礼拝説教から 2022年2月27日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章1-12節
  • 説教題:悲しんでいますか?

 悲しむ者は幸いです。

 その人たちは慰められるからです。(4)

 私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章22-24節)

 

0.

 先週から、新約聖書に移って、マタイの福音書を開いています。5-7章です。一般的には山上の説教と呼ばれたりする箇所です。イエス様は、ご自分に従って来た群衆を見ると、山に登って、そこで弟子たちと群衆たちに御言葉を教えられました。そして、その最初に、イエス様は幸いについて語られました。全部で八つの幸いが出てきます。

 先週はその最初の幸いについて見てみました。「心の貧しい者は幸いです。↩ 天の御国はその人たちのものだからです。」イエス様は、心の貧しい人こそが幸いだと語られました。そして、それは、天の御国、神様の国が、心の貧しい人たちのものだからだということです。

 イエス様が語られた心の貧しさというのは、自分の存在そのものについてです。それは絶対的な貧しさです。誰かと比べてではなくて、中途半端なものではなくて、絶対的な貧しさです。何にもない、空っぽだということです。そして、それは、神様との関係の中で、初めて気づかされる貧しさです。何よりも、イエス様の十字架の前に立たされる時、私たちは自分の絶対的な貧しさに気づかされるということです。「自分は神様の前に何も持っていくことができない」、「ただ神様の憐れみを請い願うことしかできない」、そんな自分の貧しさに気づかされるということです。自分がやってきたどんなことも、自分がやっているどんなことも、イエス様の十字架の前では、決して誇ることができないということです。しかし、その同じイエス様の十字架の前で、私たちは、神様から赦されている、神様から愛されていることに気づかされます。何かができる自分ではない、何かを成し遂げた自分ではない、心の美しい自分ではない、空っぽの自分が、神様からありのままに受け入れられていることに気づかされるということです。そして、その神様の愛に満たされて、神様ご自身に支えられて生きることが、天の御国に生きるということに他なりません。それが、心の貧しい者に与えられている幸いです。

 今日は、八つの幸いの二つ目を見ていきたいと思います。

 

1.

 イエス様は、悲しむ人が幸いだと語られました。そして、その理由は、悲しむ人が慰められるからだということです。

 先週にも分かち合いましたが、私たちは誰もが幸いを願います。ただ、その幸いが何であるかについては、人それぞれです。お金があることを幸いと考える人がいれば、健康であること、良い友だちがいることを幸いと考える人もいるかも知れません。

 しかし、どうでしょうか。幸いについて、いろいろな考え方があるとしても、悲しむ人が幸いだというのは、どうでしょうか。大抵の人は、「えっ?」と思うのではないでしょうか。なぜなら、私たちは、悲しむことを、決して幸いなことだとは考えないからです。悲しみは幸いとは結び付かないということです。むしろ、その反対に、喜んでいてこそ、楽しんでいてこそ、私たちは幸いを感じるのではないでしょうか。悲しみなんて、なければ、ないに越したことはありません。しかし、そうであるにもかかわらず、イエス様は、悲しむ人こそが幸いだと宣言されたということです。

 どういうことなのでしょうか。

 一言で「悲しむ」と言っても、もしかしたら、ちょっと漠然としているということになるのかも知れません。悲しむと言っても、実は、いろいろあるのではないでしょうか。

私たちはどんな時に悲しむのでしょうか。何を悲しむでしょうか。

 何かが上手くいかなかった時に悲しむでしょうか。大切なものが壊れてしまった時に悲しむでしょうか。応援しているチームが負けた時に、悲しむでしょうか。誰かが悲しんでいるのを見て、一緒に悲しむこともあるでしょうか。そして、何よりも、家族や友だちなど、愛する人との別れにおいて、私たちは何よりも大きな悲しみを経験するということになるでしょうか。

