礼拝説教から 2022年1月30日

  • 聖書箇所 ルツ記2章8-13節
  • 説教題 神様の翼の下に

 ボアズはルツに言った。「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけたら、彼女たちの後について行きなさい。私は若い者たちに、あなたの邪魔をしてはならない、と命じておきました。喉が渇いたら、水がめのところに行って、若い者たちが汲んだ水を飲みなさい。」彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」ボアズは答えた。「あなたの夫がなくなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれ故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」彼女は言った。「ご主人様、私はあなたのご好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」

 

0.

 先週からルツ記を開いています。ルツ記というのは、一つ前の士師記と同じ時代の物語です。

 士師記では、「困った時の神頼み」のようにしか神様を求めないイスラエルの民の堕落が描かれていました。真の王である神様を神様としないイスラエルの民は、自分たちの目に良いと見えること、好き勝手なことをしていました。それは、宗教的な部分だけではなくて、道徳的な部分にも及びました。かなり雑なまとめ方になりますが、士師記の時代には、目茶苦茶なことが平気で行われていたということです。しかし、その士師記と同じ時代を舞台とするルツ記では、少し異なった様子が描かれています。

 先週は、飢饉のために、モアブの地に移り住んだナオミが、モアブの地で夫と二人の息子を失って、ルツという嫁とベツレヘムに戻って来た場面を見ました。ナオミは、自分を辛い目に遭わせた神様に不満を抱きながら、「快い」という意味を持つ「ナオミ」と呼ばれることを拒んでいました。しかし、神様は、ルツを通して、ナオミと共にいてくださり、ナオミの祝福を願っていてくださいました。

 今日は、2章から、ナオミとルツが、ベツレヘムでの具体的な生活を始めた場面を見ていきたいと思います。

 

1.

 ベツレヘムで、ナオミとルツの生活が始まりました。生活をするというのは、働いて生きるということです。そして、その具体的な生活のために、嫁のルツは、姑のナオミに提案をしました。それは、畑に行かせてほしい、親切にしてくれる人の後ろについて、落ち穂拾いをさせてほしいということでした。

 落ち穂拾いというのは、何でしょうか。私は、農業や畑仕事のことが、よく分からなくて、落ち穂拾いと言われても、「ゴミ拾いの仕事でもするんかいな」というようなことを思ってしまいました。もちろん、落ち穂というのは、ゴミのことではありません。刈り取りの時に落ちてしまった穂のことであり、本来なら、すべて拾うべきものです。

 旧約聖書の時代において、土地を持っていた人々は、穀物の刈り取りをする時に、落ちた穂を残しておかなければなりませんでした。隅々まできれいに刈り取ることもいけませんでした。ぶどう畑などでも同じです。それは、貧しい人々のためでした。貧しい人々に、落ちた穂を拾わせるためでした。豊かな人々は、貧しい人々が生きていくために、刈り取りの時に落ちる穂を残しておかなければならなかったということです。そして、それは、神様が定められた決まりでした。誰よりも、神様ご自身が、貧しい人々のことを配慮しておられたということです。神様は、豊かな人々も貧しい人々も、共に生きることを願われたということです。

 最近は、「自己責任」ということが、よく言われるでしょうか。文字どおりには、自分のことは自分で責任を持つということですが、成功をすれば、それは自分が努力をしたからであり、反対に、落ちぶれることになれば、それもまた、自分の努力やら何やらが足りなかったということです。豊かになるのも貧しくなるのも、自分の責任だということです。

 しかし、どうでしょうか。物事というのは、私たちの人生というのは、それほど単純に割り切ることができるものでしょうか。

 確かに努力することは大切です。自分の人生に責任を持たなければならないのは、誰よりも自分であるべきでしょう。その一方で、私たちは、時に、自分の力をはるかに越えた事態に直面させられることも、事実です。私たちは自分の知恵や力ではどうにもならない現実を経験させられることがあるということです。ナオミもそうでした。ナオミが夫や二人の息子を亡くしたのは、ナオミに責任があることではありませんでした。ナオミが何にもなしになったのは、ナオミの知恵や力を越えたことでした。

