礼拝説教から 2022年1月23日

  • 聖書箇所:ルツ記1章15-22節
  • 説教題:ナオミがナオミであるのは

 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神々のところに帰って行きました。あなたも弟嫁の後について帰りなさい。」ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」ナオミは、ルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見て、もうそれ以上は言わなかった。

 二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。

 

0.はじめに

 今日は旧約聖書のルツ記を開かせていただきました。先週まで見ていた士師記の次にあたります。そして、今日の本文には含みませんでしたが、ルツ記の最初の所を見ると、ルツ記の時代というのは、士師記と同じであることが分かります。ルツ記は、士師が治めていた時代の物語だということです。

 一つ一つの出来事を詳しく分かち合えたわけではありませんが、士師記にはとんでもない出来事が描かれていました。特に、17章以降に描かれている出来事を見ると、私たちは何とも言えない気持ちにさせられます。それは、その出来事の背景を知れば、それなりに納得できるというようなレベルの話でもないでしょう。士師記の時代というのは、やはりとんでもなかったわけです。

 しかし、その士師記と同じ時代を描いているルツ記を見ていくと、士師記の時代というのは、士師記に描かれていることがすべてではないということになるのかも知れません。士師記に描かれているのは、その時代のすべてということではなくて、あくまでも一つの側面に過ぎないということが分かります。士師記とルツ記を合わせて見るならば、もう少し別の側面が見えてくるということです。そして、それは、暗闇のような時代の中にあっても、途絶えることのない神様の働きが見えてくるということでもあります。

 今日は、ルツ記1章からその神様の御業を見つめることができればと思います。

 

1.

 聖書の舞台は、時代も場所も、私たちからはとても離れています。私たちには何の馴染みもありません。それは、出てくる人の名前も同じです。しかし、例外的に、現在の私たちにとっても、何の違和感もなく受け入れることのできる名前が、いくつか出てきます。そして、その最も代表的な名前が、「ナオミ」ではないでしょうか。あるいは、現在の私たちにも馴染みのあるナオミという名前が聖書に出てくることの方が、意外に感じられると言えるのかも知れません。もちろん、ナオミという名前は聖書から来ているということであり、いつだったか、NHKのある番組でも、取り上げられていたことがありました。

 そのナオミという女性は、元々は、ユダのベツレヘムという所で、夫や二人の息子と一緒に暮らしていました。しかし、飢饉が起こって、ナオミの家族は、ベツレヘムからモアブの地に移り住むことになりました。

 モアブというのは、外国です。遠い親戚のような関係になりますが、イスラエルの人々はモアブの人々を軽蔑していました。神様から見捨てられた人々のように見られていました。神様の民であるイスラエルの人々にとっては、関わってはならない人々です。しかし、そのモアブの地に家族で移り住むことになったということです。それは、飢饉という状況の中で、生きるために、止むを得ない選択だったということになるでしょう。ナオミにとっては、大きな試練だったと言えるでしょう。

 そして、そのモアブの地で、ナオミはさらなる悲しみを経験することになりました。それは、夫の死です。ナオミは夫に先立たれていまいました。

 その後、二人の息子が、モアブの女性を妻に迎えて、十年ほど暮らします。それは、もしかしたら、ナオミにとって、大きな慰めになったかも知れません。しかし、その二人の息子も死んでしまいました。ナオミは、モアブという外国の地で、一人ぼっちになってしまったということです。

 ナオミはベツレヘムに帰ることを決意しました。あるいは、ナオミに残された道は、ベツレヘムに帰ることしかなかったと言った方がいいのかも知れません。ちょうど、神様がご自分の民であるイスラエルの人々を顧みてくださったという噂も聞こえていました。飢饉の終わりです。

 そして、ナオミがベツレヘムに帰る時、二人の嫁もナオミについて行こうとしました。しかし、ナオミは彼女たちを説得します。それは、「自分たちの元の家に帰りなさい」ということです。二人の嫁の世話をしてあげることのできないナオミにとって、彼女たちを自分の家に帰らせることは、彼女たちのためにできるたった一つのことだったと言ってもいいのかも知れません。

 説得の結果、オルパという名前の嫁は、泣きながら、ナオミとの別れを決断しました。しかし、もう一人の嫁であるルツは、さらにねばりました。何としても一緒に行くということです。そして、そのルツの固い決意に負けてということになるでしょうか。ナオミは、ルツを連れて、ベツレヘムに帰ることにしました。

 ナオミとルツがベツレヘムに到着すると、大騒ぎになりました。「まあ、ナオミではありませんか」ということです。ナオミが帰って来たということです。それは、ベツレヘムの人々が、モアブに行ったナオミのことを心配していたということでしょうか。ナオミの帰りを喜んでいたということでしょうか。

 正確なことは分かりませんが、ナオミは、大騒ぎをしている人々に言いました。それは、「ナオミと呼ばないでほしい、マラと呼んでほしい」ということです。

 どういうことなのでしょうか。

 日本のナオミという名前は、ほとんどの場合が漢字でしょうか。そして、その漢字によって、ナオミという名前に込められた意味も違ってくることでしょう。

 今日の本文に出てくるナオミは、欄外の注によると、「快い」という意味の名前になるようです。かつての口語訳では、括弧書きで「楽しい」と説明されていました。ナオミという名前には、喜びに満ちた人生、祝福に満ちた人生になってほしいという願いが込められていると言えるでしょうか。とても良い意味の名前です。

 しかし、ナオミは、そのナオミという名前で呼ばないで、マラという名前で呼んでほしいと言っているわけです。「マラ」というのは、同じ欄外の注によると、「苦しむ」という意味になるようです。苦しみに満ちた人生になってしまったということです。

