礼拝説教から 2022年1月9日

聖書箇所:士師記15章9-13節

説教題:サムソンの犠牲

 ペリシテ人が上って来て、ユダに向かって陣を敷き、レヒを侵略したとき、ユダの人々は言った。「なぜおまえたちは、私たちを攻めに上って来たのか。」彼らは言った。「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上って来たのだ。」そこで、ユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに行った。「おまえは、ペリシテ人がわれわれの支配者であることを知らないのか。おまえはどうしてこんなことをしてくれたのか。」サムソンは言った。「彼らが私にしたとおり、私は彼らにしたのだ。」彼らはサムソンに言った。「われわれはおまえを縛って、ペリシテ人の手に渡すために下って来たのだ。」サムソンは言った。「あなたがたは私に討ちかからないと誓いなさい。」彼らは答えた。「決してしない。ただおまえをしっかり縛って、彼らの手に渡すだけだ。われわれは決しておまえを殺さない。」こうして、彼らは二本の新しい綱で彼を縛り、その岩から彼を引き上げた。

 

 祭司長たちとパリサイ人たちは最高法院を招集して言った。「われわれは何をしているのか。あの者が多くのしるしを行っているというのに。あの者をこのまま放っておけば、すべての人があの者を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も取り上げてしまうだろう。」しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(ヨハネの福音書11章47-51節)

 

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 一ヶ月ぶりぐらいになるでしょうか。久しぶりに士師記を開きました。今日は15章9-13節です。

 繰り返しになりますが、士師記の士師というのは、イスラエルの国に王が立てられる前の時代に、苦しみの中にあるイスラエルの民が救われるために、神様ご自身によって立てられた指導者たちです。士師記の時代、イスラエルの民は、困った時の神頼みのようにしか神様を求めることをしませんでしたが、神様は、その彼らを愛するが故に、彼らの苦しみを見る度に、士師を立てて、彼らを救い出されました。

 士師記には、全部で十二人の士師が登場します。前回に続いて、今日は、最後の士師の物語、サムソンの物語を見ていきたいと思います。

 

1.

 これまでにも何人かの士師を取り上げてきましたが、サムソンは、それまでの士師とは、大きくイメージが異なります。それまでの士師は、人を集めて戦っていましたが、サムソンは一人で戦いました。人々の指導者でも何でもなくて、一匹狼のような士師でした。そして、何よりも、自由奔放で、手のつけられない人でした。神様の御心なんて、これっぽっちも考えてもいないかのように見える人でした。「これでも神様に献げられて用いられる人か?、これでも士師か?」と疑いたくなるような人です。そして、それは、現在の私たちにとってだけではなくて、サムソンと同じ時代に生きた人々にとっても、同じだったことでしょう。サムソンは、現在の私たちにとっても、当時の人々にとっても、士師のイメージの枠に収まらない人でした。あるいは、信仰者のイメージの枠に収まらない人と言ってもいいのかも知れません。しかし、もしかしたら、そんなサムソンだからこそと言えるでしょうか。サムソンは、次々にペリシテ人との間でトラブルを起こしていていきます。そして、それは、神様の御手の中にあったことでした。

 今日の本文には含んでいませんが、14章から15章の最初の所には、サムソンが好きになって結婚したペリシテ人の女性を巡って起こったトラブルが描かれています。そして、ペリシテ人たちは、トラブルの相手であるサムソンを、何とか痛い目に遭わせてやろうとしているわけです。そのために、彼らは、ユダのレヒという所に攻め込んできました。サムソンは、ユダ族の領地の中に潜んでいたようです。

 ペリシテ人から攻撃を受けたユダの地では、何と三千人もの人々が集まったようです。

 どういうことでしょうか。集まったユダの人々は、エタムという岩の裂け目に住んでいるサムソンの所に行って言いました。「おまえは、ペリシテ人がわれわれの支配者であることを知らないのか。おまえはどうしてこんなことをしてくれたのか。」そして、サムソンを捉えて、ペリシテ人たちに引き渡してしまいました。ユダの人々が三千人も集まったのは、トラブルメーカーであるサムソンを縛り上げて、ペリシテ人に引き渡すためだったということです。

