- 聖書箇所:マタイの福音書5章1-12節
- 説教題:柔和な者として生きる
柔和な者は幸いです。↩ その人たちは地を受け継ぐからです。(5)
しかし 柔和な人は地を受け継ぎ↩ 豊かな繁栄を自らの喜びとする。(詩37篇11節)
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。(マタイの福音書11章29節)
「娘シオンに言え。↩ 『見よ、あなたの王があなたのところに来る。↩ 柔和な方で、ろばに乗って。↩ 荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」(マタイの福音書21章5節)
1.
イエス様は、柔和な人が幸いだと言われました。柔和な人には豊かな祝福があると言われました。そして、それは、柔和な人が地を受け継ぐからだということです。
柔和というのは、どういうことでしょうか。
『広辞苑』で「柔和」という言葉を調べてみると、「性質・態度がやさしくおとなしいこと」と説明されていました。柔和な人というのは、性質や態度が優しくて大人しいということになりそうです。もしかしたら、いつもニコニコしている、絶対に怒らない、そんな人が思い浮かぶのかも知れません。そして、そうであるならば、それは、とても良い人なのだということになるでしょう。私たちは、柔和な人を見て、「いじわる」だとか、「性格が悪そう」などということは、思わないのではないでしょうか。柔和な人と出会って、嫌な思いをすることは、それほど多くないわけです。あるいは、柔和であるというのは、そのこと自体が幸いと言ってもいいのかも知れません。
しかし、イエス様が言っておられるのは、どういうことでしょうか。それは、柔和な性質や態度が、人に良い印象を与えるということではありません。そうではなくて、柔和な人が地を受け継ぐということです。柔和な人が幸いであるのは、地を受け継ぐからだということです。柔和な人は、地を受け継ぐからこそ、幸いだということです。そして、地というのは、財産であり、豊かさをもたらすものと言ってもいいでしょう。
そうすると、何だかよく分からない感じになってきますが、どういうことなのでしょうか。柔和な人が地を受け継ぐのは、どうしてなのでしょうか。普通に考えるなら、地を受け継ぐのは、地を自分のものにするのは、柔和な人であるよりも、力の強い人なのではないでしょうか。積極的で押しの強い人なのではないでしょうか。むしろ、その反対に、優しい人は、大人しい人は、地を奪われてしまったりするのではないでしょうか。私たちが生きる現実の世界においては、柔和であることと、地を受け継ぐことは、上手くつながらないのではないでしょうか。いつもニコニコしているだけでは、地を手に入れることはできないということです。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、柔和な人こそが、地を受け継ぐということを言われているわけです。
どういうことなのでしょうか。
「柔和な者が地を受け継ぐ」というのは、イエス様オリジナルの言葉ではありません。それは、旧約聖書の詩篇に出てくる言葉の引用です。イエス様は旧約聖書の詩篇の言葉を引用して、柔和な人の幸いを語っておられるということです。詩篇37篇11節です。
詩篇37篇全体を見ると分かりますが、詩人は、悪を行う者や不正を行う者について歌っています。詩篇37篇に描かれているのは、悪を行う者や不正を行う者が繁栄をしている世界の現実です。知恵や力のある人が、弱い人を捻じ伏せて、人を騙して、豊かな富を得ている世界の現実です。地は、自分の知恵や力を前面に押し出して、他人を押しのける人のものになっているということです。しかし、詩人は、その悪を行う者に対して、「腹を立てるな」、不正を行う者に対して、「ねたみを起こすな」と教えているわけです。それは、悪に悪で対抗するのではなくて、不正に不正で対抗するのではなくて、自分を前面に押し出して他人を押しのけるのではなくて、柔和な者として生きるということです。
