- 聖書箇所:マタイの福音書5章1-12節
- 説教題:心のきよい者として生きる
心のきよい者は幸いです。↩ その人たちは神を見るからです。(7)
だれが 主の山に登り得るのか。↩ だれが 聖なる御前に立てるのか。↩ 手がきよく 心の澄んだ人↩ そのたましいをむなしいものに向けず↩ 偽りの誓いをしない人。(詩篇24章3-4節)
0.
2月からマタイの福音書5-7章を開いています。一般的に「山上の説教」と呼ばれる部分です。そして、その最初に、イエス様は八つの幸いについて語られました。そこで語られているのは、イエス様によって、新しく神様の国の民として招かれた人々の性質であり、彼らに約束されている祝福です。イエス様は、まず、新しい神様の国の民、つまり、ご自分を信じて生きるクリスチャンの性質と、彼らに約束されている祝福を語られているということです。今日は、8節から、6番目の幸いについて見ていきたいと思います。それは、「心のきよい者」の幸いです。
1.
イエス様は、心のきよい人が幸いだと言われました。心のきよい人は祝福されているということです。そして、それは、心のきよい人が神様を見るからだということです。
八つの幸いは、心の貧しさを知ることから始まりました。しかし、その「心が貧しい」という表現は、一般的には否定的な意味で使われています。簡単に言えば、「心が狭い」というような理解になるでしょうか。そして、心の貧しさが、心の狭さという理解であるとすれば、当然のことながら、「心の貧しい者が、どうして幸いなのか」ということになるでしょう。もちろん、イエス様が言われた心の貧しさというのは、心の狭さということではありませんでした。
いずれにしろ、その「心が貧しい」ということに対して、今日の「心がきよい」というのは、どこの世界においても、文句なしに、肯定的な意味で理解されていることと思います。心は、汚いよりも、きよい方がいいわけです。心がきよい人については、誰もが良いイメージを持っていることでしょう。
しかし、その心のきよい人が幸いである理由について、イエス様の言葉を見ると、どうでしょうか。イエス様は、心のきよい人が幸いである理由について、その人が神様を見るからだと言っておられます。イエス様によれば、心のきよい人が幸いであるのは、神様を見るからだということです。
実は、聖書を開いていくと、私たちは、神様を見ることの幸いではなくて、反対に、神様を見ることの恐ろしさを知らされることになるのかも知れません。
例えば、昨年の秋から今年の初めにかけて、旧約聖書の士師記という所を開きましたが、その中で、サムソンという士師の父親が神様の使いと出会った時の言葉は印象的です。それは、「私たちは必ず死ぬ。神を見たのだから」という言葉です。サムソンの父親は、神様を見て、「必ず死ぬ」と言ったわけです。サムソンの父親は、神様を見た以上、生きていることができないと考えたわけです。
また、サムソンよりも後の時代に、イザヤという預言者も、幻の中で神様を見た時に、「私は滅んでしまう」と言いました。神様を見た以上は、生きていることができないということです。
そして、新約聖書に移っても、事情はそれほど変わりません。イエス様がお生まれになった夜、羊飼いたちは、神様の使いたちによって、神様の栄光に照らされると、恐れることになりました。
聖書の登場人物たちは、神様を見た人が生きていることはできないと考えていました。聖書に出てくる人々にとって、神様を見るというのは、とても恐ろしいことだったということです。あるいは、そのような感覚は、聖書に出てくる人々だけのものではなくて、世界中の人々が、多かれ少なかれ、持っていると言えるのかも知れません。何らかの出来事がきっかけとなって、「神」と呼ばれるような存在を感じさせられる時、自分が「神」と呼ばれる存在の前に立たされていることを覚える時、人というのは、多かれ少なかれ、恐れを感じるわけです。そして、聖書の神様を信じるイスラエルの民にとっては、それは、なおさらのことだったと言ってもいいのかも知れません。
しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、神様を見ることの幸いを語られたわけです。神様を見ることの恐ろしさではなくて、神様を見ることの幸いを語られたわけです。心のきよい人が幸いであるのは、神様を見るからだということです。
それでは、神様を見るというのは、どういうことでしょうか。神様を見ることが幸いであるのは、どうしてなのでしょうか。
