礼拝説教から 2022年1月2日

  • 聖書箇所: 詩篇126篇
  • 説教題: 私たちを元どおりにしてください

 主がシオンを復興してくださったとき

 私たちは夢を見ている者のようであった。

 そのとき 私たちの口は笑いで満たされ

 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。

 そのとき 諸国の人々は言った。

 「主は彼らのために大いなることをなさった。」

 主が私たちのために大いなることをなさったので

 私たちは喜んだ。

 主よ ネゲブの流れのように

 私たちを元どおりにしてください。

 涙とともに種を蒔く者は

 喜び叫びながら刈り取る。

 種入れを抱え 泣きながら出て行く者は

 束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。

 

0.

 昨年に引き続いて、今年も、新型コロナウィルスの影響を受ける中で、一年が始まりました。

 今日は、その一年の初めの礼拝において、旧約聖書の詩篇を開きました。2018年の春からになるでしょうか。水曜日の祈祷会では、詩篇を一篇ずつ、順番に開いていて、ようやくゴールが見えてきましたが、日曜日の礼拝で詩篇を開くのは、もしかしたら、初めてかも知れません。

 今日は、その詩篇126篇から神様の御声に耳を傾けながら、新しい一年の歩みへと向かっていきたいと思います。

 

1.

 詩篇126篇は「主がシオンを復興してくださったとき」という言葉から始まります。

 シオンというのは、都であるエルサレムのことになるでしょうか。詩人は、主なる神様がエルサレムを復興してくださったと歌っています。そして、「復興」という言葉が使われていることからすると、それは「衰えていた」ということが前提になっているでしょう。神様は、衰えていたエルサレムを復興してくださったということです。

 今日の本文である詩篇126篇の最初の所には、「都上りの歌」という説明書きがありますが、一般的に、都上りの歌は、バビロン捕囚期以後に成立したものと考えられているようです。

 紀元前6世紀、都であるエルサレムは、バビロンという国によって、崩壊しました。国は滅び、エルサレムは荒れ果て、多くの人がバビロンに捕らえられて行きました。これがバビロン捕囚です。

 しかし、そのバビロンもまた、後に、ペルシアという国によって滅ぼされることになりました。そして、そのペルシアのキュロスという王の命令によって、バビロンに捕らえられていた人々は、エルサレムに帰ることが許されました。

 バビロンに捕らえられていた人々は、自分たちの力で、バビロンを倒したのではありません。自分たちの力でエルサレムに帰ってきたのではありません。そうではなくて、バビロンがペルシアという別の国に滅ぼされて、その結果として、エルサレムに帰ることができたということです。「棚から牡丹餅」と言ってもいいでしょうか。

 しかし、それは、ただ単に、運が良かったということではありません。なぜなら、神様がその背後におられたからです。神様が、ペルシアの王であるキュロスを用いて、ご自分の民をエルサレムに戻してくださったということです。そして、だからこそと言えるでしょうか。神様が、ご自分の民をエルサレムに戻してくださった時のことについて、詩人は、「私たちは夢を見ている者のようであった」と歌っています。

 「夢を見ている者のようであった」というのは、どういうことでしょうか。それは、現実の出来事として考えることができなかったということではないでしょうか。まさに夢のような出来事だったということではないでしょうか。自分たちがエルサレムに帰る、自分たちの仲間がエルサレムに帰って来る、それは、決して実現することのない、夢のような出来事としか考えることができなかったということではないでしょうか。詩人やイスラエルの民にとって、神様のなさったことは、自分たちの理解や想像を、あるいは、信仰を、はるかに越えていたということです。

 バビロンに捕らえられていた人々は、神様を信じていました。国が滅ぼされたからと言って、「もう神様なんて信じない」ということになったわけではありません。彼らは確かに神様を信じていました。そして、旧約聖書の他の箇所を参考にするならば、彼らは、自分たちを必ずバビロンから解放してくださるという神様からの約束を受け取っていたとも言えるでしょうか。しかし、そうであるにもかかわらず、実際に、神様の御手によって、エルサレムに帰って来た時、彼らは、自分たちの救いを、現実の出来事としては考えられなかったということです。

 神様のなさること、それは、私たちの理解や想像をはるかに超えています。神様は、私たちの理解や想像、あるいは、信仰の枠の中に収まるような方ではないということです。そして、だからこそ、私たちは、私たちの理解や想像を超えるような出来事に直面する中でも、なおも、神様に期待して、神様に希望を持つことができるのではないでしょうか。

 もちろん、それは、藁にもすがる思いで、神様を当てにするのとは、異なります。私たちは、天地を造られた神様が、私たちを愛していてくださることを知っているからこそ、その神様がすべてを最善へと導いていてくださることを知っているからこそ、神様に期待をするのであり、神様に希望を持つのだということです。

 飛んで、4節を見ると、詩人は、神様に願い求めています。それは、自分たちを元通りにしてくださいということです。

 詩人は、神様がエルサレムを復興してくださったということを、すでに歌っていました。「復興」というのは、「衰えたものが再び盛んになる」ということを意味する言葉です。4節の言葉を用いるなら、それは、「元通り」と言ってもいいのかも知れません。

 神様は、確かに、バビロンに捕らえられていた人々をエルサレムに連れ戻してくださいました。そして、その人々によって、破壊されていた都の城壁、道路や建物も修理がされていたでしょうか。神殿も再建されていたでしょうか。正確なことは分かりませんが、エルサレムは、完全にとはいかないまでも、ある程度は、元通りになっていたと言ってもいいのかも知れません。エルサレムは、元の形を回復していたと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、詩人が、改めて、「私たちを元どおりにしてください」と歌っているのは、どういうことでしょうか。それは、復興が、完成したのではなくて、まだ途中の段階にあるということを意味しているのではないでしょうか。詩人とイスラエルの民は、まだまだ苦しい状況に置かれていたということです。

