礼拝説教から 2021年12月5日

聖書箇所:士師記11章29-40節

説教題:もしあなたが?

 主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ギルアデのミツパを経て、そしてギルアデのミツパからアンモン人のところへ進んで行った。エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアンモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る者を主のものといたします。私はその人を全焼のささげ物として献げます。(29-31)

 エフタがミツパの自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子で、エフタには彼女のほかに、息子も娘もなかった。エフタは彼女を見るや、自分の衣を引き裂いて言った。「ああ、私の娘よ、おまえは本当に私を打ちのめしてしまった。おまえは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」すると、娘は父に言った。「お父様、あなたは主に対して口を開かれたのです。口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アンモン人に復讐なさったのですから。」(34-36)

 

0.

 アドベントの第二週に入りました。昨年まで、アドベントの期間の礼拝では、クリスマスに関わる箇所を開いてきましたが、今年は、普段の礼拝で開いている箇所をそのまま見ています。

 10月の下旬から旧約聖書の士師記を開いています。先週は、エフタという士師にスポットが当てられる物語の背景となる場面を見ました。士師記の中で繰り返されることですが、イスラエルの民が、神様の目に悪であることを行って、周りの民族から苦しめられて、神様に助けを求めたということです。今日の本文は、エフタを通して、イスラエルの民が救われた場面です。

 

1.

 エフタは、遊女と呼ばれる女性との間に生まれた子どもでした。エフタは、勇士でしたが、他の兄弟たちから追い出されてしまいました。そして、兄弟たちから追い出されたエフタの所には、ならず者が集まりました。イスラエルの社会に対して不平や不満を抱く人々が、エフタと一緒に行動をするようになったということです。もしかしたら、盗賊のようなこともしていたかも知れません。

 いずれにしろ、それからしばらくして、アンモン人がイスラエルの民に戦争を仕掛けてきました。アンモン人というのは、アブラハムの甥であるロトの子孫です。イスラエルの民とは、遠い親戚の関係になります。そして、そのアンモン人が戦争を仕掛けてくると、ギルアデの長老たちは、何と、エフタに泣きつきました。自分たちの頭になって、アンモン人と戦ってほしいということです。まさに、困った時の神頼みのように、エフタを頼ったということです。そして、エフタは、そんな長老たちの願いを受け入れて、アンモン人と戦うことになりました。

 エフタの前に見ていたギデオンの場合は、神様からの直接的な招きがありました。神様が、ギデオンに語りかけられて、ギデオンは士師として立てられました。

 それに対して、エフタの場合は、神様からの直接的な招きがありません。エフタは、人間的な事情の中で、勇士であることが人々から認められて、イスラエルの民の救いのために戦ったということです。しかし、それが、単なる人間的な出来事ではなくて、神様の御手の中で行われたことであるのは、「主の霊がエフタの上に下った」という言葉から分かるのだと思います。エフタは、神様ご自身に選ばれて、士師として、アンモン人との戦いに向かったということです。神様の選びというのは、実に様々であることが分かります。

 

2.

 エフタは神様に誓願を立てました。そして、その内容は、「もし、神様がアンモン人との戦いに勝利をさせてくださるならば、自分の家に帰って来た時に、出迎える人を神様への供え物としてささげる」ということです。エフタは、神様が勝利を与えてくださるなら、家で最初に出迎えてくれた人の命をささげることを誓ったということです。そして、このエフタの誓願が、後に悲劇をもたらすことになりました。

 エフタは、アンモン人との戦いに勝利をすることができました。そして、無事に家に帰って来ることができました。エフタは喜びに満ちあふれていたでしょうか。あるいは、ホッとしていたでしょうか。

