礼拝説教から 2022年2月6日

聖書箇所:ルツ記3章1-5節

説教題:みないたします

 姑のナオミは彼女に言った。「娘よ。あなたが幸せになるために、身の落ち着き所を私が探してあげなければなりません。あなたが一緒にいた若い女たちの主人ボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って油を塗り、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。けれども、あの方が食べたり飲んだりし終わるまでは、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがなすべきことを教えてくれるでしょう。」ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」

 

 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。(申命記10章12-13節)

 

0.

 先々週からルツ記を見ています。

 ルツ記のルツというのは、モアブという民族出身の女性です。神様の民として選ばれたイスラエルの人々からすれば、外国人になります。そのルツが、聖書に登場することになったのは、ナオミというイスラエルの女性との関わりによってです。ルツは、イスラエルを襲った飢饉によって、モアブの地に移って来たナオミの息子の一人と結婚しました。そして、ナオミがモアブの地で夫と二人の息子を亡くすと、ルツは、ナオミと共に、ナオミの故郷であるイスラエルのベツレヘムという町へ向かいました。

 先週は、そのベツレヘムにやって来たルツが、ボアズという親戚の畑で落ち穂拾いを始めた場面を見ました。落ち穂拾いというのは、貧しい人々が生きるために開かれていた手段です。ボアズは、その落ち穂拾いを始めたルツに好意を寄せ、ルツもまた、よそ者の自分に優しくしてくれるボアズを畏れ敬いました。そこには、男女の恋愛感情と似たようなものがあったと言ってもいいのかも知れません。

 今日の本文である3章は、ナオミの指示によって、ルツがボアズにプロポーズをする場面です。

 

1.

 ナオミは、ルツに対して、「あなたが幸せになるために」と言っています。そのために、「身の落ち着き所」を探してあげなければならないと言っています。ナオミは、ルツの幸せを願っているのであり、積極的に動こうとしていることが分かります。

 ナオミがベツレヘムに戻って来た時は、どうだったでしょうか。ナオミは神様が自分を辛い目に遭わせられたと言っていました。神様が自分を「何にもなし」にしたと言っていました。ナオミには何の希望もありませんでした。ルツを幸せにしてあげる力もありませんでした。だからこそ、「ついて行く」と言って聞かないルツを、モアブの地に帰そうと説得をしたわけです。しかし、そのナオミが、ルツの幸せのために、積極的に動こうとしているということです。

 どういうことなのでしょうか。それは、ナオミが、ルツとボアズとの関係を見ながら、そこに働いていてくださる神様に目を向け始めたということではないでしょうか。

 ナオミは、ルツが、ボアズの畑で落ち穂拾いをしていることを、すでに聞いています。そのボアズから、ルツがただならぬ好意を得ていることを知っています。そして、ナオミは、そのボアズについて、「私たちの親戚ではありませんか」と言っています。

 21世紀の日本に生きる私たちの感覚からすると、親戚だからと言って、必ずしも頼りになるとは限らないということを思うかも知れません。しかし、ルツ記の物語において、ボアズがナオミたちの親戚であるというのは、ボアズがナオミたちの家の存続に責任を持っていることを意味しています。イスラエルの社会の決まりにおいて、ボアズは、親戚であるナオミたちの家の存続に責任を負う立場にあるということです。そして、そのボアズへのアプローチを、ナオミはルツに命じているということです。

 ちなみに、ボアズが、打ち場で大麦をふるい分けようとしているというのは、その後に、宴会が行われることを示しています。お酒の席です。そして、ナオミの作戦は、そのお酒の席が終わって、ボアズが寝る時に、ルツが、寝ているボアズの足元をまくって、そこに寝るということです。

 どうでしょうか。現在の私たちから見れば、ナオミの作戦は、若いルツが、お酒を飲んで酔ったボアズを誘惑して、先に体の関係を持って、責任を取らせようということのように思ってしまうかも知れません。かなり大胆な行動です。しかし、その大胆な行動の意味は、性的な誘惑ではなくて、正式なプロポーズだと言った方がいいでしょうか。ナオミは、ルツの側からボアズにプロポーズをする作戦を立てたということです。

 ルツはナオミの言葉に何と答えているでしょうか。「おっしゃることは、みないたします。」ルツは、ナオミの言葉に全面的に従うことにしました。

 私たちはどうでしょうか。誰かから何かを命じられて、「おっしゃることは、みないたします」と答えるでしょうか。親から、学校の先生から、職場の上司から、何かを命じられて、「おっしゃることは、みないたします」と答えるでしょうか。あるいは、神様の命令であれば、どうでしょうか。神様の命令であるならば、「おっしゃることは、みないたします」と答えるでしょうか。

 ルツがナオミの指示に従ったのは、どうしてでしょうか。自分の幸せを願っていてくれるナオミの心に感動したのでしょうか。ルツもまた、ボアズに好意を寄せていたということでしょうか。あるいは、姑の言葉に従うことこそが、嫁としてのあり方だとでも考えていたのでしょうか。ルツには、ルツなりの考えというものが、なかったのでしょうか。

 確かなこととして言えることの一つは、ルツが盲目的にナオミの言葉に従ったのではないということです。ルツは、「姑であるナオミの言葉には絶対に従わなければならない」ということで、ナオミの言葉に従ったのではないということです。ナオミは、自分の意志で、自分の考えで、ナオミの言葉に従ったということです。

