礼拝説教から 2021年12月12日

  • 聖書箇所:士師記13章8-25節
  • 説教題:わたしの名は不思議

 そこで、マノアは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、あなたが遣わされたあの神の人を再び私たちのところに来させ、生まれてくる子に何をすればよいか教えてください。」(8)

 マノアは主の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできるでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」主の使いはマノアに言った。「たとえ、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のささげ物を献げたいなら、それは主に献げなさい。」マノアはその方が主の使いであることを知らなかったのである。そこで、マノアは主の使いに言った。「お名前は何とおっしゃいますか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちはあなたをほめたたえたいのです。」主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」(15-18)

 

0.

 アドベントの第三週に入ります。

 アドベントというのは、イエス・キリストの誕生を、特別に待ち望む期間です。それは、一年の中で最も暗い時期です。そうではなくて、闇が最も深まる時期です。だんだん日が長くなってきて、もうすぐイエス様が来てくださるなぁと思えるような時期ではありません。光が見えない、先が見えない、希望が見えない、神様からも見捨てられたのではないかと思われるような、そんな深い闇に包まれる時期です。しかし、その暗闇の中に、神様は御子イエス・キリストを送り遣わしてくださいました。闇の中に生きる私たちを照らすために、イエス様はお生まれになってくださったということです。そして、それがクリスマスの出来事です。

 今年のアドベントは、普段の礼拝で開いている箇所を続けて見ています。10月下旬から旧約聖書の士師記を開いています。先週は、エフタという士師を通して、イスラエルの民が救われた場面を見ました。

 士師記の士師というのは、イスラエルの国に王が立てられる前の時代に、苦しみの中にあるイスラエルの民が救われるために、神様ご自身によって立てられた指導者たちです。士師記の時代、イスラエルの民は、困った時の神頼みのようにしか神様を求めることをしませんでしたが、神様は、その彼らを愛するが故に、彼らの苦しみを見る度に、士師を立てて、彼らを救い出されました。それは神様の一方的な恵みでした。

 士師記には全部で12人の士師が登場します。そして、今日の本文に登場するサムソンは、その12番目、最後の士師になります。士師記の中で、最もたくさんのページが割かれている士師です。

 ちなみに、サムソンというのは、「小さな太陽」という意味になるそうです。

 士師記の時代、イスラエルの民は、何度も周辺の民族から苦しめられました。何十年にも渡って支配を受けることもありました。サムソンが生まれた時の状況もそうでした。そして、それは、暗い時代だったと言えるでしょう。神様から見放されたかのように思われる時代です。光の見えない、先の見えない、希望の見えない、暗闇のような時代です。あるいは、逆に言えば、イスラエルの民が、暗闇の中で、救い主を待ち望んだアドベントの時代と言ってもいいのかも知れません。

 今日は、そのサムソンの物語の始まりの部分、サムソン誕生の物語を見ていきたいと思います。

 

1.

 サムソンの物語の始まりの部分には、士師記の中で何度も繰り返されている言葉が記されています。それは、イスラエルの民が、主なる神様の目に悪であることを重ねて行ったということです。そして、その結果として、イスラエルの民は、ペリシテ人の手に渡されることになりました。

 ペリシテ人のペリシテというのは、パレスチナという地名の元になっている名前です。ペリシテ人は、地中海沿岸の地域を拠点にしていて、鉄の武器を持っていました。鉄を造り出すことのできないイスラエルの民からすれば、鉄を持つペリシテ人というのは、大きな脅威だったことでしょう。相応しい例えであるかどうかは分かりませんが、刀と槍と弓で戦う人々が、鉄砲を持った人々と戦わなければならないようなものと言えるのかも知れません。いずれにしろ、イスラエルの民は、そのペリシテ人の支配を受けて苦しむことになったということです。それは、四十年という期間に及びました。そして、その苦しみの中で、神様は、士師を立ててくださったということです。それがサムソンです。