 しかし、そのナオミが、ルツと一緒にベツレヘムに戻って来た時、そこには一つの道が開かれていました。それが落ち穂拾いです。落ち穂拾いというのは、どのような事情があったにしろ、貧しい人々が生きるための手段でした。そして、それは、神様が、ナオミやルツを愛していてくださったということです。神様が、貧しい人々を愛していてくださるということであり、神様が「どうでもいい」と思っている人は、一人もいないということです。神様は、すべての人々を愛していてくださるということです。

 ルツは、ナオミの了解を得て、落ち穂拾いに行くことになりました。それは、ボアズという人の畑でした。ボアズというのは、ナオミの亡くなった夫であるエリメレクの親戚に当たる人です。そして、ボアズは、自分の畑に来たルツを快く受け入れました。落ち穂を拾うルツのために、細かな配慮をしました。

 ボアズは、どうして、ルツに対して、親切にしたのでしょうか。ボアズは、若いルツに恋心を抱いたりしていたのでしょうか。もしかしたら、そのような思いがなかったことはないかも知れませんが、そのようなロマンスがルツ記で描かれていることの中心ということではないでしょう。

 ルツは、ボアズの前で、ひれ伏して質問をしました。それは、「どうして、よそ者の自分に親切にしてくれるのか」ということです。

 ルツは自分のことを「よそ者」と言っています。ルツは、ベツレヘムにおいて、イスラエルの社会において、自分がよそ者であると意識していたことを示しています。そして、そのルツにしてみれば、よそ者である自分が、ボアズから親切にしてもらう理由はないということです。気遣ってもらう理由はないということです。そうであるにもかかわらず、よくしてもらっているということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。ルツは、ボアズの前で、顔を伏せたのであり、地面にひれ伏したということではないでしょうか。ルツは、よそ者の自分によくしてくれるボアズの前に出る時、ひれ伏さざるを得なかったということです。逆に言うと、ルツがよそ者でなかったなら、ボアズの親切を当然のこととして受け取ったかも知れません。そうであれば、ボアズの前にひれ伏すこともなかったかも知れません。

 私は、ボアズの前にひれ伏したルツを見て、礼拝も同じではないかということを思いました。

 礼拝というのは、何でしょうか。その一つの意味は、神様の前にひれ伏すことです。ひれ伏して、神様が神様であることを認めて、神様を畏れ敬うことです。そして、それは、神様の一方的な恵みを経験したからこそです。私たちは、イエス様の十字架の御業を通して、神様からの一方的な恵みを受け取ったからこそ、神様の前にひれ伏すのだということです。神様から愛されるべき理由や資格がないにもかかわらず、神様から「よそ者」として退けられても文句を言えないような者であるにもかかわらず、神様が無条件に愛していてくださる恵みに気づかされたからこそ、神様の前にひれ伏して、神様をほめたたえるのだということです。よそ者であることを知り、しかしながら、そのよそ者の自分が神様から無条件に愛されている恵みに気づかされる時、私たちは神様の前にひれ伏さざるを得ないということです。ひれ伏して、神様をほめたたえざるを得ないということです。

 神様の前にひれ伏す、それは、「ちょっと無礼なことをしたら、きついお叱りを受けるから」ということではありません。「神様を怒らせたら大変だ」ということではありません。そうではなくて、神様の愛に気づかされたからこそ、私たちは、神様の前にひれ伏すということです。よそ者のような自分を愛していてくださる神様だからこそ、畏れ敬うということです。神様との関係を第一にするということです。

 私たちはどうでしょうか。神様の前にひれ伏しているでしょうか。神様の前にひれ伏しているとすれば、それは、どうしてでしょうか。神様からよそ者として退けられることが怖いからでしょうか。よそ者のような自分を愛していてくださる神様の恵みを味わっているからこそでしょうか。

 

2.

