礼拝説教から 2022年3月13日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章1-12節
  • 説教題:義に飢え渇いていますか?

 義に飢え渇く者は幸いです。↩ その人たちは満ち足りるからです。(6)

 

 イエス様は、義に飢え渇く人が幸いだと言われました。義に飢え渇く人は祝福されているということです。そして、その理由は、義に飢え渇く人が満ち足りるからだということです。

 義に飢え渇くというのは、何だか分かったような、分からないような気がしますが、どういうことでしょうか。

 『広辞苑』で「義」という言葉を調べてみると、最初に「道理」という意味が出てきました。「道理」というのも、分かったような、分からないような言葉ですが、「人の行うべき正しい道」ということです。義というのは、道理、人の行うべき正しい道だということです。そして、その義に飢え渇くというのは、義を必死に追い求めているということになるでしょうか。義が実現していない、その義の実現を必死に願い求めているということです。

 どうでしょうか。私たちは、何かに飢え渇くことがあるでしょうか。そして、義に飢え渇くことがあるでしょうか。あるいは、義に飢え渇くことがあるとすれば、それは、どうしてでしょうか。どんな時に、義に飢え渇くでしょうか。

 不正ばかりが行われている社会を見ると、義に飢え渇くことがあるでしょうか。弱い人がいじめられている現実を見ると、義に飢え渇くことがあるでしょうか。あるいは、自分が詐欺の被害を受けた時に、義に飢え渇いたりするでしょうか。

 私たちは、社会の中で不正が行われているのを見ると、その不正が正されなければならないということを思います。弱い人が踏みにじられている現実を見ると、その弱い人を助けてあげなければならないということを思います。それは、クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、何も違いがないでしょう。クリスチャンであろうと、ノンクリスチャンであろうと、不正を見れば、残念に思うわけです。弱い者いじめを見れば、悲しくなるわけです。そして、勇気や行動力があれば、不正が正されるために、弱い者いじめがなくなるために、立ち上がったりもするでしょう。そして、それは、私たちの誰もが、多かれ少なかれ、義の実現を求めているということを意味しています。私たちは、誰もが、正義感のようなものを持っていると言ってもいいのかも知れません。小さな子どもたちも、悪を倒すスーパーヒーローを見ると、喜ぶわけです。もちろん、そのような正義感というのは、とても大切なものだと言えるでしょう。

 繰り返しになりますが、私たちは、不正ばかりが行われている社会を見て、不公平な社会を見て、弱い人が苦しんでいる世界を見て、正義感を燃やします。そして、いずれにしろ、そこで見つめられている不正や不公平というのは、自分の外側にあるものです。私たちは、自分の外側にある不義を見た時に、それがあるべき姿に正されなければならないということを思うわけです。

 ちなみに、今日の「義に飢え渇く者が満ち足りる」というのは、八つの幸いの中で四番目になりますが、その前の三つの幸いを見ながら、確認することができたのは、どのようなことだったでしょうか。それは、どの幸いについても、基本的には、神様との関係の中で、自分の姿が見つめられているということではないでしょうか。自分の外側ではありません。自分の内側が見つめられているということです。

 一つ目の「心の貧しい者」と三つ目の「柔和な者」というのは、当然のことながら、他人のことではないでしょう。自分のことです。心が貧しいというのは、神様の前で自分の絶対的な貧しさを知っているということです。柔和というのも、柔和なイエス様の御業によっていただいた新しい性質です。イエス様の十字架の前に立たされる時、私たちはへりくだらざるを得ないということです。そして、二つ目の「悲しむ」というのは、第一には、神様との関係において気づかされる自分の罪についてです。「悲しむ者」が第一に見つめているのは、他人の罪や世界の罪ではなくて、自分の罪だということです。心の貧しい者も、悲しむ者も、柔和な者も、第一に見つめているのは、神様の前にある自分自身だということです。そして、そうであるならば、今日の「義に飢え渇く」ということにおいても、第一に見つめられているのは、自分自身だということになるでしょう。義に飢え渇くというのは、何よりもまず、自分自身の現実を見てのことだということです。そして、それは、他でもなく、クリスチャンの姿です。クリスチャンは、自分自身の現実を見ながら、義に飢え渇く人々だということです。