 しかし、エフタが無事に家に帰って来た所で、問題が起きました。なぜなら、家の中から出て来て、自分を出迎えてくれたのは、自分の一人娘だったからです。

 エフタは、帰って来た自分を出迎えてくれた人を神様にささげると誓っていました。エフタは、誓った時に、いったい誰が出迎えてくれることを想像していたのでしょうか。家の奴隷が出迎えてくれるとでも思っていたのでしょうか。あるいは、誰も出迎えることなく、自分で家の戸を開けて中に入ることになるとでも思っていたのでしょうか。正確なことは分かりませんが、出迎えてくれたのは、自分の一人娘でした。しかも、「タンバリンを鳴らし、踊りながら」と表現されています。娘は自分の父親であるエフタがアンモン人との戦いに勝利したことを聞いていたのでしょうか。娘はエフタの帰りを喜びながら待ちかまえていたようです。そして、確かに、エフタの帰りは、喜びの場面となるはずでした。しかし、その喜びの場面が、悲劇の場面に変わったということです。

 どうでしょうか。現在の日本に生きる私たちからすれば、戦いに勝利をして帰って来た自分を、最初に出迎えてくれた人を神様に犠牲としてささげるというのは、決して理解することができないのだと思います。私は、「エフタさん、いきなり何を言い出すんですか」と言いたくなりました。もちろん、犠牲になったのが、一人娘ではなくて、奴隷だったらかまわないということでもないでしょう。いきなり人の命を犠牲にすることを誓う必然性は、何もないわけです。そんな権利もありません。

 エフタはどうして自分を出迎えてくれた人を神様にささげるなどという誓願を立てたのでしょうか。そもそも、誓願を立てるというのは、どういうことなのでしょうか。

 日本語の「誓願」という言葉は、「誓う」と「願う」の二文字から成っています。そうであれば、誓願というのは、単なる誓いでも、単なる願いでもないということを想像することができます。

 聖書辞典で「誓願」という項目を見ると、最初の所に、「神が自分の願いを聞き届けてくださった時にある事をする、あるいはあるささげ物をすると約束すること」と説明されていました。何か願い事があって、神様に祈り求める時に、「神様が願い事をかなえてくださるなら、これこれのことをします、これこれをささげます」と誓って約束するということです。ただ単に、自分の願いを神様に聞いてもらうのではありません。神様が自分の願いを聞いてくださった場合には、自分の方でも、「これこれのことをする、ささげる」ことを、先に約束しておくということです。誓いと願いがくっついているということです。

 ちなみに、旧約聖書を見ていると、いくつか、「誓願」について定められた箇所があります。また、実際に、誓願を立てた人のことも記されています。よく知られた所では、サムエルの母親のハンナです。夫から愛されながらも、妊娠をすることができなくて悩み苦しんでいたハンナは、祈りの中で、子どもを授かったら、その子どもを神様にささげるという誓願を立てました。そして、その祈りが聞かれて、子どもを授かると、ハンナは、誓いの通りに、子どもを神様にささげました。サムエルというハンナの子どもは、神殿で仕える祭司として、神様に大きく用いられることになりました。

 ハンナの場合のように、旧約聖書の中には、誓願が肯定的に描かれているような場面もあります。しかし、一方で、注意しておかなくてはならないのは、誓願そのものが、神様の命令ではないということです。誓願というのは、あくまでも、人々の自発的な行いであって、神様が命じられたことではありませんでした。イスラエルの民は、神様から命じられてではなくて、自分の意志で誓願を立てたということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。そこには人間的な危険が潜んでいるということです。それは、神様と取り引きをするということです。

 繰り返しになりますが、誓願を立てるというのは、神様が自分の願いを聞き届けてくださった時に、何かをしたりささげたりすると約束することです。そして、それは、まかり間違えば、「これこれのことをしますから、どうぞ願いをかなえてください」ということにもなります。人というのは、「これこれのことをしますから、どうぞ願いをかなえてください」という意味で、誓願を立ててしまうことがあるということです。そして、それは、神様と取り引きをすることに他なりません。一方的に神様に助けてもらおうとするのではなくて、自分の方でも何らかの犠牲を払って、神様の助けを引き出すということです。「もう悪いことはしません」、「タバコもお酒も止めます」、「これからは毎日お母さんのお手伝いをします」、様々な誓いを立てて、「助けてください」ということを願ったりするということです。

 エフタは、確かに勇士でした。以前のギデオンとは違って、エフタは勇敢で力がありました。自分を見下して捨てた長老たちからも、いざという時には、頼られるような勇士でした。