 ボアズは、よそ者のルツを厚くもてなす理由のようなことを説明しています。それは、ルツが、姑であるナオミにしたこと、生まれ故郷を離れて、知らない土地に来たことについてです。ボアズは、ベツレヘムに来たルツのことを、すでに詳しく聞いていたということです。そして、そのルツの行いに対して、神様が豊かに報いてくださることを祈り求めているということです。あるいは、ルツの行いに対して、神様が豊かに報いてくださるのは、神様の御心だと言ってもいいのかも知れません。そして、その御心に従って、ボアズはルツを厚くもてなしているということです。

 ボアズは「報い」という言い方をしています。ルツがしてきたことに対して、神様が報いてくださることを願っているわけです。

 どうでしょうか。「あなたのしたこと」、「報い」というような言葉を聞くと、私たちは、もしかしたら、ルツの行いが素晴らしかったから、神様は報いてくださるんだということを思うかも知れません。救われるためには、良い行いをして、神様に認められなければならないということを思うかも知れません。

 しかし、ボアズは、同時に、そのルツについて、「あなたがその翼の下に身を避けようとして来た」と表現しています。ボアズのまとめによれば、ルツは、神様の翼の下に身を避けようとして来たということです。ルツは、神様の翼の下にかくまってもらうために来たということです。神様に守られて、神様に支えられて生きることを願って来たということです。神様がルツに報いてくださるのは、ルツが素晴らしい嫁だったからというよりも、ご自分の翼の下に逃げ込んで来たからだということです。あるいは、神様が喜ばれたのは、何よりも、ルツが神様の翼の下に身を避けようとして来たことと言ってもいいのかも知れません。

 ちなみに、先週の本文の最後、22節を見ると、ルツについて、「モアブの野から戻って来た嫁」と説明されています。また、2章に入ってからも、6節を見ると、「モアブの野から戻って来たモアブの娘」と説明されています。

 ルツは、ベツレヘムの出身ではありません。モアブの出身です。そうであるならば、ルツがベツレヘムに来たのは、「来た」であって、「戻って来た」ではないでしょう。姑であるナオミと一緒に「来た」ということです。しかし、そうであるにもかかわらず、「モアブの野から戻って来た」と説明されているということです。

 どういうことなのでしょうか。それは、ルツの本当の故郷が、神様の翼の下だということではないでしょうか。ルツは、本当の故郷である、本当の居場所である神様の翼の下に戻って来たということではないでしょうか。神様こそが自分を守り支えてくださる方であることを信じて、その神様を信頼して、神様の翼の下に戻って来たということです。そして、神様は、そのルツを喜んで受け入れてくださったということです。今日の本文の言葉を用いるなら、ルツに報いてくださったということです。

 ルツを受け止めてくださった神様は、私たちとも、共に生きることを願っていてくださいます。私たちが、神様に守られて、神様に支えられて生きることを、誰よりも、神様ご自身が願っていてくださいます。そして、だからこそ、その神様を信頼して、神様に自分を委ねていく私たちを、神様はそのままに受け止めてくださいます。私たちの人生に責任を持ってくださいます。大切なことは、その神様を信頼することです。成功していなくても、立派になっていなくても、そのままの姿で、神様の翼の下に逃げ込むことです。

 私たちはどうでしょうか。神様を信頼しているでしょうか。神様を信頼して、神様に自分を委ねているでしょうか。口で神様に対する信頼を告白しながら、実際には、自分で自分の人生に責任を持とうとしていることはないでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の十字架の御業を見上げたいと思います。十字架の御業を見上げながら、神様が私たちのすべてを背負っていてくださることを覚えたいと思います。そして、その神様に、自分を委ねて生きる者でありたいと思います。

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