 私たちはどうでしょうか。自分自身の現実を見ながら、義に飢え渇いているでしょうか。あるいは、満足しているでしょうか。

 義に飢え渇くというのは、どういうことでしょうか。それは、神様との正しい関係の中に生きることを、必死に求めていくということです。あるいは、イエス様に似た者にされることを、必死に追い求めていくことと言ってもいいのかも知れません。

 クリスチャンというのは、自分の罪を悲しむ人々です。私たちは、イエス様の十字架の前で、罪人の自分が一方的に赦されている恵みを覚える時、自分の罪を悲しむことになります。イエス様の十字架の前で、罪人の自分がありのままに受け入れられている恵みを覚える時、「どうせ赦してくださるんだから」と言って、自分の罪を正当化することができなくなります。そうではなくて、自分の罪を悲しむことになります。そして、神様との正しい関係を切に求めて生きるようになります。あるいは、それが、義に飢え渇くことと言ってもいいのかも知れません。しかし、それは、ただ単純に、義を必死に追い求めるということではないのだと思います。神様から義と認められることを、イエス様に似た者になることを、ただ単純に、必死に追い求めているということではないないのだと思います。そうであるならば、義を追い求めるという表現で十分なのではないでしょうか。しかし、イエス様は、義を必死に追い求めるではなくて、義に飢え渇くと言われたということです。

 義に飢え渇く、それは、何よりも、自分の中に義がないことを、徹底的に思い知らされているということではないでしょうか。必死に義を追い求めながら、その義を手に入れる力が、自分にはないことを、徹底的に思い知らされているということではないでしょうか。神様の前で、義と認められる力がないことを、徹底的に思いさらされているということです。それでも、自分には神様が必要であることを確信しながら、神様を必死に求めているということです。神様との正しい関係の中に生きることこそが、神様との親しい交わりに生きることこそが、自分の喜びであり幸せであることを確信しながら、神様を必死に求めているということです。そして、その義に飢え渇く人に、イエス様は、幸いを約束してくださっているということです。それは、義に飢え渇いている人が、必ず満ち足りるという約束です。

 満ち足りるというのは、どういうことでしょうか。それは、自分で自分を満たすということではありません。そうではなくて、満たされるということです。神様ご自身が満たしてくださるということです。死に物狂いで努力をして、正しい者になって、神様から認められることではありません。自分の力で、イエス様に似た者とされていくということではありません。そうではなくて、神様ご自身の力によって、神様ご自身の一方的な恵みによって、私たちは神様との正しい関係の中に生きることができるということです。神様ご自身の力によって、神様ご自身の一方的な恵みによって、私たちはイエス様に似た者に変えられていくということです。

 聖書の中で語られている義というのは、基本的には、神様のものです。神様の正しさです。神様こそが義なる方、正しい方だということです。それは、私たちが絶対に手に入れることのできないものです。

 しかし、聖書の中で、同時に語られているのは、その神様の義が、罪人である私たちに一方的な恵みとして与えられるということです。罪人である私たちの罪を背負って十字架にかかってくださったイエス様、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださったイエス様を信じるすべての人を、神様は義と認めてくださるということです。私たちは、心を入れ替えたから、行いを改めたから、良いことをしたから、神様から合格点をいただいて、義と認められるのではありません。そうではなくて、罪人である自分の代わりに十字架の罰を受けてくださった救い主イエス様の故に、神様から義と認められるということです。神様との交わりの中に生きる者にされるということです。あるいは、その神様の一方的な恵みだけを頼りにして、神様との交わりに生きることそのものが、私たちのあるべき姿であり、神様との正しい関係ということになるのかも知れません。そして、それは、最初から最後まで変わらないということです。