 そもそも、ルツがナオミから「モアブの地に帰りなさい」と言われた時には、どうだったでしょうか。ルツは従わなかったのではなかったでしょうか。ルツは、ナオミから「モアブの地に帰りなさい」と言われて、「そうですか、はい、分かりました」と言って、素直にモアブの地に帰ったのではありませんでした。そうではなくて、その反対に、泣きながらナオミを説得して、ナオミについて来たのではなかったでしょうか。

 また、ベツレヘムにやって来た後、ルツがボアズの畑で落ち穂拾いをすることになったのは、どうしてでしょうか。それは、ナオミから命じられたからではありませんでした。反対に、ルツが、自分で判断をして、ナオミにお願いをして、落ち穂拾いを始めたということです。

 つまり、ルツは、決して、盲目的にナオミの言葉に従ったのではないということです。機械的にナオミの言葉に従ったのではないということです。ルツは、自分の判断で、自分の意志で、ナオミの言葉に従ったということです。そして、それは、ルツが、ナオミを信頼していたからではないでしょうか。ルツは、ナオミを信頼していたからこそ、いつも自分の幸せを願っていてくれるナオミを信頼していたからこそ、ナオミの言葉に従ったということです。自分が幸せになる道を、自分よりもよく知っていてくれるナオミの言葉を信頼していたからこそ、ナオミの言葉に従ったということです。

 ちなみに、ボアズは、ナオミよりもかなりの年上だったと考えられているようです。あるいは、ルツが、ボアズのことを自分の夫として考えるのは、少し無理があったと言ってもいいのかも知れません。しかも、周りには、若い男性が他にもたくさんいたわけです。ルツは、ボアズ以外の若い男性との関係を望むこともできたわけです。そうであるにもかかわらず、ルツは、ナオミの言葉に従って、ボアズにプロポーズをすることにしたということです。そして、それは、ルツが、自分の幸せを願っていてくれるナオミを信頼していたからに他なりません。ルツは、外国人である自分よりも、ナオミの方が、イスラエルの社会で幸せに生きる確かな道を心得ているのであり、しかもそのナオミが自分の幸せを心から願っていてくれるのであり、そのナオミを信頼するからこそ、ナオミの言葉に従ったということです。

 どうでしょうか。私は、ナオミとルツのやりとりを見ながら、神様と私たちの関係についても、似たような部分があるのではないかということを思いました。

 神様は、私たちがご自分の言葉に従うことを願っておられます。教会では、難しい言葉で「従順」と呼ばれます。私たちの信仰生活において大切なことは、神様に従うこと、従順だということです。

 しかし、その従順というのは、どういうことなのでしょうか。とにかく絶対に従うということなのでしょうか。何も考えないで盲目的に従うということでしょうか。機械的に片っ端から従うということでしょうか。神様の言葉が単なる規則であるならば、とにかく機械的に従うということで、何の問題もないのかも知れません。

 私たちが聞き従うべき神様の言葉というのは、どのようなものでしょうか。申命記によるならば、それは、単なる規則ではありません。そうではなくて、それは、神様が私たちの幸せを願って与えてくださった言葉だということです。神様の言葉というのは、単なる規則ではなくて、私たちの幸せのために与えられたものだということです。そして、そうであるならば、大切なことは、とにかく機械的に従うということではないでしょう。そうではなくて、それは、神様の言葉を通して、私たちの幸せを願っていてくださる神様の愛を知ることではないでしょうか。神様の愛を知り、その神様を信頼することこそが、何よりも大切だということです。

 神様に従うというのは、従順というのは、決して、盲目的に従うことではありません。自分の意志や感情を捨てて、とにかく機械的に従うことではありません。そうではなくて、自分の自由な意志で従うということです。そして、それは、神様を愛するからこそ、神様を信頼するからこそに他なりません。私たちは、神様を愛するからこそ、神様を信頼するからこそ、神様の言葉に従うということです。

 他に選択肢があるかも知れません。「こうした方がいいんじゃないか」という思いがあるかも知れません。しかし、神様こそが誰よりも自分を愛していてくださることを信じるからこそ、神様こそが自分の幸せを知っていてくださることを信じるからこそ、神様の言葉に従うということです。そして、神様は、私たちが自由な意志で、ご自分の言葉に従うことを喜んでくださるということです。そして、それは、神様が、私たちのことを、機械や奴隷のように見ておられるのではなくて、一人の人として尊重していてくださるということもあります。神様は、何よりも、私たちとの交わりを願っていてくださるということです。真の従順は、その神様との豊かな交わりから生まれてきます。そして、そこに私たちの幸せもあります。

 とにかく従順であることを目指す時、私たちは神様の愛を見失います。しかし、神様の愛を見つめる時、私たちは神様との豊かな交わりの中に生かされることになります。神様を愛するが故に、神様を信頼するが故に、神様の言葉に従う歩みへと導かれていきます。

 私たちはどうでしょうか。神様の言葉を通して、私たちの幸せを願っていてくださる神様の愛を受け取っているでしょうか。幸せを願いながらも、本当の幸せが何たるかも分からない私たちの罪を背負って、十字架にかかってくださった神様、主イエス様の愛を受け取っているでしょうか。その愛に気づかされるからこそ、「おっしゃることは、みないたします」と答えているでしょうか。あるいは、「従順」という言葉に捕らわれて、とにかく機械的に従うことばかりを目指していることはないでしょうか。

 神様ご自身の言葉を通して、そこに明らかにされたイエス様の十字架の御業を通して、私たちの幸せを願っていてくださる神様の愛を見つめたいと思います。神様の愛の中で、私たちもまた、神様を愛するからこそ、神様を信頼するからこそ、神様に従う者でありたいと思います。そして、神様と共に生きる幸せを喜び味わいたいと思います。

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