 私たちの人生にはいろいろな悲しみがあるのだと思います。私たちは、生きている限り、何らかの悲しみを経験します。あらゆる悲しみを完全に避けて生きることは、できません。それは、クリスチャンも同じです。クリスチャンであるならば、悲しみと縁を切ることができるということではありません。クリスチャンもまた、悲しみながら生きていくということです。そして、むしろ、クリスチャンには、クリスチャンなりの悲しみがあると言ってもいいのかも知れません。クリスチャンだからこそ、余計に悲しむことがあるということです。クリスチャンでなければ、経験することのできない悲しみがあるということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。イエス様は、そんな悲しみを経験するクリスチャンたちに、私たちに、確かな慰めを約束していてくださるということではないでしょうか。

 それでは、クリスチャンだからこその悲しみというのは、何でしょうか。それは、何よりも罪に対する悲しみではないでしょうか。自分の罪を悲しむということではないでしょうか。

 先週にも分かち合ったことですが、イエス様が語られた八つの幸いというのは、クリスチャンの性質を示しています。つまり、クリスチャンであるならば、一人の例外もなく、心の貧しい者だということです。クリスチャンは、自分の貧しさを認めて、イエス様の愛によって満たされようとする人だということです。そして、次に、クリスチャンは、悲しむ者だということです。クリスチャンであるならば、一人の例外もなく、悲しむということです。クリスチャンは、他でもなく、自分の罪のために悲しむ人だということです。そして、それは、イエス様を信じて救われた時だけのことではなくて、最後まで変わらないということです。

 先週は、ルカの福音書から、イエス様のたとえ話に出てきた取税人のことを取り上げました。今日は、ローマ人への手紙を書いたパウロの言葉を取り上げます。7章22-24節です。

 パウロというのは、イエス様の直接の弟子ではありませんでしたが、新約聖書の中のたくさんの手紙を書いた人です。神様の言葉を誰よりも深く理解して、神様の恵みを誰よりも深く味わった人と言ってもいいのかも知れません。私たちから見るならば、模範的と言ってもいいようなクリスチャンです。

 しかし、そのパウロが告白していることは、何でしょうか。それは、自分が「本当にみじめな人間」だということではないでしょうか。パウロは、自分のことを、本当に惨めな人間だと言っているということです。

 どうしてでしょうか。それは、パウロが自分の罪を知っているからです。パウロは、自分ではどうすることもできない自分の罪の恐ろしさを思い知らされているということです。自分の罪に絶望させられているということです。そして、それは、今日の本文の言葉を用いるならば、自分の罪を悲しんでいるということです。

 パウロが、自分の罪を悲しんでいるのは、クリスチャンになる前のことではありません。また、イエス様と出会ってクリスチャンになった後に、そんな時期もあったということではありません。パウロは、一人のクリスチャンとして、自分の罪を悲しみながら生きたということです。パウロは、クリスチャンになる前ではなくて、クリスチャンとして未熟だった時だけのことではなくて、最初から最後まで、自分の罪を悲しみながら生きたということです。しかし、その罪の悲しみが、絶望として終わらないのは、パウロがイエス様から慰めを受けていたからです。パウロは、罪を悲しむ自分を受け入れていてくださるイエス様に慰められながら、そのイエス様の愛を喜んで生きたということです。

 クリスチャンとして生きるというのは、どういうことでしょうか。その一つは、自分の罪を悲しんで生きるということです。それは、最初だけのことではありません。熱心に聖書を学んで、熱心に祈って、必死のパッチで従って、クリスチャンとして成熟していけば、罪を犯すことも少なくなって、悲しむことも少なくなるということではありません。むしろ、その反対に、信仰が成熟すればするほどに、私たちは自分の罪に対して敏感になるということです。どうすることもできない自分の罪に気づかされて、より深く悲しむことになるということです。あるいは、クリスチャンが、クリスチャンとして成熟していくというのは、罪を犯さなくなるようになることではなくて、自分の罪としっかりと向き合うことができるようになることと言ってもいいのかも知れません。そして、その罪人の自分が赦されるために、十字架にかかってくださったイエス様との出会いの中に、本当の慰めはあるということです。

