- 聖書箇所:ルツ記4章7-17節
- 説教題:神様の祝福の下で
昔イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分の履き物を脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける認証の方法であった。それで、この買い戻しの権利のある親類はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分の履き物を脱いだ。ボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。また、死んだ人の名を相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです。今日、あなたがたはその証人です。」門にいたすべての民と長老たちは言った。「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に嫁ぐ人を、イスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにされますように。また、あなたがエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名を打ち立てますように。どうか、主がこの娘を通してあなたに授ける子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」
ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。女たちはナオミに言った。「主がほめたたえられますように。主は、今日あなたに、買い戻しの権利のある者が途絶えないようにされました。その子の名がイスラエルで打ち立てられますように。その子はあなたを元気づけ、老後のあなたを養うでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人の息子にもまさる嫁が、その子を産んだのですから。」ナオミはその子を取り、胸に抱いて、養い育てた。近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちはその名をオベデと呼んだ。オベデは、ダビデの父であるエッサイの父となった。
1.
ナオミは、ボアズについて、「買い戻しの権利のある親類」と説明していました。
旧約聖書の時代、イスラエルの社会では、もし兄弟が落ちぶれて、その所有地を売った場合には、親類が兄弟の売ったものを買い戻さなければならないと定められていました。
イスラエルの社会において、土地というのは、神様から与えられたものでした。それは、人々が生きるために、神様から与えられたものでした。それはとても大切なものでした。
しかし、どうでしょうか。どんなに大切な土地でも、どんなに大切なものでも、私たちは、いつも大切に守ることができるとは限りません。旧約聖書のレビ記では、「落ちぶれて、その所有地を売ったときは」と記されていますが、私たちは落ちぶれることもあるからです。それは、いい加減なことばかりをしていて、落ちぶれるという場合もあれば、事故や病気で一家の大黒柱を失って、落ちぶれるという場合もあるでしょう。大きな自然災害がきっかけとなって、落ちぶれることもあるかも知れません。実際に、ナオミの家が落ちぶれた背景には、飢饉があったのであり、大黒柱である夫たちの死がありました。それは、ナオミたちにはどうすることもできなかったことです。落ち穂拾いの所でも分かち合いましたが、私たちは、自己責任という言葉では片づけることのできない現実に直面して、落ちぶれることがあるということです。
そして、そんな現実を考慮してということになるでしょうか。イスラエルの社会では、買い戻しということが定められていたわけです。落ちぶれてしまった家を守るために、親類が土地を買い戻すということです。ベツレヘムの町の有力者であるボアズは、ナオミとルツにとって、その買い戻しの権利のある親類でした。そして、そのボアズに、ルツはプロポーズをしたということであり、ボアズの側でも、乗り気だったということです。
ただ、そこには、一つの問題がありました。それは、ボアズが、買い戻しの権利を持つ第一の親類ではなかったということです。ボアズよりも優先的に買い戻しの権利を持つ親類が他にいました。その親類が、買い戻さないという意志を明らかにすることで、ボアズは初めて買い戻しの権利を持つ第一の親類になることができました。
4章の最初の段落を見ると、ボアズは、ふさわしい手続きを取って、事を進めていることが分かります。まず、公の場で、買い戻しの権利のある第一の親類の意志を確認しました。買い戻す意志がないことを確認した上で、買い戻しの権利を譲り受けるということです。そして、無事にということになるでしょうか。ボアズは、買い戻しの権利を譲り受けました。そして、人々の前で、ナオミの家のすべてのものを買い取ったことと、ルツを自分の妻としたことを宣言しました。
ちなみに、買い戻しの権利を持つ第一の親類は、必ずしも、買い戻すつもりがなかったわけではありませんでした。ただ、土地の買い戻しと共に、モアブ人の女性であるルツを、同時に引き受けなければならなかったことがひっかかったようです。