それは、何と言っても、神様が私たちを愛していてくださるからではないでしょうか。神様は私たちを愛していてくださるということです。かけがえのない御子イエス様を犠牲にするほどに、私たちを愛していてくださるということです。神様は、私たちが滅ぼされることを願っておられるのではなくて、私たちと共に生きることを願っていてくださるということです。だからこそ、その神様を見ることができるとすれば、それは、何よりの幸いだということです。そして、神様を見るというのは、夢や幻の中で、何か神様のようなものを見るということではなくて、神様と交わりを持つということです。神様と共に生きるということです。
しかし、そうであるならば、どうでしょうか。聖書に出てくる人々が、神様を見て恐れたのは、どうしてなのでしょうか。神様を見て、生きていることができないと告白せざるを得なかったのは、どうしてなのでしょうか。
それは、彼らが、聖なる神様の前で自分の汚れに気づかされたからではないでしょうか。神様は聖なる方であり、その聖なる神様の前で、罪深い自分の汚れを思い知らされたからこそ、サムソンの父親や預言者のイザヤは、死を覚悟せざるを得なかったのではないでしょうか。罪に汚れた自分が、神様の前に出ることはできないということです。汚れた罪人の自分が、聖なる神様の前に出て、生きていることはできないということです。逆に言うと、心の汚れた罪人ではなくて、心のきよい者であるならば、安心して神様の前に出ることができる、神様を見上げることができるということになるのかも知れません。いずれにしろ、大切なことは、心がきよいということです。心の汚れた者ではなくて、心のきよい者であるならば、神様の前に出ることができる、神様を見上げることができる、神様と交わりを持つことができるということです。
ちなみに、イエス様が心のきよい者の幸いについて語られた部分は、旧約聖書の詩篇の言葉が踏まえられていると考えられています。詩篇24篇3-4節です。
詩人は、神様を求めて、神様を礼拝するために、エルサレムを目指す人々に問いかけています。それは、「誰が主の山に登ることができるのか」、「誰が神様の御前に立てるのか」ということです。今日の本文の言葉を用いるならば、それは、「誰が神様を見ることができるのか」ということになるでしょう。
詩人は、自分の問いかけに対して、「手がきよく 心の澄んだ人」、「そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人」と答えています。「手がきよく 心の澄んだ人」であるなら、「たましいをむなしいものに向けず 偽りの誓いをしない人」であるなら、神様の前に立つことができるということです。神様を見上げることができるということです。
私たちはどうでしょうか。自分の行動や心の中を見つめながら、「ああ、よかったぁ」と思うでしょうか。「自分は、手がきよく、心が澄んでいる」と思うでしょうか。「悪いことは何もしていない、誰にも迷惑はかけていない、社会的にも認められている、誰かを憎んだり妬んだりもしていない、合格や、堂々と神様の前に立てる」と思うでしょうか。反対に、「あかん、自分は悪いことばっかりしている、偽りだらけの人生や、自分は神様の前に立つ資格がない、礼拝に行く資格がない」と思うでしょうか。
ちなみに、神様を見たというサムソンの父親や、預言者のイザヤは、その後、どうなったのでしょうか。「もうあかん、死んでしまう」と思った通りに、死んでしまったでしょうか。実際には、彼らは死にませんでした。汚れた罪人として、神様の前に立ちながら、死んだりはしませんでした。むしろ、その反対に、彼らは大いに用いられました。サムソンの父親は、士師として活躍するサムソンの父親として用いられました。イザヤは、預言者として、人々に神様の言葉を伝えました。
サムソンの父親や預言者のイザヤは、どうして死んでしまわなかったのでしょうか。彼らは、何の汚れもない、心のきよい者だったということでしょうか。決してそうではありません。そうではなくて、それは、神様ご自身が彼らを憐れんでくださったからです。神様ご自身が憐れんでくださったからこそ、彼らは汚れた罪人であるにもかかわらず、生きることができたのであり、神様に用いられることができたということです。神様に受け入れられて、神様を見上げることができたということです。
私たちは決して心のきよい者ではありません。どんなに努力をしても、心のきよい者になることができるわけではありません。法律にひっかかるようなことはしないかも知れません。他人に迷惑をかけるようなこともしないかも知れません。積極的に良いこともできるかも知れません。社会に役立つこともできるかも知れません。しかし、心のきよい者になることはできません。一点の曇りもない、誰からも、神様からも認められる心のきよさを持つことは、絶対にできません。旧約聖書の時代も、現在も、心のきよい者として、神様の前に出ることができる人は、誰もいないわけです。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、心のきよい者の幸いを語られたわけです。