 どうでしょうか。三千人も集まることができるなら、もしかしたら、ペリシテ人と戦うこともできたのではないでしょうか。かつては、ギデオンが、三百人の兵で、十四万五千人のミディアン人と戦って勝ったこともあるわけです。ギデオンの時代の勝利だけではありません。ユダの人々は、神様によって立てられた士師たちを通して、何度も救いを経験してきたのではなかったでしょうか。そして、突然の事態に、三千人もの人々が集まることができるなら、十分に戦うこともできたのではないでしょうか。何よりも、怪力のサムソンがいてくれるわけです。

 しかし、そうであるにもかかわらず、ユダの人々が三千人も集まってしようとしたことは、ペリシテ人と戦うことではありませんでした。そうではなくて、それは、サムソンを捕らえて、ペリシテ人に引き渡すために他なりませんでした。それは、自分たちを守るために他なりませんでした。ユダの人々は、自分たちを守るために、トラブルメーカーのサムソン一人を犠牲にしたということです。そして、それは、ユダの人々が、サムソンを用いて自分たちを救おうとしておられる神様の御業を見ていなかった、理解していなかったということでもあるでしょう。逆に言うと、ユダの人々は、サムソンを立てられた神様を見つめていなかったからこそ、自分たちの手で、自分たちを守らなければならなかったということなのかも知れません。だからこそ、サムソン一人が犠牲にされなければならなかったということです。サムソン一人の命で助かるなら、サムソンの命なんて、何でもなかったということです。ユダの人々にとって、大切なのは、あくまでも自分自身だったということです。

 私たちは、サムソンをペリシテ人に引き渡したユダの人々を見て、どのように思うでしょうか。「何て自分勝手なんだ」と思うでしょうか。「自分さえ助かれば、他人の命なんて、どうでもいいのか」と思うでしょうか。私は、まさに自分自身の姿を見せられているように思いました。

 私は何度かいじめられた経験があります。クラス全員からというような感じのいじめを受けた経験はありませんが、特定の誰かから、いじめられた経験が何度かあります。その理由は、気弱な態度が気に入らないということであったり、何も言い返さないという所に付け込まれてであったりします。それは、とても辛い経験でした。

 しかし、その反対に、私はいじめた経験もあります。とは言っても、積極的に誰かをいじめたということではありません。いじめに対して、見て見ぬふりをしてきたことが何度もあるということです。誰かが、クラスの多くの友だちからいじめられているのを、何も言えないで見ていることしかできなかったということです。なぜなら、下手をすれば、次は自分がいじめのターゲットにされるからです。私は、自分を守るために、見て見ぬふりをすることしかできなかったということです。自分を守るために、いじめられている誰かを犠牲にしていたということです。そして、それもまた、自分がいじめられているのと同じように、とても辛い経験でした。

 皆さんは、どうでしょうか。もしかしたら、同じような経験をされた方もおられるのではないでしょうか。そして、それは、サムソンをペリシテ人に引き渡したユダの人々も、現在の私たちも、何も変わらない者であることを示していると言えるでしょう。

 ユダの人々から縛り付けられて、ペリシテ人に引き渡される時、サムソンは何も抵抗しませんでした。一緒に戦おうと説得することもありませんでした。自分に討ちかからないことだけを約束させて、大人しく綱で縛られました。

 どういうことなのでしょうか。サムソンは、どうして、抵抗することもなく、一緒に戦おうと説得することもなく、大人しく綱で縛られたのでしょうか。「ペリシテ人が何人集まろうと、何の問題もない」という自信があったのでしょうか。「ユダの連中なんぞ、かえって足手まといだ」ということでしょうか。あるいは、大人しく縛られることが、神様の御心に従うことだという確信でもあったのでしょうか。正確なことは分かりませんが、いずれにしろ、ユダの人々は、そのサムソンによって、救われることになりました。そして、それは、後に、イエス様が、ローマ人の手に引き渡されて、十字架の上で成し遂げてくださった救いの御業を指し示していると言えるでしょう。

