礼拝説教から 2022年2月20日

  • 聖書箇所:マタイの福音書5章1-12節
  • 説教題:自分の貧しさを知る

 「心の貧しい者は幸いです。

 天の御国はその人たちのものだからです。(3)

 

 

0.

 先週まで旧約聖書の士師記とルツ記を見てきました。今日からは、新約聖書に移って、マタイの福音書を見ていきたいと思います。とは言っても、最初から最後までということではありません。5−7章までです。マタイの福音書5-7章は、一般的に、山上の説教とか、山上の垂訓などと呼ばれたりする所です。

 

1.

 今日は、その山上の説教の冒頭部分、5章1-12節を開かせていただきました。そして、その今日の本文を見ると、何度も繰り返されている言葉があることに、気づくと思います。

 何でしょうか。それは「幸い」です。全部で9回になるでしょうか。ただ、最後の9番目の幸いは、8番目の幸いがより詳しく説明されている所であることを考えると、出てきた幸いは八つと言えるでしょう。イエス様は、山の上で、弟子たちや群衆と呼ばれる人々に教えるその最初に、八つの幸いについて語られたということです。幸いというのは、幸福、幸せと言い換えてもいいのだと思います。

 皆さんは、どうでしょうか。幸せを願いますか。誰もが幸せを願っていると思います。幸せを願っていない人は、一人もいないと言い切ってもいいのだと思います。私たちは、誰もが幸せを願うわけです。そして、そうであるならば、幸せというのは、私たちにとって、とても大切なものと言えるでしょう。あるいは、最も大切なものの一つと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、どうでしょうか。その願い求めている幸せというのは、どのようなものでしょうか。私たちは何を幸せと考えているでしょうか。

 お金があれば、幸せだと考える人がいるでしょうか。お金がなくても、健康であれば、幸せだと考える人がいるでしょうか。お金や健康がなくても、良い友だちがいれば、人間関係が上手く行っていれば、幸せだと考える人がいるでしょうか。また、やりがいのある仕事ができていれば、幸せだと考える人がいるでしょうか。反対に、仕事は仕事として割り切って、趣味を楽しむことが幸せだと考える人もいるかも知れません。あるいは、仕事にしろ、趣味にしろ、誰かに認められることで幸せを感じる人もいるでしょうか。反対に、周りからどう見られているかと関係なく、自分が幸せだと思っていれば、それが幸せだと考える人もいるかも知れません。

 幸せとは何か、それは、人によって異なるものです。あるいは、異なって当然のものと言ってもいいのかも知れません。しかし、いずれにしろ、その幸せというのは、私たちすべてにとって、大切なものです。そして、イエス様は、その幸せについて、何よりも初めに語られたということです。それは、イエス様が私たちの幸せを強く願っていてくださることの表れと言ってもいいのかも知れません。

 イエス様は、全部で八つの幸いについて語られました。順番に見ていくと、「心の貧しい者は幸いです」、「悲しむ者は幸いです」、「柔和な者は幸いです」、「義に飢え渇く者は幸いです」、「あわれみ深い者は幸いです」、「心のきよい者は幸いです」、「平和をつくる者は幸いです」、「義のために迫害されている者は幸いです」となります。

 どうでしょうか。「いやー、さすがはイエス様、とても奥深い言葉です、勉強になります」ということになるでしょうか。私は、「何だかよく分からないなぁ」ということを思います。今日は、そのよく分からないイエス様の言葉、八つの幸いの中から、一つ目の幸いについて、見ていきたいと思います。

 

2.

 繰り返しになりますが、イエス様は、最初に、「心の貧しい者は幸いです」と教えられました。イエス様によれば、心の貧しい人が幸いだということです。そして、その理由は、天の御国、短く言うと、天国が、その心の貧しい人々のものだからだということです。大切なことは、心が貧しいということです。

 しかし、どうでしょうか。もしかしたら、私たちは、「心が貧しい」という言葉の意味について、否定的なイメージを持っているのではないかということを思います。例えば、例えば、「心が狭い」、「けちけちしている」というような感じです。私たちは、どちらかと言えば、「心が狭い」、「けちけちしている」というようなことを、「心が貧しい」という言葉で表現したりするのではないでしょうか。私たちが理解している「心の貧しさ」というのは、自分のことばかりを考えていて、他人のことを受け入れる心の余裕がなかったり、助け合いの精神に欠けていたりというような意味になるのだと思います。だからこそ、「どんなにお金がなくても、心の貧しい者にはなりたくない」、「経済的に貧しくても、心は豊かでありたい」と言ったりするわけです。あるいは、私たちにとって、心の貧しさというのは、軽蔑されることの一つと言ってもいいのかも知れません。心は、貧しいのではなくて、豊かでありたいということです。

 そうすると、どういうことになるのでしょうか。イエス様は、自分のことばかりを考えているような人が、幸いだと言われているのでしょうか。恐らくは、そういうことではないでしょう。

 新改訳2017の欄外注を見ると分かりますが、「心の貧しい者」というのは、直訳では、「霊において貧しい者」ということになります。心が貧しいというのは、霊的に貧しいということです。それは、自分という存在そのものの貧しさと言ってもいいのだと思います。そして、それは、絶対的な貧しさです。他の人と比較しての貧しさではありません。中途半端な貧しさではありません。絶対的な貧しさです。自分で自分を支えることのできる何かが何もない、そんな貧しさです。自分には何もない、自分は空っぽだということです。しかし、イエス様は、その絶対的な貧しさの中にある人こそが、空っぽの人こそが、幸いだと言われたわけです。

 どうしてでしょうか。それは、その貧しさが、神様に支えられて生きることにつながるからではないでしょうか。そして、その神様に支えられて生きることこそが、神様に満たされて生きることこそが、天の御国に生きるということです。