 クリスチャンというのは、あくまでも罪人です。赦された罪人です。私たちは、どこまで行っても、罪人に過ぎないということです。そして、罪人であるというのは、自分で自分を満たすことができないということを意味しています。

 韓国の映画だったでしょうか。タイトルは忘れましたが、寺のお坊さんたちが、一つの課題を与えられました。それは、底に欠けのある大きな甕を水で満たすという課題です。知恵を絞って、欠けのある甕を水で満たしなさいということです。

 どうすればいいでしょうか。お坊さんたちは、様々なアイデアを考えました。一つは、とにかく一生懸命に水を入れるということです。水が欠けた所から出て行くのよりも、速くたくさんの水を入れ続ければ、水がいっぱいになるというアイデアです。しかし、これは成功しませんでした。欠けた所から出て行く水が多くて、どれだけがんばって水を入れても、追いつかないということです。

 また、欠けた所を自分たちで塞ぐというアイデアも出されました。しかし、これも、失敗に終わりました。なぜなら、欠けが大きすぎたからです。欠けが大きすぎて、塞ぎ切ることができないということです。

 他にも様々なアイデアが出されたと思いますが、最後に正解に辿り着きました。何でしょうか。それは、甕を池の中に沈めることでした。池の中に沈めてしまえば、どれだけ大きな欠けがあっても、甕は水で満たされるということです。そして、それは、私たちの信仰生活に置き換えるならば、神様の恵みの海に自分を沈めるということです。私たちは、正しい者になって、自分の欠けを修理して、自分を満たすのではなくて、ありのままの自分を神様に委ねて満たされるということです。神様の恵みの海に飛び込んで満たされるということです。

 罪人である私たちは、欠けだらけです。大きな欠けのある甕のようなものです。イエス様を信じて、欠けがなくなったということではありません。私たちは、なおも欠けだらけだということです。欠けだらけの赦された罪人に過ぎないということです。あるいは、欠けだらけだから、飢え渇くと言った方がいいのかも知れません。そもそも、欠けがないのなら、飢え渇くこともないのではないでしょうか。イエス様の時代の律法学者やパリサイ人のように、自分こそが正しいと認められる者であることを信じて疑わない所では、飢え渇くこともないということです。そうではなくて、私たちは、欠けのある者として、自分で欠けを修理できない者として、自分で自分を満たすことができない者として、神様を求めて飢え渇くということです。そして、それが、神様の願っておられることではないでしょうか。

 義に飢え渇く者が満ち足りる、それは、死に物狂いで、正しい者になることではありません。自分の正しさで、自分を満たすということではありません。そうではなくて、その反対に、自分の欠けを知ることから始まります。自分が欠けだらけの者であることを思い知らされることから始まります。自分ではどうすることもできない欠けを持っている者として、自分では自分を満たすことができないことを思い知らされることから始まります。そして、だからこそ、神様の恵みを願い求めるということです。欠けだらけの自分をそのままに愛していてくださる神様に、自分を委ねるということです。神様の恵みの海に自分を沈めるということです。そして、それは、イエス様の十字架の前に留まり続けるということです。イエス様の十字架の前で、欠けだらけの自分を知り、その自分をそのままに愛していてくださるイエス様に自分を委ね続けていくということです。イエス様こそが、自分の罪を背負ってくださった救い主であることを覚えながら、そのイエス様の導きに、自分を明け渡し続けていくということです。

 繰り返しになりますが、私たちはどうでしょうか。義に飢え渇いているでしょうか。欠けのある自分の現実を見ながら、義に飢え渇いているでしょうか。そして、神様によって満たされることを願い求めているでしょうか。あるいは、その反対に、満ち足りていることはないでしょうか。自分の正しさで自分の欠けを修理したつもりになって、満ち足りていることはないでしょうか。神様の恵みではなくて、自分を誇っていることはないでしょうか。

 いつもイエス様の十字架の前で、自分が欠けだらけの者であることを覚えたいと思います。そして、その欠けだらけの自分を愛していてくださるイエス様によって満たされる者でありたいと思います。

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