 ちなみに、新改訳2017で、「私たちを元どおりにしてください」と訳されている部分は、以前の第3版では、「私たちの繁栄を元どおりにしてください」となっていました。願い求められているのは、繁栄の回復だということです。しかし、新改訳2017においては、「繁栄」という言葉が取られて、「私たちを元どおりに」という訳に変えられたということです。

 どうでしょうか。私には、翻訳の良し悪しを判断する能力がありませんが、新改訳2017の「私たちを元どおりにしてください」という訳は、何だか意味深だなぁということを思いました。

 繰り返しになりますが、詩人は、「私たちを元どおりにしてください」と願っています。「私たちを」と言っています。壊れた城壁や痛んだ道路ではありません。たくさんの建物ではありません。都の景気がよくなることでもありません。そうではなくて、「私たちを」ということです。元通りにされなければならないのは、自分たち自身だということです。詩人は、自分たち自身が元どおりになることを願い求めているということです。

 十年前の東日本大震災の時からになるでしょうか。日本でも、これまでにはなかったような自然災害を何度も経験することになっています。

 土砂崩れで家が押し潰される、川の水が氾濫して町全体が水没する場面を、私たちは何度も目にしてきました。水が引いた後に、山のように積み上がった瓦礫を前にして、肩を落とす人々の姿を、何度も目にしてきました。そして、その度に「復興」という言葉を聞きます。復興は、東日本大震災以後の日本に生きる私たちにとって、とても身近な言葉になったと言ってもいいのかも知れません。

 震災からは10年が経ちました。多くの地域では街並みが回復しています。街に活気が戻ってきています。そして、そんな活気の戻った被災地の姿をアピールするということになるでしょうか。東京オリンピックも、元々は「復興五輪」というテーマが掲げられていました。

 しかし、どうでしょうか。多くの地域で、震災以前の姿が取り戻されている一方で、「復興はまだまだ」と思っている人が、たくさんおられるのも現実です。街の姿が元通りになり、街が活気を取り戻す一方で、様々な形で、震災の影響から立ち直れない方は、まだまだたくさんおられるということです。あるいは、道路や建物の復旧は相対的に早く進むとしても、人の回復というのは、より多くの時間がかかるということも言えるのかも知れません。そして、それは、私たちが神様の民として回復するということにおいても、同じだと言ってもいいのかも知れません。神様を離れた罪人の私たちが、神様の民として、完全に回復するのは、決して簡単ではないということです。時間がかかるということです。

 ちょっと突然のような感じですが、詩人は、最後に種蒔きのことを歌っています。種を蒔く時には涙があるが、刈り取る時には喜びがあるということです。

 どうなのでしょうか。私は農業の経験がなくて分かりません。種蒔きをするというのは、いつも涙を流すものなのでしょうか。当時の種蒔きというのは、涙を流すほどに、大変だったということでしょうか。

 正確なことは分かりませんが、詩人が、自分たちの復興を求めて祈っていることからすると、もしかしたら、種を植える土地もまた、荒れ果てていたと言ってもいいのかも知れません。カチコチに固くなった土地を耕さなければならないこともあったでしょうか。雑草だらけの土地もあったでしょうか。そして、何の蓄えもない中で、種を蒔いてその収穫を待たなければならなかったとすれば、それは、まさに涙の出るようなことだったと言えるのかも知れません。

 しかし、詩人が歌っていることは、何でしょうか。それは、涙と共に種を蒔く者が喜び叫びながら刈り取るということではないでしょうか。

 詩人は、神様に、自分たちを元通りにしてほしいと願い求めました。そして、同時に、種蒔きの歌を歌っています。

 どういうことでしょうか。それは、詩人が、自分たちの現実と、しっかりと向き合っているということではないでしょうか。復興が中途半端になっている自分たちの現実と向き合いながら、そこに種を蒔いて生きようとしているということではないでしょうか。そして、涙を流しながらも、希望を見ることができたのは、神様がその種を成長させてくださることを、信じていたからではないでしょうか。神様が喜びを与えてくださることを、信じていたからではないでしょうか。

 神様が私たちを元通りにしてくださる、それは、神様が私たちの問題をすべて解決してくださるということではありません。私たちの生活を豊かにしてくださるということではありません。そうではなくて、それは、神様が私たちをご自分との関係の中で生きる者にしてくださるということではないでしょうか。具体的な現実の中で、神様から愛されていることを覚えて、神様が共にいてくださることを覚えて生きる者にしてくださるということではないでしょうか。そして、だからこそ、神様にすべてを委ねながら、目の前の現実と向き合う者にしてくださるということではないでしょうか。具体的な現実の中で、神様の言葉に従って、神様を愛し、隣人を愛する者にしてくださるということではないでしょうか。

 私たちはどのような現実の中を生きているでしょうか。私たちが種を蒔くのは、どのような土地でしょうか。涙を流さなければならないこともあるでしょうか。希望が見えないこともあるでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、私たちを愛するが故に、御子イエス様を十字架にかけてくださった神様を見上げたいと思います。かけがえのないご自分の御子を犠牲にしてまで、私たちと共に生きることを願ってくださった神様の愛を覚えたいと思います。そして、どのような現実の中でも、その愛は決して変わらないことを確信したいと思います。そして、その愛の神様が私たちの復興を最後まで導いていてくださることを覚えながら、神様を愛する者として、隣人を愛する者として生きることができることを、心から願います。

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