 サムソンの父親はマノアです。マノアの妻は、神様の使いから、男の子が与えられることを知らされていました。「今後、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない、汚れた物を食べてはならない、男の子が生まれたら、頭にカミソリを当ててはならない、生まれてくる男の子は、ナジル人であり、イスラエルの民をペリシテ人の手から救い始める」ということが、マノアの妻に告げられていました。ナジル人というのは、神様に献げられた人のことです。神様は、そのナジル人である男の子を、イスラエルの民が救い出されるために選ばれたということです。そして、マノアの妻が、神様の使いの言葉を夫に知らせると、夫は、改めて、生まれてくる子どもに対してするべきことを、神の人から教わりたいことを祈り求めたということです。

 次の9節以下の所を見ると、神様は、マノアの祈りに答えて、改めて、ご自分の使いを、マノア夫婦の所へ送り遣わされたことが分かります。そして、マノアは、改めて、生まれてくる男の子に対してするべきことを尋ねました。しかし、神様の使いの答えは、同じでした。すでにマノアの妻に対して語られた以上のことが語られることはありませんでした。マノアは完全に当てがはずれたようです。

 そもそも、マノアは、どうして、生まれてくる子どもにするべきことを、改めて尋ねようとしたのでしょうか。神様の使いの言葉は、実にはっきりとしていたのではなかったでしょうか。マノアは、その神様の使いの言葉を理解することができなかったということでしょうか。あるいは、「神様の使いの言葉が本当かどうか分からない、確かめなければならない」というような思いがあったのでしょうか。あるいは、神様の使いの言葉の通りに、生まれてくる男の子をナジル人として献げるのが嫌で、自分の要求を聞いてもらおうとでも思っていたのでしょうか。正確なことは分かりませんが、いずれにしろ、今日の本文を通して分かることは、マノアが神様の使いを神様の使いとして認識してはいなかったということです。

 次にマノアは食事のもてなしを申し出ました。しかし、神様の使いは、その食事のもてなしを断ります。そして、「全焼のいけにえを献げたいなら、主に献げなさい」と教えます。全焼のいけにえを献げるというのは、神様を礼拝することです。神様との正しい関係の回復を求めることです。

 どうでしょうか。何だかよく分からない話になっています。対話がまったく噛み合っていません。そして、噛み合わないまま、対話が続きます。

 マノアは、神様の使いに、名前を尋ねました。それは、神様の使いの言葉が実現した場合に、神様の使いをほめたたえたいからだということでした。ほめたたえるためには、相手がどこの誰であるかを知る必要があるとは言えるでしょう。

 しかし、神様の使いは、「なぜ、聞くのか」と、逆に問い返されました。「なぜ、聞くのか」というのは、「聞かなくても分かるだろう」ということになるでしょうか。そして、「不思議」という名前を教えました。

 不思議という名前は、どうでしょうか。実に不思議な名前ではないでしょうか。そして、それは、いずれにしろ、神様ご自身のことです。神様は不思議な方だということです。不思議なことをなさる方だということです。神様は、私たちには決して理解しきることのできない、驚くべきことをなさる方だということです。あるいは、私たちの理解を超えているからこそ、神様は神様だと言ってもいいのかも知れません。

 皆さんは、どうでしょうか。「神様は不思議な方だなぁ」ということを思うでしょうか。「神様は不思議なことをなさるなぁ」ということを思うでしょうか。あるいは、神様のどのような所を見て、神様は不思議な方だということを思うでしょうか。神様のどのような御業を見て、神様は不思議なことをなさると思うでしょうか。

 絶対に治らないと言われていた病気を治してくださった時に、神様は不思議な方だということを思うでしょうか。どうすることもできない状況の中で、解決の道が開かれたなら、神様が不思議なことをしてくださったと思うでしょうか。自分の失敗や間違いが、自分の罪が、良いことのために用いられたりすると、神様は不思議なことをなさると思うでしょうか。

 神様はたくさんの不思議なことをなさる方です。しかし、聖書全体を見る時、私たちにとって、神様のなさる本当に不思議なことというのは、何でしょうか。それは、神様が罪人の私たちを愛してくださっているということではないでしょうか。神様を無視して、神様と共に生きることを拒んで、自分中心に生きる罪人の私たちを愛してくださっているということではないでしょうか。そして、そのために、御子イエス・キリストを送り遣わしてくださったということではないでしょうか。私たちの罪が赦されて、神様と共に新しく生きるために、イエス様が十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださったということではないでしょうか。

