礼拝説教から 2021年12月26日

  • 聖書箇所:ヨハネの黙示録22章20節
  • 説教題:主イエスよ、来てください

 これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

 

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 昨年に続いて、新型コロナウィルスに左右された一年となりましたが、2021年もいよいよ最後の日曜日を迎えることになりました。ここまで礼拝が守られてきたことを、心から感謝したいと思います。

 日本では12月25日のクリスマスが終わると、すぐにお正月モードに入っていくことになります。しかし、「教会暦」と呼ばれる教会独自のカレンダーでは、クリスマス・シーズンはまだ終わっていません。年の明けた1月6日が、教会暦では「エピファニー」と呼ばれ、その1月6日までがクリスマスのシーズンということになります。漢字では、公に現れる日と書いて、「公現日」と呼ばれます。イエス様が人々の前に公に現れた日ということです。

 そして、そのようなこともあって、昨年まで、クリスマス礼拝の次の週には、ずっとクリスマスと関わりのある箇所を開いてきました。昨年と一昨年は、東方の博士たちが、星に導かれて、イエス様を礼拝するために、ベツレヘムを訪れた場面を見ました。

 今年は、ヨハネの福音書を開かせていただきました。クリスマスからは遠く離れたような感じがしないでもないですが、昨年までと同じように、クリスマスを覚えながらのことです。クリスマスの恵みを覚えながら、クリスマスの後の歩みへと向かっていきたいということです。

 

1.

 「これらのこと」というのは、それまでの内容のことになるでしょうか。それは、ヨハネの黙示録の内容全体と言えるでしょう。そして、その「これらのことを証しする方」というのは、主イエス様ということになります。イエス様は、ご自分が証しされたヨハネの黙示録の最後に、「しかり、わたしはすぐに来る」と約束されたということです。

 新約聖書の最後を締めくくるヨハネの黙示録というのは、厳しい迫害を受けていた教会の兄弟姉妹たちを励ますために書かれたと言われています。あるいは、厳しい迫害に苦しむ兄弟姉妹たちに宛てられた励ましの手紙と言ってもいいでしょうか。そして、そのヨハネの黙示録の最後に、イエス様は、ご自分が「すぐに来る」ことを約束されたということです。今日の本文には含みませんでしたが、22章には「すぐに来る」というイエス様の言葉が、何度も繰り返されています。イエス様は、何度も繰り返して、「すぐに来る」ことを、固く約束してくださっているということです。教会では、難しい言葉で「再臨」と呼んでいます。十字架の死と復活の後、天に昇られたイエス様は、もう一度この世界に戻って来てくださるということです。そして、そのイエス様の再臨の約束こそが、ヨハネの黙示録の中心メッセージと言ってもいいでしょう。

 繰り返しになりますが、イエス様は、厳しい迫害の中にある兄弟姉妹たちに対して、「わたしはすぐに来る」ということを約束されました。そして、その約束を聞く兄弟姉妹たちは、「来てください」と答えています。

 どうでしょうか。クリスチャンであるならば、当たり前のやりとりであるのかも知れませんが、私は、「すぐに来る」という約束の言葉を聞いて、「来てください」と答えられるというのは、素晴らしいことだなぁということを思いました。

 私たちはどうでしょうか。「すぐに行くわ」と言われた時に、いつも「分かった、早く来てな」と答えたくなるでしょうか。もしかしたら、「すぐに行く」と言われて、「ええー、来るの?」と思うようなことはないでしょうか。「来んでもええんやけど」と思うようなことはないでしょうか。

 ヨハネの黙示録を受け取る兄弟姉妹たちは、厳しい迫害の中にありました。そして、それは、信仰の故にです。イエス様を信じるが故にです。彼らは、イエス様を信じるが故に、厳しい迫害を受けていたということです。逆に言うと、イエス様を信じさえしなければ、苦しむ必要もなかったということです。悪い言い方をすれば、彼らは、「イエス様のせいで」、厳しい迫害を受けていたということです。

 しかし、その苦しみをもたらした張本人であるイエス様が「すぐに来る」と約束をされた時、兄弟姉妹たちは、「来てください」と答えました。「二度と来んでもええ」と答えたのではありません。そうではなくて、「来てください」です。彼らは、イエス様が来てくださることを待ち望んだということです。

 どうしてでしょうか。それだけ迫害が厳しかったということでしょうか。「イエス様が来てくださったら、迫害の苦しみからも解放される、ああ、イエス様、早く来てください」というような思いだったのでしょうか。もちろん、そのような事情はあったでしょう。ヨハネの黙示録を受け取った兄弟姉妹たちは、厳しい迫害の中で、イエス様が来てくださることを待ち望んだわけです。

 しかし、それだけであるならば、どうでしょうか。

 後の時代に、ヨハネの黙示録を読む兄弟姉妹たちは、誰もが、同じような迫害の中で、信仰生活を送るわけではありません。実際に、現在の日本に生きる私たちは、それほどに厳しい迫害を受けているのではないわけです。しかし、そうであるにもかかわらず、ヨハネの黙示録を受け取った兄弟姉妹たちと同じように、「主イエスよ、来てください」という信仰の祈りが求められているわけです。特別な迫害を受けているわけではない現在の私たちもまた、「来てください」という信仰の祈りは求められているということです。