第一の親類は、「自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから」という説明をしていることからすると、もしかしたら、モアブ人の女性を妻として迎え入れることで、自分の家に災いを招くことになるとでも思ったのかも知れません。土地を買い戻すことだけならまだしも、モアブ人の女性を受け入れることには、大きなリスクを感じたということです。あるいは、神様からご自分の民として選ばれたイスラエルの人々にとってみれば、それは、自然な思いだったと言えるのかも知れません。なぜなら、彼らは、自分たち以外の外国人を、神様から見放された異邦人として、見下していたからです。そして、そんな外国人の女性を迎え入れることは、イスラエルの民にとっては、決して簡単なことではなかったということです。しかし、そのような雰囲気を想像することができる中で、ボアズは、堂々と、モアブ人女性のルツを自分の妻として迎え入れたことを宣言したということです。
ベツレヘムの町の人々の反応はどうだったでしょうか。人々はボアズとルツを祝福しました。ボアズとルツの結婚に反対したのではありません。ボアズを非難したのでもありません。そうではなくて、祝福しました。そして、その祝福の言葉の中に、「タマルがユダに産んだペレツの家のように」という表現が出てきます。
ユダというのは、神様からイスラエルという名前をいただいたヤコブの息子です。タマルというのは、ユダの息子の妻になります。ペレツというのは、そのタマルが、夫の父親であるユダとの間に産んだ子どもです。そして、ボアズは、そのペレツの子孫に当たります。
どうでしょうか。タマルが夫の父親であるユダとの間で性的な関係を持ったというのは、かなり訳アリな感じがします。当時としては自然なことだったということではありません。ユダとタマルの時代においても、ボアズとルツの時代においても、それは普通のことではなかったわけです。
創世記に描かれたユダとタマルの物語によると、タマルは自分の正体を隠していることが分かります。タマルは、売春婦のふりをして、ユダに近づいて、性的な関係を持ったということです。そして、タマルにそのようなことをさせる原因を作っていたのは、ユダの方でもありました。いずれにしろ、それは、決して誇ることができるような行いではないでしょう。イスラエルの民にとって、その中でも、ユダ族の町であるベツレヘムの人々にとって、ユダとタマルの出来事は、目を逸らしたくなるようなことだったのではないでしょうか。隠したくなるようなことだったのではないでしょうか。そうであるにもかかわらず、ベツレヘムの町の人々は、ボアズの家を祝福するのに、「タマルがユダに産んだペレツの家のように」と表現しているということです。
どういうことでしょうか。
神様は、タマルがユダに産んだペレツの家を祝福してくださっていました。神様は、タマルとユダを不道徳な人々として退けられたのではなくて、二人の間に生まれたペレツの家を呪われたのではなくて、大いに祝福されたということです。神様はペレツの家と共に歩んでくださったということです。そして、その神様の豊かな祝福があったからこそ、ベツレヘムの人々は、自分たちの歴史をしっかりと見つめることができたのではないでしょうか。目を背けたくなるような出来事とも、向き合うことができたのではないでしょうか。あるいは、そのタマルとユダの出来事を誰よりもしっかりと見つめていたのは、モアブ人の女性であるルツを迎え入れたボアズだったと言ってもいいのかも知れません。ボアズは、ペレツの家に注がれた神様の豊かな祝福を見つめていたからこそ、タマルとユダの出来事を覚えながら、傲り高ぶるのではなくて、謙遜になって、ルツを迎え入れることができたのではないでしょうか。そして、そのボアズの家のために、ベツレヘムの人々は、改めて神様の祝福を祈り求めたということです。
神様の祝福というのは、どのようなものでしょうか。それは、私たちを傲り高ぶらせるものではありません。私たちの何かが認められた証しではありません。そうではなくて、私たちを謙遜にさせるものです。神様の祝福を覚える時、あるいは、神様の祝福を覚えれば覚えるほど、私たちは謙遜にならざるを得ないということです。
どうしてでしょうか。なぜなら、私たちは、神様の豊かな祝福を覚えれば覚えるほどに、自分がその祝福に相応しい者ではないことに気づかされるからです。神様の祝福を覚える時、私たちは、その祝福に相応しくない者として、謙遜にさせられるということです。そして、神様の祝福を求めるというのは、私たちが、その神様の祝福に相応しくない自分自身と向き合うことでもあると言えるでしょう。
ボアズとベツレヘムの町の人々は神様の祝福の下で謙遜にされていました。しかし、聖書全体を見る時、それは例外的なことだと言わなければならないのかも知れません。イスラエルの民は、自分たちに与えられた神様の祝福の下で、傲り高ぶって自分たちを誇り、自分たち以外の人々を見下すことになったからです。
私たちはどうでしょうか。救い主イエス様を通して与えられている神様の祝福を覚えながら、謙遜になっているでしょうか。神様の祝福に相応しくない自分を見つめながら、その自分に祝福を注いでいてくださる神様を喜んでいるでしょうか。あるいは、自分の何かを根拠にして、正しさや熱心さを根拠にして、自分を神様の祝福に相応しい者としてしまっているようなことはないでしょうか。
2.
