の時代から、「平和の君」と呼ばれていました。イエス様こそが、本当の平和をもたらす救い主だということです。神様ご自身と私たちとの関係の中に、私たち同士の関係の中に、あらゆる関係の中に、イエス様は本当の平和をもたらす救い主だということです。あるいは、イエス様の救いというのは、平和そのものと言ってもいいのかも知れません。救いというのは、何よりも神様との関係の中に、平和が実現していくことであり、そこから、人と人との関係の中に、あらゆる関係の中に、平和が実現していくことだということです。新約聖書の手紙に目を向けると、使徒パウロも、イエス様によってもたらされた救いの知らせを、「平和の福音」と表現しています。

 そうすると、「平和をつくる者」というのは、どのような人のことになるでしょうか。それは、絶対にケンカをしないという人のことではないでしょう。ただ単純に、人と人との仲を取り持つことが上手な人ということでもないでしょう。そうではなくて、それは、何よりも、イエス様こそが、「平和の君」であることを知っている人のことではないでしょうか。イエス様こそが、本当の平和を実現する救い主であり、そのために、私たちの世界に生まれてくださって、十字架にかかってくださった神様ご自身であることを信じて受け入れている人です。そして、そのイエス様との関係の中で、安心を得ている人です。イエス様との関係の中で、肩の力を抜いて、リラックスしている人です。イエス様との関係の中に、平和が実現している人です。だからこそ、そのイエス様を伝える人です。イエス様こそが、平和の君であることを伝える人です。イエス様こそが、世界中の人々の心に、本当の安心を与えることのできる救い主であることを信じて、そのイエス様を伝える人です。イエス様という土台の上で、人と人との関係の中に、あらゆる関係の中に、平和が実現することを願って、イエス様を伝える人です。世界の平和のために、イエス様に祈り求める人です。

 イエス様は、クリスチャンである私たち一人一人を、平和をつくる者として招かれました。私たちに平和の福音を委ねてくださいました。

 しかし、それは、私たち自身に平和をつくる力があるということではありません。私たち自身には、何の力もないわけです。むしろ、私たちの得意技は、平和をつくることではなくて、平和を壊すことと言った方がいいのかも知れません。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は私たちを平和の使者として招かれているということです。

 どうしてでしょうか。それは、私たちを用いてくださるイエス様ご自身が平和の君だからではないでしょうか。イエス様ご自身が平和をもたらしてくださる救い主だからではないでしょうか。イエス様には平和をもたらす力があるからではないでしょうか。そして、私たちに求められているのは、そのイエス様ご自身の力を信じることです。福音そのものの力を信じることです。真の平和は、イエス様によってこそもたらされることを確信することです。そして、そのイエス様を伝えていくことです。イエス様に祈り求めていくことです。

 ウクライナだけではなくて、世界中で戦争が起こっています。テロが起こっています。身近な所でも、様々な争いがあります。そして、そのような出来事を見る時、私たちは、痛み悲しむと同時に、自分の無力さを思い知らされることになるでしょうか。イエス様の福音を伝えていくことと、世界の平和が守られることとの間に、何の関係があるのかと思わされたりもするでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の十字架を見上げながら、私たち自身が、イエス様との関係の中で、いつも安心していることができることを願います。ありのままの自分を受け入れていてくださるイエス様との関係の中に、平和が築き上げられていくことを願います。そして、そのイエス様との関係の中に生かされている幸いを喜びながら、イエス様を伝えていくことができればと思います。自分にとってだけではなくて、誰にとっても、イエス様こそが、平和の君であることを信じて、イエス様を伝えていくことができればと思います。そして、あらゆる関係の中で、イエス様が土台となって、平和が築き上げられていくことを祈り求めていきたいと思います。

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