礼拝説教から 2022年1月16日

  • 聖書箇所:士師記17章1-6節
  • 説教題:真の王と出会う礼拝へ

 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。彼は母に言った。「銀千百枚が盗まれたとき、あなたはのろいの誓いをされ、私の耳にもそのことを言われました。実は、その銀は私が持っています。私がそれを盗んだのです。」すると母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私は自分の手でその銀を聖別して、主に献げていました。自分の子のために、それで彫像と鋳造を造ろうとしていたのです。今は、それをあなたに返します。」彼が母にその銀を戻したので、母は銀二百枚を取って銀細工人に与えた。銀細工人はそれで彫像と鋳造を造った。こうして、それはミカの家にあった。このミカという人には神の宮があった。彼はエポデとテラフィムを作り、その息子の一人を任命して、自分の祭司としていた。そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

 

0.

 何度も繰り返していますが、士師記の士師というのは、苦しみの中にあるイスラエルの民が救われるために、神様によって立てられた指導者たちです。士師記には全部で12人の士師が登場します。先週のサムソンは最後の士師であり、サムソンの物語は16章で終わりになります。

 しかし、不思議なことにと言えるでしょうか。士師記は、サムソンの物語で終わりません。サムソンの物語の後、士師記は17章から21章まで続きます。その17章以降に描かれているのは、とても衝撃的な出来事ばかりです。それは、宗教的な堕落ということだけのことではありません。倫理的に見ても、何でもありになっていると言える状況が描かれています。そして、それは、サムソンが死んだ後にそうなったというよりは、まさに士師たちが立てられていた時代の状況そのものと言ってもいいのかも知れません。

 

1.

 ミカという名前の人が出てきました。ミカというのは、「誰が主のようであろうか」という意味になるようです。「主のような方は他にはいない」という名前です。素晴らしい名前ではないでしょうか。

 しかし、そのミカが、母親に対して、何と驚きの告白をしました。それは、家のお金を盗んだということです。盗んだのは、銀千百枚です。現在のお金で、どれほどになるのかは分かりませんが、いずれにしろ、小学生の子どもが親の財布から小銭を盗んだというようなレベルの話ではないでしょう。ミカはものすごい大金を盗んだということです。

 ミカの言葉によると、母親は、銀千百枚が盗まれた時に、呪いの誓いを立てていたようです。「盗んだ奴は呪われてしまえ」ということです。そして、ミカも、母親が呪いの誓いを立てたことを聞かされていました。

 ミカは、「悪いことをした」と思っていたのでしょうか。「いつかは、ばれてしまう」と思ったのでしょうか。あるいは、「呪われてはたまらない」と思ったのでしょうか。ミカは、銀千百枚を盗んだのが自分であることを、母親に告白しました。そして、そのミカの告白を聞いた母親は、息子であるミカの祝福を祈り求めました。それは、呪いが取り消されることを求める祈りと言えるでしょう。ミカはとんでもないことをしたわけですが、母親にとっては、かわいい息子だったということになるでしょうか。

 3-4節を見ると、ミカとその母親はちょっと分かりにくいやりとりをしていますが、結果として行われたことは、ミカが母親に銀千百枚を返して、母親がその中から二百枚を銀細工人に与えて、彫像と鋳造を造らせたということになりそうです。母親の言葉によるならば、銀千百枚は、元々、主なる神様に献げていたものであり、その銀千百枚で、息子であるミカのために彫像と鋳造を造るつもりだったということです。いずれにしろ、母親は、戻ってきた銀千百枚の中から、二百枚を取って、本来の願いの通りに、ミカのために彫像と鋳造を造らせたということです。彫像と鋳造というのは、別々の何かではなくて、恐らくは、一つのものだったと思われます。いずれにしろ、それは、銀で造られた像です。そして、それは、神様が、モーセを通してイスラエルの民に与えられた律法の中で、造ることを禁止されていた偶像です。

