礼拝説教から 2022年3月20日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章1-12節
  • 説教題:憐れみ深い者として生きる

 あわれみ深い者は幸いです。↩ その人たちはあわれみを受けるからです。(7)

 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』(マタイの福音書18章32-33節)

 

0.

 イエス様が、八つの幸いとして語られているのは、イエス様が新しく神様の民として招かれた人々の性質であり、彼らに約束されている祝福です。つまり、「クリスチャンというのは、このような人々のことであり、彼らにはこのような幸いが約束されている」、それが八つの幸いとして語られていることになります。

 今日は、7節から、5番目の幸いについて見ていきたいと思います。それは、「あわれみ深い者」の幸いです。後半部分に入って、一つ目の幸いです。

 

1.

 イエス様は、憐れみ深い人が幸いだと言われました。憐れみ深い人は祝福されているということです。そして、それは、憐れみ深い人が憐れみを受けるからだということです。

 憐れみという言葉が繰り返されています。憐れみというのはどういうことでしょうか。

 『広辞苑』で「憐れむ」という言葉の意味を調べてみると、「ふびんに思う。同情する。気の毒に思う」と説明されていました。一言でまとめるとすれば、かわいそうに思うということになるでしょうか。そして、その次に、「慈悲の心をかける。めぐむ」と説明されていました。慈悲の心をかける、めぐむというのは、ただ単に、かわいそうに思うだけではなくて、その相手のために具体的な行動を起こすということになるでしょう。つまり、「憐れむ」というのは、かわいそうに思うことであり、そこから、その相手のために、何か具体的な行動を起こすということになりそうです。ちなみに、今日の本文で「憐れみ」と訳されている言葉を、ギリシア語の辞書で調べてみても、意味はほとんど同じです。

 私たちはどうでしょうか。憐れむということがあるでしょうか。あるいは、どのような時に、憐れむことがあるでしょうか。

 多くの場合、それは、困難な状況にある人々を見た時ではないかと思います。困難な状況にある人々を見た時に、私たちは憐れむことになるということです。

 例えば、食べる物がなくて苦しんでいる人を見ると、かわいそうに思います。そして、寄付や献金をしたりすることもあるでしょうか。大雨で洪水が起こった後、泥だらけになった家の前で呆然と立ち尽くしている人を、テレビで見たりすると、私たちはかわいそうに思います。行動力のある人であるならば、現地まで駆けつけてボランティア活動をしたりもします。戦争が起こって、爆撃の音に脅えながら暮らす人々を見ると、家族が離れ離れになった人々を見ると、私たちはかわいそうに思います。虐待を受けている子どもを見ると、かわいそうに思います。そして、何かができないかということを思います。それは、とても自然なことです。困難な状況にある人々を見ながら、かわいそうに思って、何らかの助けになりたいと願うのは自然なことであり、憐れみ深いというのは、とても大切なことだと言えるでしょう。あるいは、そのような憐れみ深い人生を具体的に生きる所では、大きな生きがいを感じることができて、また、喜びがあると言ってもいいのかも知れません。そうであるならば、それは、まさに、幸いな人生だと言えるのではないでしょうか。

 しかし、イエス様が、憐れみ深い人について、幸いだと言っておられるのは、どうしてでしょうか。それは、その憐れみ深い人が、たくさんの人から感謝をされて、喜びに満たされるということではありません。生きがいを感じるということではありません。そうではなくて、イエス様が言っておられるのは、その憐れみ深い人もまた、憐れみを受けるからだということです。憐れみ深い人は、自分もまた、憐れみを受ける、だからこそ、幸いなのだということです。

 どういうことでしょうか。

 繰り返しになりますが、憐れむというのは、とても自然なことであり、とても大切なことです。

 しかし、その一方でということになるでしょうか。私たちは、自分が憐れみを受ける側に立たされた時には、どうでしょうか。時と場合によっては、憐れみを受けることが、恥ずかしいことのように思えたりすることもあったりするのではないでしょうか。助けの手が差し伸べられてきたりすると、「かわいそうに思われたくなんかない、憐れみなんかほしくない」と思って、素直に喜ぶことができなかったりすることもあったりするのではないでしょうか。