ちなみに、詩篇37篇の詩人は、「地を受け継ぐ」という言い方をしています。地を手に入れるではありません。地を奪うでもありません。そうではなくて、地を受け継ぐということです。詩篇37篇によれば、イエス様によれば、地は、手に入れるものでもなくて、奪うものでもなくて、受け継ぐものだということです。神様からの祝福として与えられるものだということです。そして、その神様の祝福を信じて待ち望むのが、柔和な人だということになるでしょう。悪に悪で対抗するのではなくて、不正に不正で対抗するのではなくて、自分を前面に押し出して他人を押しのけるのではなくて、神様を信じて、静かに待ち望むのが、柔和な人だということです。
そうすると、柔和であるというのは、どういうことになるでしょうか。それは、少なくとも、表面的には、優しかったり、大人しかったりということであるのかも知れません。しかし、ただ単純に、優しい、大人しいということではないでしょう。そうではなくて、その土台には、何よりも、神様に対する信頼があるということです。柔和な人は、神様を信じて、神様にすべてを委ねているということです。神様の祝福を待ち望んでいるということです。そして、だからこそと言えるでしょうか。柔和な人は、悪や不正によって栄える人を見ながら、腹を立てたり、妬みを起こしたりする必要がないということです。自分を前面に押し出して他人を押しのける必要がないということです。自分の知恵や力で、自分の地を確保しようとする必要がないということです。柔和な人は、神様を信じているからこそ、神様にすべてを委ねているからこそ、神様の祝福を待ち望んでいるからこそ、自分を前面に押し出して他人を押しのける生き方から解放されているということです。自分の知恵や力で自分の地を確保しようとする生き方から解放されているということです。あるいは、自分に対するいっさいのこだわりから解放されていると言ってもいいのかも知れません。
私たちはどうでしょうか。悪や不正を行って、栄えている人を見ながら、腹を立てたり、妬みを起こしたりしていることはないでしょうか。あるいは、特別に悪や不正ということではないとしても、経済的に豊かな人を見て、才能の豊かな人を見て、自分にないものを持っている人を見て、怒りや妬み、苛立ちを覚えることはないでしょうか。自分も決して負けていないということを証明しようとして、必死になっているようなことはないでしょうか。あるいは、最初から対抗することを諦めて、劣等感を抱いたり、絶望したりしていることはないでしょうか。
柔和な者として生きる、それは、決して楽な生き方ではないでしょう。得をする生き方でもないでしょう。むしろ、その反対に、苦労をする生き方なのだと思います。損をする生き方なのだと思います。そして、だからこそ、それは、信仰を必要とする生き方であり、さらには、忍耐を必要とする生き方とも言えるでしょう。
しかし、その柔和な者として生きる所に、神様は、地を受け継ぐ幸いを約束していてくださるということです。柔和な者には、この地にあって、神様と共に生きる幸いが約束されているということです。
2.
マタイの福音書をずっと見ていくと、柔和という言葉は、山上の説教の後にも出てくることが分かります。二か所です。
一つ目は11章29節です。イエス様は、ご自分のことを「柔和でへりくだっている」と言われました。誰よりも、イエス様こそが、柔和な方だということです。
もう一ヶ所は21章5節です。イエス様がエルサレムの町に入られた場面です。それは、真の王が、都であるエルサレムに入られたということです。そして、そのエルサレムの町に入るイエス様のことが、「柔和な方」と歌われています。真の王は柔和な方だということです。
ちなみに、イエス様は、ロバに乗っておられます。しかも、子どものロバです。イエス様は、小さな子どものロバに乗って、都であるエルサレムの町に入られたということです。
以前にも分かち合ったことと思いますが、イエス様が、小さな子どものロバに乗って、エルサレムに入られたというのは、どうでしょうか。王であるならば、たくさんの人々から期待されている救い主であるならば、小さな子どものロバに乗って、エルサレムに入るというのは、どうでしょうか。それは、ちょっと変な光景なのではないでしょうか。王であるならば、救い主であるならば、その乗り物が小さな子どものロバというのは、似つかわしくないのではないでしょうか。王や救い主には、大きくて、強くて、速くて、立派な馬の方が、相応しいのではないでしょうか。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、立派な馬ではなくて、小さな子どものロバに乗って、エルサレムの町に入られたということです。