 5節には、ミカの家に「神の宮」があったと記されています。神の宮というのは、神殿ということになるでしょうか。神様を礼拝する所です。もちろん、その礼拝の対象は主なる神様です。外国の人々が拝んでいる偶像の神々ではありません。イスラエルの人々を、ご自分の民とされた主なる神様です。ミカは、自分の家で神様を礼拝していたということです。そして、その礼拝のために、自分の息子を祭司にしていたということです。テラフィムというのはかなり胡散臭いですが、エポデというのは祭司の衣装になるでしょうか。もしかしたら、ミカとその家族は、熱心に神様を見上げていたと言ってもいいのかも知れません。

 とは言っても、礼拝を司る祭司というのは、誰もがなれるわけではありません。祭司になれるのは、本来は、レビ人と呼ばれる人々に限られています。そうであるにもかかわらず、ミカは、自分の息子の一人を祭司に任命して、礼拝を行っていたということです。それは、神様の御心に反することでした。

 最後の6節はまとめの言葉と言えるでしょう。「そのころ」というのは、士師記の時代のことです。士師記の時代、イスラエルには王がいなかったということです。だからこそ、人々は自分の目に良いと見えることを行っていたということです。それぞれが好き勝手なことをしていたということです。そして、それは、礼拝も例外ではないということです。神様を礼拝することにおいて、ミカとその家族は、好き勝手なことをしていたということです。自己流の礼拝を行っていたと言ってもいいのかも知れません。そして、それは、決してミカや士師記の時代だけのこととは言えないでしょう。

 私たちの礼拝はどうでしょうか。自分の目に良いと見えることを行っていることになってはいないでしょうか。自分たちが正しいと思うことを好き勝手に行ってしまっているだけのことになっていることはないでしょうか。神様が求めておられる礼拝ではなくて、自己流の礼拝になってしまっているということはないでしょうか。

 ちなみに、礼拝というのは、「こうしなさい、ああしなさい」ということが、厳格に決められているわけではありません。決まった礼拝のプログラムがあるわけではありません。礼拝に集まる教会のあり方も様々です。そして、そうであるならば、礼拝が自己流になっているかどうかというようなことは、「礼拝のどこがどうだから、教会のどこがどうだから」ということによって判断されるものではないということになるのだと思います。

 それでは、自己流の礼拝というのは、どのようなものでしょうか。それは、礼拝のプログラムがどうのこうのということではないのだと思います。教会の組織がどうということでもないのだと思います。あるいは、礼拝に対する備えがしっかりとできているかどうかというようなことによって決まるものでもないでしょう。もちろん、例外のプログラムが大切でないということではありません。教会のあり方なんてテキトウでいいということではありません。礼拝にはしっかりと備えなければならないでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、礼拝のプログラムや教会のあり方と関わりなく、礼拝に向けてしっかりと備えているにもかかわらず、私たちは自己流で礼拝を行うことがあるということです。

 自己流の礼拝、それは、本質的に自分が中心となっている礼拝ということではないでしょうか。神様ではなくて、自分が中心になっている礼拝ということではないでしょうか。礼拝の中で、礼拝の対象である神様が見失われるということです。神様が神様とされないということです。もっと直接的な言い方をするならば、神様が、私たちに利用されるものになってしまうということです。私たちの満足のために、私たちの何かのために、神様の名前が利用されるということです。そして、それは、神様と私たちの立場が逆転してしまうということです。神様ではなくて、私たち自身が神になってしまうということです。

 それでは、自己流の礼拝から守られるためには、どうすればいいのでしょうか。礼拝が、自分の何かのために、神様を利用する場とならないためには、どうすればいいのでしょうか。それは、何よりも、神様こそが、真の王であることを覚えることではないでしょうか。そして、礼拝が、その真の王である神様との生きた出会いの場となることではないでしょうか。

 繰り返しになりますが、今日の本文によれば、士師記の時代は、王がいなかったために、人々が好き勝手なことをしていたということになります。逆に言うと、王がいるならば、そこでは、好き勝手なことが許されないということになるでしょう。王がいれば、誰も好き勝手なことはできないということです。そして、そうであるならば、王に期待されているのは、何よりも大きな力ということになるでしょう。人々に好き勝手を許さない大きな力です。秩序をもたらすことのできる大きな力です。