 どうしてでしょうか。それは、もしかしたら、憐れむということには、どこか上から目線のような感じが付きまとう所があったりするからではないでしょうか。憐れむというのは、どこか上から目線で見るような所があり、憐れみを受けるというのは、どこか上から目線で見られているような所があると思えるからではないでしょうか。そして、私たちは、憐れみを受ける側に立たされることになると、上から目線で見られていることを、敏感に感じ取るのかも知れません。場合によっては、屈辱に思ったりして、差し伸べられた助けの手を、素直に受け取ることができなかったりするのかも知れません。あるいは、反対に、憐れむ側に立つ時にも、もしかしたら、自分の行いに、どこか偽善的な臭いを感じ取ったりすることがあるのかも知れません。

 イエス様は、憐れみ深い人が憐れみを受けると言われました。憐れみ深い人は、憐れみを受けるということです。

 どういうことでしょうか。その意味する所の一つは、憐れみ深い人もまた、上から目線で見るような立場にあるのではないということではないでしょうか。憐れみ深い人も、本来は、憐れみを受けるべき側に立っているということではないでしょうか。憐れむ人と憐れみを受ける人の間には、上から目線で見ることのできる人と、上から目線で見られる人という区別があるのではないということです。憐れむ人も、憐れみを受ける人も、本質的には、同じように憐れみを受ける側に立っているということです。そして、それは、神様の前に立たされる時に、初めて気づかされることです。私たちは、イエス様の十字架の前に立たされる時、自分もまた、神様の憐れみを必要とする罪人に過ぎないことに気づかされるということです。神様の前では、私たちが感じている区別のようなものは、何もないということです。憐れむ人も、憐れみを受ける人も、神様の前では、同じように憐れみなしには生きることのできない罪人だということです。

 イエス様は、私たちを憐れんでくださいました。神様と共に生きることを拒んで、神様を抜きにした所で、互いに傷つけ合って生きる罪人の私たちを憐れんでくださいました。だからこそ、私たちに救いの道を開いてくださいました。そして、それは、天から、安全な所から、私たちの必要を満たしてくださったということではありません。自分の身が守られている所から、私たちに罪の赦しを宣言してくださったということではありません。そうではなくて、イエス様は、天から地上に降りて来てくださったということです。真の神様でありながら、真の人となって、私たちの世界にお生まれになってくださったということです。ご自分の命を罪人の私たちに委ねてくださったということです。私たちが背負うべき自分の罪を、私たちの代わりに背負って、十字架にかかってくださったということです。私たちが神様の赦しを受け取って、神様と共に生きる歩みへと招き入れられているのは、そのイエス様の一方的な憐れみがあるからだということです。神様ご自身が誰よりも憐れみ深い方であり、私たちは、誰もが、その憐れみを受けるべき罪人だということです。あるいは、私たちの憐れみが、上から目線で見たり見られたりということにつながることもあるとすれば、それは、私たちが、自分もまた、神様の憐れみを受けるべき罪人に過ぎないことを忘れているということなのかも知れません。

 そうすると、イエス様の言われた「憐れみ深い者」というのは、どのような人のことになるでしょうか。それは、何よりもまず、自分もまた、神様の憐れみを受けて赦された罪人に過ぎないことを知っている人ということではないでしょうか。イエス様の言われた「憐れみ深い者」というのは、いつもイエス様の十字架の前で、自分の罪を認めている人であり、同時に、イエス様の憐れみによって赦されていることを喜んでいる人です。そして、だからこそ、そのイエス様の招きに応じて、自分もまた、憐れみ深い者として生きようとする人です。イエス様の憐れみを経験しているからこそ、その憐れみを実践する人です。

 それでは、私たちが憐れみ深い者として生きるというのは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

 イエス様はたくさんの例え話をされましたが、その例え話の中から、私たちが憐れみ深い者として生きる具体的な一つの例を見ることができます。同じマタイの福音書18章21-35節です。