どうしてでしょうか。それは、神様ご自身であるイエス様が、私たちを憐れんでいてくださるからに他なりません。イエス様は、罪人である私たちを憐れんでいてくださるのであり、罪人である私たちをそのままに受け入れていてくださるということです。だからこそ、イエス様は、十字架にかかってくださいました。心の汚れた罪人の私たちの身代わりとなって、十字架の罰を受けてくださいました。私たちの罪が赦されるために、私たちの汚れた心がきれいにされるために、私たちが新しく生きるために、イエス様は、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださいました。そして、大切なことは、そのイエス様を、自分の救い主として受け入れることです。イエス様を、自分の王として、自分の心の中心にお迎えすることです。自分の人生を、救い主であり王であるイエス様に、委ねて明け渡すことです。イエス様の愛を受け入れて、イエス様に導かれて、イエス様に支えられて生きることです。そして、その私たちの心は、「きよい」と言えるでしょう。心がきよいからこそ、イエス様を通して、神様を見上げているということです。
心がきよいというのは、どういうことでしょうか。それは、何も混ざっていないということです。不純物が何にもないということです。純粋だということです。それは、心が神様だけに向けられているということです。他の何かにではなくて、自分自身にではなくて、神様だけに心が向けられているということです。そして、それは、イエス様を、自分の救い主として、自分の王として、心の中心にお迎えすることから始まります。ものすごい修行を積んで、あらゆる汚れた思いを取り除いて、心のきよい者になるのではありません。そうではなくて、イエス様によって、私たちは心のきよい者になるということです。罪人でありながら、汚れた者でありながら、イエス様が十字架の上で流してくださった血潮によって、私たちは心のきよい者になるということです。それが、新しい神様の国の民であるクリスチャンの姿だということです。そして、それは、最初から最後まで変わりません。
すべてのクリスチャンは、すでに心のきよい者です。イエス様を通して、神様を見上げている者です。しかし、だからと言って、私たちは、いつも、神様だけを見上げて生きているというわけではありません。神様の御心だけを求めて、神様の栄光だけを求めて、生きているのではありません。むしろ、その反対に、神様をそっちのけにしていることが、どれほど多いでしょうか。自分の思いに捕らわれて、神様が見えなくなっていることが、どれほど多いでしょうか。神様に導かれて生きることを拒んでいることが、どれほど多いでしょうか。怒りや憎しみに縛られていることが、どれほど多いでしょうか。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。イエス様は、心のきよい者として生きる道へと、私たちを招いていてくださいます。私たちは、イエス様によって、すでに心のきよい者とされているからこそ、心のきよい者として生きる道へと招かれているということです。そして、それは、いつも礼拝から始まります。罪人の自分が、神様から愛されて、神様の前に立つことのできる恵みを覚えることから始まります。自分には神様が必要であり、その神様との交わりこそが、自分に与えられている何よりの祝福であることを覚えることから始まります。そして、そこから、心のきよい者として生きる歩みはスタートします。
私たちはどうでしょうか。心がきよいでしょうか。神様だけに、心が向けられているでしょうか。神様が必要であることを覚えて、その神様を見上げて礼拝することこそが、神様と共に生きることこそが、真の祝福であることを確信して、神様を求めているでしょうか。あるいは、神様以外の何かによって、心の中が支配されていることはないでしょうか。
毎週の礼拝を通して、罪人の自分が赦されて、神様を仰ぎ見る礼拝者として招かれている恵みを、深く覚えたいと思います。心のきよい者として生きることのできない自分が、赦されて新しい歩みへと招かれている恵みを、深く覚えたいと思います。そして、その礼拝から、心のきよい者として生きる歩みが、いつもスタートしていくことを、心から願います。