 しかし、どうなのでしょうか。聖書全体を見る時、真の王である神様がなされたことは、何でしょうか。それは、大きな力を示すことではありませんでした。誰にも好き勝手を許さないような力を示すことではありませんでした。真の王である神様は、その反対に、十字架にかかられました。圧倒的な力でローマ帝国を滅ぼされたのではありません。十字架から降りて、神様の力を示されたのではありません。そうではなくて、反対に、力を捨てられたということです。神様としての力を捨てて、十字架にかけられてくださったということです。そして、それは、罪人の私たちを愛してくださったからに他なりません。本来なら、罪人である私たちがかけられなければならない十字架に、私たちの代わりにかけられてくださって、私たちに罪の赦しの道を開いてくださったということです。真の王は、神様としての力を捨ててまでして、ご自分の命を犠牲にまでして、私たちを愛してくださったということです。真の王が示してくださったのは、好き勝手を許さない力ではなくて、愛をだということです。そして、その愛に気づかされたからこそ、私たちは神様を愛するのであり、神様を礼拝するのだということです。

 新型コロナウィルスの問題が起こってから、私たちは礼拝の安全というものを求めるようになりました。礼拝で感染が起こらないようにということです。それは、当然の求めです。礼拝は安全でなければならないわけです。

 しかし、どうでしょうか。礼拝というのは、そもそも、安全なものなのでしょうか。

 礼拝というのは、神様との生きた出会いを経験することです。真の王である神様、イエス様との生きた出会いの場が礼拝です。そして、その神様と出会うというのは、私たち自身の裸の姿を見つめさせられる出来事でもあります。それは、罪の中に置かれた古い自分自身と出会うことです。嫌な自分、絶望したくなるような自分と出会うことと言ってもいいのかも知れません。

 アダムは、罪を犯した後、神様から「あなたはどこにいるのか」と問われた時に、隠れざるを得ませんでした。それは、自分の姿を見つめさせられたからです。罪を犯した自分、裸の自分、神様の前に出ることのできない自分を見つめさせられたからです。

 繰り返しになりますが、礼拝というのは、神様と出会うことであり、それは、裸の自分を見つめることでもあります。あるいは、裸の自分を見つめることにならなければ、それは、真実の礼拝にならないと言ってもいいのかも知れません。自己流ではない真実の礼拝において、私たちは、裸の自分、見つめたくない自分、神様にも他の誰にも知られたくない自分と向き合うことになります。

 しかし、その同じ礼拝で経験するのは、何でしょうか。それは、その自分を見捨てることなく、愛していてくださり、名前を呼び続けていてくださる神様との出会いです。罪人の自分、間違いや失敗で満たされた自分、神様すらも利用しようとする自分、そんな自分の手を取って、傷を癒して、新しい歩みへと導いてくださる神様との出会いです。

 自己流の礼拝においては、私たちは安全です。私たちは神様からの語りかけを聞くことなく、砕かれることなく、自分を守ることができるでしょう。満足することができるでしょう。自分の正しさを疑うこともないでしょう。

 しかし、真の王である神様からの語りかけが聞こえてくる時、私たちは危険にさらされます。砕かれる危険、死の危険にさらされます。しかし、そこから、神様と共に新しく生きる歩みがスタートします。

 繰り返しになりますが、私たちの礼拝はどうでしょうか。そこに、真の王である神様との生きた出会いがあるでしょうか。真の王である神様を神様とする真実の礼拝となっているでしょうか。あるいは、自己流の礼拝となっているでしょうか。

 毎週の礼拝が、真の王である神様、イエス様との生きた出会いの場となることを、心から願います。毎週の礼拝が、イエス様の前で、砕かれて、古い自分に死んで、同時に、イエス様と共に新しく生きる歩みのスタート地点となることを、心から願います。そして、神様を利用する者となるのではなくて、神様に用いられる者となることを、心から願います。

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