 ちなみに、ナオミは、「マラ」と呼んでほしい理由について、「全能者が私を大きな苦しみにあわせた」と説明しています。全能者というのは、主なる神様のことです。他でもなく、神様が自分を苦しめたということです。具体的には、ナオミがモアブの地で経験したことになるでしょうか。夫と二人の息子に先立たれて、ナオミは素手で帰って来たということです。何にもなしで帰って来たということです。そして、夫と二人の息子を奪ったのは、神様に他ならないということです。神様が、自分を辛い目に遭わせられたということです。「ナオミ」と呼ばれるような人生を送ってはいないということです。そして、ナオミではなくて、マラと呼んでほしいと願うナオミの言葉には、神様に対する不満が込められていると言ってもいいのかも知れません。「神様、何で、どうして」ということです。

 私たちの人生はどうでしょうか。快い人生、祝福に満たされた人生と言えるでしょうか。あるいは、苦しみに満たされた人生と言えるでしょうか。

 快い人生、祝福に満たされた人生であれば、幸いです。しかし、実際には、死ぬまで、何の問題もない人生を送る人というのは、ほとんどいないと言った方がいいのだと思います。どこかで、何らかの痛みや苦しみを経験するのが、私たちの人生ではないでしょうか。時には、背負い切ることのできない問題を背負わされるような場合もあるかも知れません。

 どうでしょうか。私たちは、どうして様々な苦しみを経験するのでしょうか。自業自得ということがあるでしょうか。理不尽な苦しみを経験することがあるでしょうか。そして、その理不尽な苦しみを経験する私たちのために、何もしてくれない神様に対して、不満や怒りを覚えることがあるでしょうか。神様には何の力もない、神様から愛されていないと思うことがあるでしょうか。

 ルツは、神様こそが自分を苦しみに遭わせたと言いました。自分が辛い目に遭わされていることを、神様のせいにしました。夫と二人の息子を失って、素手で帰って来たのは、神様のせいだということです。

 どうでしょうか。ナオミは本当に素手だったのでしょうか。何にもなしだったのでしょうか。

 飛ばした16-17節で、ルツは、「帰りなさい」という姑のナオミに対して、断固として、一緒に行くことを訴えます。ナオミが行く所に行く、ナオミが住む所に住む、ナオミの民は、自分の民、ナオミの神様は自分の神様だということです。ナオミが死ぬ所で自分も死ぬということです。

 ナオミは素手で帰って来たと言いました。しかし、実際には、素手ではありませんでした。一人ではありませんでした。何にもなしではありませんでした。ナオミの側にはルツがいました。そして、それは、ナオミが願ったからではありません。ルツは、ナオミから命令されてついて来たわけではありません。嫁としての義務で、ナオミと一緒にいるのでもありません。そうではなくて、自分の意志で、ナオミと共にいることを選んだということです。強制されてでもなく、義務としてでもなく、喜んで、ナオミと一緒にいるということです。そして、ナオミが見つめなければならなかったのは、そのルツに他ならなかったということです。あるいは、ルツを通して働いておられる神様と言ってもいいでしょうか。神様は、ルツを通して、ナオミを祝福しようとしておられたということです。神様は、ナオミを痛めつけようとしておられたのではなくて、ナオミの祝福を願っておられたということです。どこまでも一緒にいるルツこそが、その証しに他ならないということです。

 私たちはどうでしょうか。「ナオミ」のように、「マラと呼んでほしい」というようなことがあるでしょうか。耐え難い苦しみを経験しながら、絶望することがあるでしょうか。不満や怒りでいっぱいになることがあるでしょうか。そして、自分には何もない、空っぽだと思うことはあるでしょうか。

 「ナオミ」が「ナオミ」であるのは、決して何の問題もなかったからではありません。何の苦しみもなかったからではありません。良いことばかりだったということではありません。そうではなくて、ルツが共にいたからです。そして、それは、ルツを用いておられる神様が共にいてくださったということです。「ナオミ」が「ナオミ」であったのは、何よりも、神様が共にいてくださったからだということです。「ナオミ」は、ベツレヘムにいた時も、モアブの地に行った時も、ベツレヘムに戻って来た時も、神様が共にいてくださるからこそ、「ナオミ」だったということです。神様が共にいてくださるからこそ、ナオミの人生は「快い」ということです。失望や絶望の中にあっても、希望を見ることができるということです。

 ナオミと共にいてくださった神様は、現在の私たちとも、共にいてくださいます。私たちが願う前から、私たちが神様を呼び求める前から、神様は私たちと共にいてくださいます。神様が私たちに呼びかけていてくださいます。そして、御子イエス・キリストこそが、神様が共にいてくださることの、何よりの証しです。イエス・キリストを見つめる時に、私たちは、神様の御声を聞き、神様が共にいてくださることを確信することができるということです。神様から愛されていることを確信することができます。大切なことは、イエス・キリストを通して、神様が共にいてくださる恵みを見つめ続けていくことです。

 私たちはどこを見つめているでしょうか。目の前の苦しい現実でしょうか。神様が与えてくださる、何か具体的な良いことでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の十字架を見上げたいと思います。そして、目の前のどのような現実の中にも、神様が共にいてくださり、神様が働いていてくださることを覚えたいと思います。神様から愛されていることを覚えたいと思います。そして、その神様との関係の中に生きることこそが、私たちの救いであり、何よりも快い人生であることを覚えながら、日々の歩みの中に遣わされていきたいと思います。

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