 クリスマスの時期によく読まれる箇所を開かせていただきます。

 イザヤ書9章6節です。<ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。↩ ひとりの男の子が私たちに与えられる。↩ 主権はその肩にあり、↩ その名は「不思議な助言者、力ある神、↩ 永遠の父、平和の君」と呼ばれる。>

 イザヤというのは、士師記よりも後の時代、イエス様よりも七百年ほど前の時代に活躍した預言者です。「ひとりのみどりご」、「ひとりの男の子」というのが、イエス様のことです。真の神様であるイエス様が、真の人としてお生まれになるということです。そして、その赤ちゃんの名前の一つとして挙げられているのが、「不思議な助言者」だということです。

 神様は不思議な方です。私たちの理解を超えた方です。そして、その神様のなさる不思議なことというのは、何よりも私たちを愛してくださっていることに他なりません。罪人の私たちを愛して、罪人の私たちと共に生きるために、御子イエス様を送り遣わしてくださったことに他なりません。

 皆さんはどうでしょうか。神様が自分を愛してくださっているなんて、不思議だなぁということを思うでしょうか。イエス様が自分を愛するが故に、お生まれになって、十字架を背負ってくださったなんて、不思議だなぁということを思うでしょうか。あるいは、人からにしろ、神様からにしろ、自分が愛されるのは当然だと思うでしょうか。

 今日は、説教の後の賛美に、「驚くばかりの」を選ばせていただきました。「アメイジング・グレイス」です。そして、その一番の歌詞を見ると、「驚くばかりの恵みなりき この身の汚れを知れる我に」となっています。

 「驚くばかりの恵みなりき この身の汚れを知れる我に」というのは、どういうことでしょうか。それは、「神様の恵みを思うと、驚くことしかできない」ということではないでしょうか。そして、それは、自分の汚れを知っているからだということです。自分の汚れを知らされる時、同時に、その汚れた自分を神様が一方的に愛してくださっている恵みに気づかされる時、私たちは驚くことしかできないということです。こんな汚れた自分を神様が愛してくださっているのは、驚くばかりだということです。驚くことしかできない、あり得ない、理解することができない、不思議でしかないということです。そして、神様は、そんな不思議なことを、私たち一人一人のためにしてくださる方だということです。救い主イエス・キリストの誕生を記念するクリスマスには、その神様の不思議な御業が明らかにされているということです。

 クリスマスを祝う、それは、ただ単に、楽しい時を過ごすことではありません。そうではなくて、それは、御子イエス・キリストを送り遣わしてくださった神様の愛を覚えて喜ぶことです。神様を拒んだり無視したりして生きる罪人の私たちを愛して、私たちと共に生きるために、この世界にお生まれになってくださったイエス様を喜ぶことです。そして、そのイエス様と共に生きる歩みをスタートさせることです。

 クリスマスをただ楽しむだけの時としているなら、私たちはなおも暗闇の中にいるということになるのかも知れません。自分の中にある暗闇の部分に気づかされることもない、自分の汚れに気づかされることもない、見て見ぬふりをすることができると言ってもいいのかも知れません。

 しかし、闇を照らすためにお生まれになってくださったイエス様の前に立たせていただく時、私たちは自分の闇に気づかされます。自分の汚れに気づかされます。しかし、同じその光の中で、その汚れた自分がそのままに受け入れられている恵みを教えられます。

 私たちはどうでしょうか。

 クリスマスを前にした深い闇の中で、光を待ち望みたいと思います。自分もまた、光に照らされる必要がある者であることを覚えたいと思います。神様を必要とする者であることを覚えたいと思います。そして、その私たちを愛して、光の中へと招いていてくださる神様の不思議な恵みを、私たちと共に生きることを願っていてくださる神様の不思議な恵みを受け取りながら喜ぶ者でありたいと思います。

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