 イエス様は神様の子どもとして、様々な奇跡を行いながら、神様の国の福音を教えておられました。そして、そのイエス様と出会った多くの人が、イエス様に期待をしました。イエス様こそが救い主ではないかということを期待しながら、イエス様の追っかけになりました。しかし、イエス様が人気者になることは、ユダヤの指導者たちにとっては、都合が悪かったようです。なぜなら、多くの人がイエス様を信じて従うようになれば、ローマ帝国から睨まれて、土地も国民も取り上げられてしまう可能性があることを考えたからです。ユダヤの指導者たちには理解することのできないイエス様の働きを通して、国全体が滅ぼされてはいけないということです。そして、そうならないために、ユダヤの指導者たちは、イエス様をローマ帝国の十字架刑に追い込んだということです。それは、表向きには、自分たちの国と国民を守るためでした。しかし、本当の所は、自分たち自身の立場を守るために、イエス様一人を犠牲にしたということです。ユダヤの指導者たちは、何よりも自分たち自身の立場を守るために、イエス様を犠牲にしたということです。そして、そのイエス様によって、私たちのすべてに救いの道が開かれました。

 罪という言葉が説明される時、よく「自己中心」という言葉が使われます。しかし、それは、よく「ジコチュウ」と言われることとは異なります。自己中心の罪というのは、単なる「ジコチュウ」ではありません。そうではなくて、神様中心ではないということです。神様との関係の中で、神様を中心にして生きるのではなくて、神様との関係を拒んで、自分が中心になって生きるということです。そして、神様との関係を拒んで、神様から離れて生きる時、私たちは、自分で自分を守らなければならなくなります。

 自分で自分を守る生き方というのは、どうでしょうか。それは、自立した生き方と言えるでしょう。自分で自分を守るというのは、決しておかしなことではありません。私たちにとっては、当たり前のことと言ってもいいのだと思います。

 しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。今日の本文を通して見る時、自分で自分を守る生き方というのは、どこかで誰かを傷つけることにつながるということでもあるのではないでしょうか。神様との関係を拒んで生きる時、私たちは、自分で自分を守らなければならないのであり、それは、互いに傷つけ合うことにつながるということです。そして、それが、罪人である私たちの姿であり、神様はそんな私たちを憐れんでいてくださるということです。

 サムソンの時代、ユダの人々は、ペリシテ人の支配から救われました。しかし、イエス様が成し遂げてくださった救いは、それ以上のものです。それは、罪の支配からの救いであり、私たちが、神様との関係の中で、神様に愛されて生きることです。自分で自分を守るのではなくて、神様に支えられて、神様に守られて生きることです。そして、その神様の救いの中で、互いに傷つけ合ってではなくて、互いに支え合って生きる関係を育てていくことです。

 大切なことは何でしょうか。それは、自分もまた、サムソンをペリシテ人たちに引き渡したユダの人々と、イエス様を十字架へと追いやった人々と、何も変わらない罪人であることを覚えることです。自分を守るためには、誰かを犠牲にしてしまうような者であることを覚えることです。しかし、その私たちの罪を背負ってくださったイエス様によって、愛されていることを覚えることです。そのイエス様との関係の中で、イエス様に自分を委ねて、イエス様に支えられて生きることです。自分を守るために、誰かを傷つける生き方ではなくて、互いに仕え合う生き方は、そこからスタートします。

 私たちはどうでしょうか。イエス様に愛されていることを覚えながら、自分をイエス様に委ねているでしょうか。イエス様との関係の中で、平安をいただいているでしょうか。そして、共に生きる人々を愛しているでしょうか。あるいは、自分で自分を守る生き方から離れることができなくて、互いに傷つけ合うようなことがあるでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、何よりも、罪人の自分を愛してくださっているイエス様を見上げたいと思います。そして、そのイエス様との関係の中から、いつもスタートしていきたいと思います。

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