どうしてでしょうか。なぜなら、イエス様が、真の王として、エルサレムの町に入られたのは、ご自分に敵対する人々を大きな力で倒すためではなかったからです。イエス様は、ご自分に逆らう罪人たちを、より強い力によって滅ぼすために、エルサレムの町に入られたのではないということです。ご自分こそが、世界を支配する王であり、救い主であることを、力によって示そうとされたのではないということです。力で力に対抗されたのではないということです。むしろ、その反対に、力を捨てて、十字架にかかってくださったということです。「十字架から降りて、自分を救ってみろ」と言って嘲る人々の言葉を聞きながら、十字架の上で死んでくださったということです。神様ご自身として、十字架から降りる力がありながらも、その力を捨てて、死んでくださったということです。そして、だからこそ、イエス様は、柔和な方だということです。それは、イエス様が徹底的にへりくだってくださったということです。あるいは、柔和であるというのは、徹底的にへりくだっていることと言ってもいいのかも知れません。実際に、今日の本文で、「柔和な者」という部分は、聖書協会共同訳では、「へりくだった人々」と訳されています。
先々週と先週にも分かち合ってきたことですが、「八つの幸い」の中で描かれているのは、クリスチャンの性質です。「クリスチャンとは、どのような人々か」、それが「八つの幸い」の中で描かれているということです。つまり、イエス様が語っておられるのは、私たちの生まれつきの性質ではないということです。私たちが努力して身に着ける態度ではないということです。そうではなくて、イエス様によって新しくされた人の性質であり姿だということです。柔和というのも、生まれつきの性質や努力して身に着けた態度ではなくて、クリスチャンの根本的な性質だということです。
イエス様は、私たちを柔和な者としてくださいました。そして、柔和な者として生きるように招いていてくださいます。そして、それは、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくことです。自分の十字架を背負って、イエス様に従っていく時、私たちは柔和な者として生きる道を歩むことになるということです。へりくだって生きる者に変えられていくということです。そして、そこに、地を受け継ぐ幸いは約束されています。神様と共に生きる幸いの道が開かれてきます。
私たちはどうでしょうか。柔和な者として生きているでしょうか。
自分自身を見る時、私たちは、もしかしたら、とても柔和であるとは言えないかも知れません。自分よりも、もっと柔和に見える人が、周りにはたくさんいるかも知れません。いつもニコニコとしていて、怒鳴り散らすことのない人が、教会の外にはたくさんいるかも知れません。
しかし、表面的な柔和ではなくて、自分の貧しさを認め、自分の罪を悲しみ、だからこそ、その自分のために、十字架にかかってくださったイエス様の前で、へりくだることができるのは、私たちだけです。イエス様を真の王として、自分の心の王座に迎え、その王であるイエス様の前でへりくだることができるのは、自分の貧しさを認め、自分の罪を悲しみ、その自分のために、十字架にかかってくださったイエス様の愛に気づかされた、私たちクリスチャンだけです。そして、そのイエス様が、私たちの歩みを助けていてくださいます。招くだけ招いておいて、ほったらかしにするのではなくて、最後まで導いてくださいます。私たちが、自分で自分を諦めたくなる時にも、イエス様は、諦めないで、私たちを導いていてくださいます。
毎週日曜日の礼拝を通して、イエス様の十字架を見上げたいと思います。私たちを罪と滅びの中から救い出すために、私たちに地を受け継ぐ幸いを与えるために、へりくだって、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださった、柔和なイエス様の愛を覚えたいと思います。そして、そのイエス様の招きに応えて、私たちもまた、柔和な者として生きることができることを願います。私たちの内側に住んでいてくださる聖霊に助けられて、柔和な者と変えられていくことができることを願います。