礼拝説教から 2021年12月19日

  • 聖書箇所:ヨハネの福音書1章9-13節
  • 説教題:神様の子どもとされるために

 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

0.はじめに

 今日はクリスマスを記念する礼拝です。

 今から約二千年前、救い主であるイエス様が、ユダヤのベツレヘムという町でお生まれになってくださいました。クリスマスは、そのイエス様の誕生を記念して喜ぶ日です。イエス様の誕生日会と言ってもいいのかも知れません。

 クリスマスの物語と言えば、どのような場面が思い浮かぶでしょうか。イエス様の育ての親となるマリアやヨセフの前に、天使が現れた場面でしょうか。イエス様が馬小屋でお生まれになった場面でしょうか。羊飼いたちや東方の博士たちが、赤ちゃんのイエス様を見に行った場面でしょうか。

 新約聖書の中で、イエス様誕生の出来事を具体的に伝えてくれているのは、マタイの福音とルカの福音書です。それに対して、今日の本文であるヨハネの福音書には、クリスマスの物語がありません。しかし、イエス様誕生の意味や目的のようなことが、実にはっきりと宣言されているように思います。

 今日は、そのヨハネの福音書の始まりの部分を見ながら、イエス様がお生まれになってくださった恵みを味わっていくことができればと思います。

 

1.

 ヨハネは、「すべての人を照らすそのまことの光」という言い方をしています。すべての人を照らす真の光というのは、結論だけを言えば、それはイエス様のことです。イエス様は、すべての人を照らす真の光だということです。

 クリスマスは12月25日です。しかし、だからと言って、それは、イエス様の誕生日が12月25日だったということを意味しているのではありません。イエス様がお生まれになった日は、正確には分からないわけです。しかし、キリスト教会は、その歴史の中で、イエス様の誕生を記念するクリスマスを、12月25日に定めたということです。

 どうしてでしょうか。それは、イエス様が、すべての人を照らす真の光としてお生まれになってくださったからではないでしょうか。そして、それは、私たちが、暗闇に覆われているということを前提にしています。

 先週にも分かち合いましたが、クリスマスというのは、一年の中で最も暗い時期です。闇が最も深まる時期です。日が次第に長くなってきて、もうすぐイエス様が来てくださるのかなぁと思えるような時期ではありません。光が見えない、先が見えない、希望が見えない、神様からも見捨てられたのではないかと思われるような、そんな深い闇に包まれる時期です。しかし、その闇の中に生きる私たちを照らすために、イエス様はお生まれになってくださったということです。そして、それが、クリスマスの出来事だということです。

 暗闇というのは、どうでしょうか。

 個人差はあると思いますが、私たちは暗がりを恐がります。私の子どもたちは、「もう疲れて、早く寝たい、でも一人で暗い部屋に行って寝るのは怖い、だから、一緒に寝てほしい」ということになります。

 また、季節は異なりますが、肝試しというのも、明るい昼間ではなくて、暗い夜に行われるのが普通です。明るい所で肝試しをやっても、それほど恐くはないわけです。暗い夜だからこそ、恐さが増すわけです。

 私たちは暗闇の中で生きることができません。私たちには光が必要です。光を必要としない人は、一人もいません。すべての人が光を必要としています。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。人は、一生懸命に光を作り出してきました。暗闇を覆うような光を作り出してきました。そこには、物理的な光だけではなくて、暗い時代に希望の光を灯すような発明、工夫、考え方といったことも含まれるでしょう。

 しかし、どれだけの光が作り出されてきても、人の歴史というのは、本質的には同じことの繰り返しでした。「歴史は繰り返す」ということです。どれだけの光が作り出されても、暗闇はなくならなかったわけです。あるいは、繰り返される戦争を見つめながら、最近の異常気象を見つめながら、新型コロナウィルスによって、社会が分断されている状況を見つめながら、暗闇はますます深まっているかのように感じられているかも知れません。

 クリスマスは楽しい時です。しかし、それは、暗闇の現実を脇に置いておいてということではありません。暗闇の現実を脇に置いて楽しもうということではありません。そうではなくて、暗闇の現実の中で喜び楽しむのだということです。なぜなら、クリスマスは、深い暗闇の中に、真の光が輝いた出来事だからです。イエス様が、暗闇の中に生きる私たちすべてを照らす真の光としてお生まれになってくださった出来事だからこそ、私たちはクリスマスを喜び楽しむのだということです。

 しかし、どうなのでしょうか。暗闇の中に生きる私たちが、真の光に照らされて生きるというのは、どういうことなのでしょうか。すべての問題が解決されるということでしょうか。戦争もなくなって、あらゆる格差がなくなって、すべての人が平穏に暮らせるようになるということでしょうか。恐らくは、そういうことではないでしょう。

 飛んで、12節を見てみると、ヨハネは、イエス様を受け入れた人々、イエス様を信じた人々がいたことを証ししています。そして、その人々には、神様の子どもになる特権が与えられたと言っています。そして、それは、逆に言うと、私たちが神様の子どもとされるために、イエス様がお生まれになってくださったということでもあります。

 イエス様がお生まれになってくださった、それは、私たちが神様の子どもとされるためです。私たちが神様の子どもとされるために、イエス様はお生まれになってくださったということです。あるいは、私たちが真の光に照らされるというのは、神様の子どもになることと言ってもいいのかも知れません。

 それでは、神様の子どもになるというのは、どういうことでしょうか。それは、神様が私たちの父になってくださるということです。そして、その父なる神様から無条件に愛されている恵みを受け入れて生きる者になるということです。