 しかし、そんなエフタだったからこそということになるでしょうか。エフタは、アンモン人と戦うことの意味を、誰よりもよく知っていたと言えるのかも知れません。アンモン人と戦って勝つことの難しさを、神様が助けてくださらなければ、決して勝つことができないことを、誰よりもよく分かっていたのではないでしょうか。アンモン人との戦いに勝利をして、無事に家に帰ることができるとすれば、それは、神様が助けてくださってこそであることを、エフタは誰よりもよく分かっていたということです。あるいは、無事でいることだけではなくて、自分を捨てた人々からも認められたいという思いも持っていたと言えるのかも知れません。そして、いずれにしろ、そんなエフタだからこそ、何よりも必要としたのは、神様が確実に助けてくださることだったのではないでしょうか。神様が確実に勝利を与えてくださることだったのではないでしょうか。そして、その確実な勝利を手にするために、神様の確実な助けを手にするために、エフタは誓願を立てたということです。神様が求めてもおられない誓願を立てて、神様が求めてもおられない人の命を差し出すと誓って、神様の助けを引き出そうとしたということです。しかし、その誓願の故に、エフタは勝利の喜びに満たされたのではなくて、悲しみのどん底に叩き落されたということです。

 エフタに必要だったのは、何でしょうか。それは、無茶な誓願を立てることではありませんでした。無茶な誓願を立てて、その熱心さを神様から認めてもらって、神様の助けを引き出そうとすることではありませんでした。そうではなくて、ただ神様を信頼することに他なりませんでした。神様が、ご自分の民を愛していてくださり、共にいてくださり、支えていてくださることを知って、その神様を信頼することでした。エフタが無茶な誓願を立てることと関係なく、神様の霊はエフタの上に下っていたわけです。神様は、ご自分の一方的な恵みによって、エフタを選ばれていたのであり、エフタと共におられたわけです。エフタに必要なのは、その神様の恵みを受け取って、共にいてくださる神様を信頼して、戦いに臨めば良かったということです。

 士師記の時代、イスラエルの民は、神様の一方的な恵みによる救いを、すでに何度も経験していました。困った時の神頼みのようにしか神様を求めない自分たちを、神様が一方的に愛していてくださり、支えていてくださることを、何度も経験していました。そして、それは、エフタも同じだったでしょう。しかし、エフタは、いざという時には、神様が恵み深い方であることを信じることができなくて、自分の無茶な誓いによって、神様の助けを引き出そうとしてしまったということです。神様が恵み深い方であることを知りながらも、神様と取り引きをしてしまったということです。

 神様は、どのような意味においても、私たちと取り引きをなさる方ではありません。私たちが熱心に何かをすれば、多くをささげれば、より多くの恵みを与えてくださる、反対に、いいかげんなことをしていれば、ちょっとしか与えてくださらないような方ではありません。そうではなくて、神様は、私たちを一方的に愛していてくださるということです。何ができたか、できなかったかということとかかわりなく、私たちと愛していてくださるのであり、共にいてくださるということです。だからこそ、神様は恵み深い方であり、真の人となって、私たちの世界に生まれてくださったということです。罪人の私たちが赦されて新しく生きるために、十字架への道を歩んでくださったということです。

 私たちはどうでしょうか。神様の恵みの中に生かされているでしょうか。いざという時には、エフタのように、自分の何かによって、神様に認めてもらって、神様の助けを引き出そうとしているようなことはないでしょうか。

 今日からアドベントの第二週ですが、アドベントの中で、イエス様が私たちの世界にお生まれになってくださった恵みを、改めて覚えたいと思います。私たちが、どれだけ立派に生きているかではなくて、どれだけ熱心であるかではなくて、ただ一方的に私たちを愛するが故に、真の神様が真の人となって、私たちの世界に生まれてくださった恵みを覚えたいと思います。私たちの罪が赦されて、私たちが新しく生きるために、十字架に至る生涯を歩んでくださった恵みを覚えたいと思います。そして、その恵みを喜び、恵みによって生かされる者でありたいと思います。

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