 ヨハネの黙示録を受け取った兄弟姉妹たちは、どうして、「来てください」と答えたのでしょうか。それは、何よりも、イエス様を愛していたからではないでしょうか。暗闇に光を灯してくださった恵みの素晴らしさを、暗闇の中から救い出された恵みの素晴らしさを、深く味わっていたからではないでしょうか。神様の子どもとして、神様と共に生きる救いの素晴らしさを、深く味わっていたからではないでしょうか。だからこそ、厳しい迫害の中で、その信仰が守られたということであり、救い主イエス様と、顔と顔を合わせて出会う時を待ち望んだということではないでしょうか。問われているのは、何よりも、イエス様を愛することであり、それは、イエス様がすでに来てくださった恵みを見つめ続けることに尽きるのではないでしょうか。イエス様が暗闇に包まれた私たちの世界に生まれてくださり、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださった恵みを見つめ続けていくことこそが、再臨を待ち望む日々の信仰生活において、とても大切だということです。

 ちなみに、新約聖書はギリシア語で書かれましたが、「主イエスよ、来てください」というのは、「マラナタ」というアラム語の言葉から来ていると考えられているようです。アラム語というのは、イエス様や弟子たちが日常的に使っていた言葉です。そして、そのアラム語のマラナタというのは、聖霊が注がれて、新しく誕生した教会において、生み出された祈りの言葉です。新しく誕生した教会において、アラム語を使うユダヤ人たちが、祈る時に使っていた言葉だということです。そして、それが、新約聖書の言葉になりました。パウロが書いたコリント人への手紙第一を見ると、最後に「主よ、来てください」という言葉が出てきますが、その元の言葉が「マラナタ」です。そして、今日の本文の「主イエスよ、来てください」というのは、アラム語のマラナタがギリシア語に翻訳された言葉ということになります。

 ちなみに、「マラナタ」という言葉は、「マラナ」と「タ」に区切られます。意味は、「主よ、来てください」ということです。しかし、「マラナタ」という言葉は、別の区切り方をすることもできるようです。それは、「マラン・アサ」という区切り方です。そして、「マラン・アサ」と区切った場合、その意味は「主は来てくださった」ということになります。つまり、「マラナタ」という言葉は、区切り方によって、「主よ、来てください」という意味にもなれば、「主は来てくださった」という意味にもなるということです。そして、「主は来てくださった」というのは、クリスマスの出来事に他なりません。すぐに来てくださる方は、すでに来てくださった方でもあるということです。

 クリスマスを前にしたアドベントというのは、イエス様を待ち望む期間だということを、これまでにも分かち合ってきました。そして、それは、実際には、二つの時を待ち望むことです。一つ目は、二千年前に起こった救い主イエス様の誕生を覚えて待ち望むということです。しかし、それは、クリスマスの出来事がもう一度起こるということではありません。私たちは、クリスマスが繰り返されることを期待しているのではないということです。そうではなくて、クリスマスを覚えながら、私たちが実際に待ち望んでいるのは、天に昇られたイエス様がもう一度来られる時です。現在の私たちにとって、待ち望むのは、天に昇られたイエス様が、もう一度来られる再臨の時だということです。

 クリスマス、それは、約二千年前のベツレヘムで起こったイエス様の誕生を記念して祝うだけの時ではありません。それは、同時に、「わたしはすぐに来る」という主イエス様の言葉を想い起こしながら、その再臨を祈り求める時でもあるということです。そして、それは、クリスマスの時に限られているのではなくて、毎週の礼拝こそが、主イエス様の再臨を待ち望む時と言ってもいいのかも知れません。

 私たちは、毎週の礼拝で、使徒信条によって、信仰を告白しています。そして、その使徒信条の中で、「かしこより来りて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と告白しています。「かしこより来りて」というのは、まさに、イエス様が天から戻って来てくださるということです。そして、その信仰の告白というのは、ただ単に、信じている内容を確認しているだけのことではありません。同時に、祈りでもあるということです。私たちは、使徒信条を通して、イエス様がもう一度来てくださる再臨の時を祈り求めながら待ち望んでいるということです。

 また、私たちは、毎週の礼拝において、主の祈りをささげています。そして、その主の祈りにおいても、「御国を来らせたまえ」と祈り求めます。「御国を来らせたまえ」というのは、神様の国が完全な形で実現することです。そして、その神様の国は、イエス様の再臨によって、実現します。イエス様の再臨によって、神様の国は完全な形で実現するのであり、その時を、私たちは、イエス様に教えられながら、祈り求めているということです。いずれにしろ、礼拝そのものが、イエス様の再臨を待ち望む時だということです。

 もちろん、だからと言って、礼拝が再臨を待ち望む時であることは、礼拝の中で、「再臨、再臨」と言って、再臨を強調することではないでしょう。再臨というのは、強調されて待ち望むものではないということです。

 イエス様の再臨を待ち望んで生きる、それは、他でもなく、イエス様の恵みをしっかりと見つめていくことに他なりません。イエス様が、私たちを愛して、お生まれになってくださったクリスマスの恵みを、そして、十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださった恵みを、しっかりと見つめ続けていくことです。目の前の現実を生きる歩みの中で、イエス様が共にいてくださる恵みを味わっていくことです。イエス様から愛されている恵みを味わっていくことです。そして、その恵みを喜び、イエス様を愛することです。イエス様がもう一度来てくださる再臨の時を待ち望む歩みは、そのイエス様との互いに愛し合う関係の中で整えられていくということです。

 私たちは、どうでしょうか。

 先日のキャンドルサービスは、生憎の天候となりましたが、それでも、集まってくださった方々と共に、暗い部屋の中で蝋燭の光を灯しながら、暗闇に輝く真の光の恵みを味わうことができました。どのような暗闇の中においても、むしろ、深い暗闇の中でこそ照り輝く真の光の恵みを味わうことができました。感謝したいと思います。

 ヨハネの黙示録の時代の迫害とは異なる難しさが続いていますが、クリスマスの恵みを覚えながら、イエス様がすでに来てくださった恵みを覚えながら、イエス様がもう一度来てくださる再臨の時を待ち望む者でありたいと思います。そして、その歩みが、何よりも、礼拝を通して整えられていくことができることを、心から願います。

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