 私はかつて韓国に留学をしていたことがありました。大学も出て、本来なら、就職をしてというようなタイミングで、「やっぱり韓国に行く」ということを言い出したわけです。親としてみれば、突然のことで、「何を、あほなことを言うとんねん」という感じです。しかし、私としては、高校の修学旅行で訪れた韓国のことが、どこかで気になっていて、韓国に行きたい、何か韓国と関わる仕事がしたい、そんな思いを断ち切ることができなくて、韓国行きを決心したわけです。ケンカをして出て行ったのではありませんが、親は理解も納得もしていないわけです。ただ子どもの将来を心配しながら、送り出すことしかできなかったわけです。

 結果的には、私は約9年間を韓国で過ごすことになりました。韓国で大学院に入って、それこそ必死のパッチで勉強をしました。しかし、最終的には中退をすることになりました。どうしても論文が通らない、お金もない、心も体もボロボロになってしまいました。残された道は、日本に帰ることしかありませんでした。家に帰ることしかできませんでした。そして、それまでにも、何度か家に帰ったりすることはありましたが、すべてを諦めて家に帰ることになった時には、気まずくて仕方がありませんでした。心配と迷惑ばかりをかけた自分が、どんな顔をして帰ればいいのか分かりませんでした。

 しかし、家に帰った後、親は何も言いませんでした。「だから、言うたやろう」というようなことは、何もありませんでした。自分のしてきたことを否定されるようなこともありませんでした。何も言わずに、ただそのままに、迎え入れてくれました。そして、その理由は、私が子どもだからだということ以外にはありません。成功したとか、立派になったとか、社会で認められるようになったとか、そのような条件は何もありません。ただ、私が自分たちの子どもだからだという事実一つです。親は、ただ自分たちの子どもだという事実一つで、私をそのままに迎え入れてくれたということです。いろいろと衝突をすることもありますが、この時のことは、感謝以外の何物でもありません。そして、それは、私にとっては、神様の子どもとされている恵みを教えられる経験でもありました。

 神様は、私たちを無条件に愛していてくださいます。無条件に愛していてくださるというのは、いつも変わることがないということです。神様の愛はいつも変わることがないということです。

 私たちの愛は、どうでしょうか。私たちの愛には、もしかしたら、様々な理由があるかも知れません。格好がいいから、お金持ちだから、優しいから、自分に関心を持っていてくれるから、…、様々な理由があるのではないでしょうか。

 私たちの愛には何らかの理由があります。私たちは、何らかの理由があって、誰かを愛したり、何かを愛したりします。しかし、そのような理由のある愛というのは、気をつけなければならないでしょう。なぜなら、愛する理由がなくなってしまえば、愛することもなくなってしまうからです。

 どんなにかわいい人でも、年をとったら、若い頃のかわいさを維持することはできません。年を取って、かわいくなくなったら、もう愛さないのでしょうか。優しいと思っていたのに、ケンカを繰り返す中で、優しくしてもらえなくなったら、もう愛さないのでしょうか。この人を逃したらと思っていたのに、もっとかわいくて優しい人と結婚できそうになったら、愛する人を変えるのでしょうか。

 もし、愛する理由がなくなって、愛することをやめてしまうなら、それは、無条件に愛するということではないのだと思います。理由のある愛というのは、そもそも愛と言うことすらできないのかも知れません。愛というのは、「どんな時にも」変わらないものだからです。何か理由があるからではなくて、何の理由もないけれども、愛するということです。仮に最初は何か理由があったとしても、後にその理由がなくなったとしても、変わることなく愛するということです。それが、無条件に愛するということです。そして、そのような愛の中にある時、私たちは安心することができます。

 私たちはどうでしょうか。変わることのない愛を経験しているでしょうか。無条件の愛を経験しているでしょうか。安心していることのできる愛を経験しているでしょうか。

 現実の社会の中では、無条件の愛を経験することは、とても難しいのではないでしょうか。むしろ、認められるために、愛されるために、必要以上の努力を重ねなければならないというのが、私たちの置かれている現実なのかも知れません。そして、その愛を勝ち取ることができたりできなかったりする中で、疲れたり、傷ついたり、絶望したり、諦めたりしていることはないでしょうか。「生きているだけで価値がある」、そのように叫ばれているかも知れませんが、実際に、生きているだけで価値があることを、いつも心から実感して喜ぶことができるほどに、私たちの社会は寛容ではないということです。そして、それは、私たちが闇の中に生きていることを意味していると言ってものかも知れません。あるいは、心のどこかに闇を抱えて生きているということになるのかも知れません。

 神様は、そんな私たちを無条件に愛していてくださいます。私たちが、どんな人生を送ってきたか、どんな人生を送っているかということは、関係ありません。神様は、私たちをそのままに愛していてくださるということです。どんな時にも、私たちと共にいてくださるということです。そして、私たちが、その神様の愛を受け取って生きるために、神様の子どもとなるために、神様と共に生きるために、神様は、人となって、赤ちゃんとなって、お生まれになってくださったということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、私たちがその神様の愛を受け取ることです。神様が自分を愛していてくださることを信じて、その神様の愛を受け取り続けていくことです。そして、それが、クリスマスを記念することであり、イエス様の誕生を喜ぶことです。

 暗闇というのは、決してなくなったわけではありません。むしろ、私たちを取り巻いている暗闇は、さらに深まっていると言ってもいいのかも知れません。しかし、神様は、その暗闇の中に置かれている私たちと共にいてくださいます。私たちの光となって、私たちの歩む道を照らしていてくださいます。

 今週はいよいよクリスマスを迎えることになります。深まる闇を脇に置いておいてではなくて、深まる闇の中で、イエスの誕生を喜びたいと思います。そして、イエス様を信じて、神様の子どもとして、神様と共に生きる者でありたいと思います。

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