最後にもう少しだけ、ルツ記の物語に思いを巡らして終わりたいと思います。
ルツ記に描かれているのは、ルツとボアズの結婚です。その二人の間に、子どもが生まれたことです。それは麗しい物語だと言えるでしょう。
しかし、どうでしょうか。ルツ記が士師記と同じ時代を舞台とする物語であることを考える時、ルツとボアズの結婚というのはどうでしょうか。それは、とても小さな出来事、取るに足りない出来事なのではないでしょうか。
士師記では、神様の奇跡的な救いの御業が描かれていました。士師という指導者たちを通して、神様はイスラエルの民を何度も救い出されました。しかし、そんな神様の奇跡的な救いの御業が繰り返されても、イスラエルの民の堕落はどうにもなりませんでした。イスラエルの民は、神様を真の王として崇めるのではなくて、真の王である神様に仕えるのではなくて、自分の目に良いと見えることを好き勝手に行っていたということです。それは、暗闇の時代でした。希望の見えない時代でした。
そして、そんな暗闇の時代の中で、希望の見えない時代の中で、ルツ記に描かれるルツとボアズの結婚というのは、二人の間に子どもが生まれたというのは、小さな出来事でしかありません。取るに足りない出来事でしかありません。国中の話題となるような、世界中の話題となるような男女が結婚した出来事ではないわけです。ベツレヘムという小さな町の有力者と、モアブから来たルツが結婚したというだけの出来事です。暗闇の中にあるような国の状況の中にあって、何の影響を及ぼすことのないような出来事に過ぎないわけです。
しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。ルツ記を見る私たちの目は、神様へと向けられるということです。
どうしてでしょうか。それは、ルツとボアズの間に生まれた子どもが、後にイスラエルの偉大な王となるダビデへとつながっていくからではないでしょうか。そして、さらには、そのダビデの子孫の中から、私たちの救い主であるイエス様がお生まれになるからではないでしょうか。神様は、暗闇の時代の中で、救い主の誕生を着々と準備されていたということです。神様は、暗闇の時代の中で、人々が希望を見ることのできない状況の中で、ご自分の救いを実現する真の王の誕生を準備されていたということです。
神様の働き、それは、必ずしも私たちの目に見えるわけではありません。いつも、「あー、神様が働いていてくださるなぁ、安心だなぁ、感謝だなぁ」と言えるわけではありません。だからこそ、不安になったり、焦ったりします。しかし、神様は、その見えない所で、働いていてくださるということです。私たちの目には見えない所で、私たちを生かす神様の働きは続いているということです。
新型コロナウィルスによって引き起こされた状況は、まだまだ先が見えません。状況はなかなか改善されません。しかし、その中にあっても、神様は変わることなく働いていてくださることを覚えたいと思います。そして、その神様を見上げながら、落ち着いて、神様の御言葉に聞き従っていく歩みを続けていきたいと思います。