 私たちはどうでしょうか。自分の罪を悲しんでいるでしょうか。悲しむ者として、慰められているでしょうか。

 私は、今日の本文を通して、自分を振り返る時、どれだけ自分の罪を悲しんでいるだろうかということを思わされます。パウロのように、深く自分の罪を悲しむことなんて、なかなかできていないなぁということを思います。

 どうしてでしょうか。あくまでも私の場合ということですが、二つのことがあるように思います。

 一つは、自分の罪ではなくて、他人の罪を第一に見てしまうということです。

 今から二十年近く前になりますが、信仰を持った頃、私はよく悲しんでいたなぁということを思います。それは、あくまでも、自分自身の立場から見てのことですが、私は、同じ信仰を持ったクリスチャンの仲間から苦しめられて、よく悲しんでいました。とは言っても、意地悪をされていたということではありません。一緒に働きをしている仲間が、思うようにやってくれない、いい加減なことばかりをしている、そして、自分が何かとフォローしなければならない、そんなことの繰り返しの中で、私は悩み苦しんでいたということです。そして、「何とか変わってくれないだろうか」、「しっかりと悔い改めて、自分のなすべきことをきっちりとやってくれないだろうか」、そんなことを神様に訴えていたということです。

 今にして思えば、当時の私は、他人のことばかりに注目していたんだなぁということを思います。そして、同時に、自分が見えなくなっていたということを思います。私は、他人を見ながら、自分が見えなくなっていた、自分の罪が見えなくなっていたということです。そして、それは、私が、自分の罪を悲しんでいたのではなくて、他人から苦しめられている自分を見ながら悲しんでいたということです。それは、自分を苦しめる人を、罪人として裁いていたということでもあります。

 自分の罪というのは、実は、見えにくいものです。見えなければ、悲しみようもありません。しかし、不思議なことにと言えるでしょうか。他人の罪というのは、よく見えるものです。そして、見えるからこそ、ついつい口が出てしまったりもします。私もそうです。

 もちろん、クリスチャンが見るべき罪というのは、自分の罪だけではないでしょう。私たちはこの世界の罪をしっかりと見なければなりません。そして、罪の中にある世界を見る時、私たちは悲しむことになります。しかし、自分の罪を見つめることなく、周りの罪を見ることになるなら、それは、罪を悲しむことではなくて、罪を裁くことにつながるのではないでしょうか。大切なことは、何よりも、自分の罪を悲しむということです。

 次に、もう一つ、私が自分の罪を悲しめていないのは、どこかに甘えがあるということを思います。それは、「どうせ赦してくださるんだから」という甘えです。「どうせ赦してくださるんだから、そのままでいいじゃないか」ということです。

 皆さんは、どうでしょうか。

 神様は罪人の私たちをそのままに受け入れていてくださいます。しかし、それは、私たちが自分の罪を正当化していいということではないでしょう。イエス様は、私たちが「どうせ赦してくださるんだから」と言うために、十字架にかかってくださったのではないということです。イエス様は、罪と滅びの中にある私たちが赦されて新しく生きるために、十字架にかかってくださったのであり、復活してくださったということです。そして、そのイエス様の十字架の前で、罪人の自分が一方的に赦されている恵みを覚える時に、私たちは、「どうせ赦してくださるんだから」というようなことは、言えなくなります。そうではなくて、自分の罪を悲しみながら生きることになるということです。「どうせ赦されているんだから」と思っているとすれば、それは、十字架の恵みが分かっていないということです。罪人の自分が赦されて新しく生きるために、十字架にかかってくださったイエス様の恵みが分かっていないということです。自分を正当化するために、イエス様の十字架すらも利用しているということです。

 繰り返しになりますが、私たちはどうでしょうか。自分の罪を悲しんでいるでしょうか。悲しむ者として、慰められているでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の十字架の前に立たせていただきたいと思います。礼拝が、自分の罪を悲しみ、神様から慰められる場となることを願います。そして、慰め主である神様を喜び、神様をほめたたえながら、新しい一週間の歩みへと遣わされていきたいと思います。

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