 先ほど、天の御国について、「短く言えば、天国」という説明をしました。とは言っても、それは、一般的にイメージされている「天国」とは異なります。多くの日本人が考えるような、死んだ後に行くと考えられている「天国」ではありません。

 マタイの福音書に描かれている天の御国、それは、神様の国を表す言葉です。神様が支配されている国です。しかし、それは、力による支配ではありません。神様の一方的な恵みによる支配です。神様は、力づくで私たちを従わせようとしておられるのではなくて、何よりも、私たちを愛していてくださるということです。神様は、私たちが、自分で自分を満たすのではなくて、神様ご自身の愛に満たされて生きることを願っていてくださるということです。そして、その神様の御心に気づかされて、神様の愛に支えられて生きるのが、心の貧しい人だということです。自分の貧しさを知る人だということです。自分の貧しさを知っているからこそ、同時に、その貧しい自分を愛していてくださる神様の御心に気づかされたからこそ、その神様のご支配を受け入れて、神様に支えられて生きることを願う人です。

 マタイの福音書ではなくて、ルカの福音書には、イエス様が、祈るために神殿に来た二人の人の例え話をされた場面があります。二人の人というのは、パリサイ人と取税人です。

 パリサイ人というのは、ユダヤ人たちの宗教的な指導者たちです。神様の言葉を誰よりもよく学んでいます。それだけではなくて、神様の言葉を熱心に実践しようとしています。そして、そのパリサイ人は、祈りの中で、自分が、何も悪いことをしていないことを感謝しました。さらには、神様の教えを実践していることを語りました。

 パリサイ人は、神様の前で誇ることのできる何かが、たくさんありました。それは、パリサイ人が豊かだったということです。自分で自分を支えていたということです。それは、パリサイ人が、お金持ちだったということではなくて、神様の前に持っていくことのできる何かをたくさん持っていたということです。

 しかし、その一方で、取税人は顔を上げることができませんでした。取税人というのは、税金を取る仕事をする人々です。彼らは同じユダヤ人たちから嫌われていました。なぜなら、取税人たちは自分たちの国を支配するローマ帝国のために働いていたからです。そして、同じユダヤ人たちからは、余分に税金を取り立てて、その余分を自分の懐に入れていました。もちろん、神様の言葉にも関心はなかったでしょう。彼らは、お金こそありましたが、国の中で軽蔑されていました。そして、その取税人は、顔を上げることもできず、ただ「罪人の自分を憐れんでください」と願い求めることしかできませんでした。しかし、イエス様が最後に語られたのは、パリサイ人ではなくて、取税人こそが、神様から義と認められたということでした。神様に受け入れられたのは、立派なパリサイ人ではなくて、嫌われ者の取税人だったということです。

 どういうことでしょうか。それは、今日の本文の言葉を用いるなら、取税人が自分の貧しさを知っていたということです。取税人は、自分の貧しさを徹底的に痛感させられていたということです。神様の前で、何も誇ることのできない自分、ただ憐れみを請い願うことしかできない自分を知っていたということです。しかし、だからこそ、神様の民として受け入れられたということです。

 心の貧しい者、それは、自分の貧しさを知っている人のことです。自分で自分を支えることのできない、そんな自分の貧しさに気づかされた人です。だからこそ、神様の赦しを必要として、神様の憐れみを願い求める人です。神様の愛に支えられて生きることを願い求める人です。

 ちなみに、八つの幸いというのは、一般的にクリスチャンの性質を描いたものと理解されています。クリスチャンというのは、八つの幸いに描かれているような人のことだということです。つまり、クリスチャンであるならば、一人の例外もなく、「心の貧しい者」だということです。すべてのクリスチャンは自分の貧しさを認めている人だということです。

 どうでしょうか。

 私は、クリスチャンである自分を見ながら、自分の貧しさが分かっているかなぁということを思わされます。あるいは、自分の貧しさを認めようとしてないことが多いと言った方がいいのかも知れません。「こんなことをしている、あんなことをしてきました、こんなふうに変わりました」、そんな自分を神様や人々の前で誇りたくなるわけです。人々から認められたくなるわけです。また、それができなくて、悩み苦しんだりするわけです。

 私たちはどのようにして、自分の貧しさを知ることになったのでしょうか。自分ではどうすることもできない、そんな自分の貧しさを、私たちはどのようにして知ることになったのでしょうか。それは、イエス・キリストを通してです。十字架にかかられたイエス様、死んで復活されたイエス様と出会った時、私たちは自分の貧しさに気づかされたということです。イエス様との出会いを通して、私たちは、自分の貧しさに気づかされ、同時に、その自分を愛していてくださるイエス様に支えられて生かされているということです。そして、それは、クリスチャンとされた後も、最後まで変わりません。

 礼拝を通して、神様の言葉を通して、イエス様の前に導かれていく時、私たちは自分の貧しさを覚えることになります。そして、同時に、その貧しい自分を愛していてくださる神様に支えてられていることを覚えて感謝することになります。しかし、イエス様を見失うなら、自分の貧しさを忘れることになります。そして、神様に満たされてではなくて、自分の何かで自分を満たそうとすることになります。

 私たちはどうでしょうか。いつも貧しい者であることを覚えているでしょうか。貧しい者であることを忘れて、豊かな者であるかのように、自分を誇ろうとしているでしょうか。

 すでにクリスチャンとされている人にとっても、まだクリスチャンでない人にも、毎週の礼拝が、イエス様の前で、自分の貧しさを知る場となることを願います。しかし、同時に、イエス様の愛で満たされる場になることを願います。そして、イエス様の愛に満たされて生きることこそが、本当の幸いであることを確信しながら、新しい一週間の歩みへと遣わされていく私たち一人一人でありたいと思います。

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