 ペテロという弟子が、イエス様に質問をしました。それは、「兄弟が自分に対して罪を犯した場合、何回まで赦すべきか」という質問です。ペテロは「七回まででしょうか」と言いました。それに対して、イエス様は「七回を七十倍するまで」と答えられました。「七回を七十倍するまで」というのは、「何回でも」、あるいは、「完全に」ということになるでしょうか。そして、そのペテロとのやりとりをきっかけとして、イエス様は、一つの例え話をされたわけです。

 一人の王様がいました。その王様の所に、一万タラントンの借金をした家来が連れて来られました。一万タラントンというのは、現在の私たちにはよく分かりませんが、とにかくものすごい額だということです。絶対に返すことのできない額の借金です。王様は、その一万タラントンの借金を「返しなさい」と命じました。妻や子どもを売り払ってでも、自分自身を売り払ってでも、返すように命じました。家来にできたことは、ただ、王様の前にひれ伏して、「もう少し待ってください」と、お願いをすることだけでした。

 王様はどうしたでしょうか。不思議なことに、王様は家来を赦してやりました。何と、王様は、かわいそうに思って、莫大な家来の借金を、すべて帳消しにしてあげたということです。今日の本文を用いるなら、王様は家来のことを憐れんだということです。実に憐れみ深い王様ではないでしょうか。

 しかし、話はここからです。莫大な借金を帳消しにしてもらった家来は、自分から借金をしている一人の仲間に出会いました。その借金の額は百デナリです。百デナリというのも、現在の私たちにはよく分かりませんが、ちょっと真面目に働けば、十分に返すことのできる額です。いずれにしろ、それは、自分が帳消しにしてもらった借金の額と比べれば、ほんのわずかです。そのほんのわずかの借金を、家来は「返せ」と要求しました。仲間の首まで絞めて脅したようです。そして、仲間が「少し待ってほしい、必ず返す」と答えると、その家来は仲間を牢屋にぶち込んでしまいました。

 先ほどの王様と比べると、どうでしょうか。

 王様は、最後に、自分が家来を憐れんでやったと言いました。そして、だからこそ、家来に対しても、仲間を憐れんでやるべきだったのではないかと言いました。

 繰り返しになりますが、憐れみ深い者として生きるというのは、どういうことでしょうか。それは、ただ単に、いつも苦しんでいる人のことを考えて、かわいそうに思うということではないでしょう。また、ただ単に、熱心に人助けの活動をするということでもないでしょう。もちろん、困っている人のことをかわいそうに思って、そのために熱心に活動するということも、憐れみ深い者として生きる一つの形ではあるでしょう。それは、とても大切なことであり、素晴らしいことです。しかし、イエス様の例え話を見る時、イエス様が私たちに与えてくださった憐れみを考える時、それは、何よりもまず、赦す者になるということではないでしょうか。イエス様が私たちを憐れんでしてくださったことは、何よりも、私たちの罪を赦すことだったということです。そして、そうであるならば、私たちが憐れみ深い者として生きるというのも、基本的には、赦す者になるということではないでしょうか。

 罪人である私たちが共に生きる所では、必ず、赦す、赦されるということが起こってきます。バラバラに生きているのであれば、赦すことも、赦されることもないのかも知れません。しかし、私たちは共に生きる者として招かれているわけです。だからこそ、そこには、赦す、赦されるということが起こってきます。時には、赦す者となり、時には、赦される者となるわけです。赦すばかりということは、絶対にありません。反対に、赦されてばかりということでもありません。赦すこともあれば、赦されることもあるということです。それが、罪人である私たちの姿だということです。そして、その赦す、赦されるという関係の中で、大切なことは、自分もまた、赦されている者であることを覚えることです。自分こそが、赦され続ける必要がある者であることを覚えることです。そして、赦す者として生きる私たちの歩みは、そこから新しくスタートします。

 私たちは、憐れみ深い者として生きているでしょうか。赦す者となっているでしょうか。

 何よりも、イエス様の十字架の前で、自分こそが、イエス様の大きな憐れみによって、赦されている者であることを覚えたいと思います。イエス様と共に生きる中で、最後まで、赦され続ける必要がある者であることを覚えたいと思います。そして、赦されている者として、大きな憐れみの中に生かされている者として、与えられている様々な関係の中で、憐れみ深い者として生きることができることを願います。赦す者として生きることができることを願います。

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