礼拝説教から 2021年11月28日

  • 聖書箇所:士師記10章6-16節
  • 説教題:あなたが良いと思われるように

 イスラエルの子らは再び、主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルやアシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをペリシテ人の手とアンモン人の手に売り渡された。彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、十八年の間、ヨルダンの川向こう、ギルアデにあるアモリ人の地にいたすべてのイスラエル人を虐げた。アンモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったので、イスラエルは大変な苦境に立たされた。

 そのとき、イスラエルの子らは主に叫んだ。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルの神々に仕えたのです。主はイスラエルの子らに言われた。「わたしは、かつてエジプト人、アモリ人、アンモン人、ペリシテ人から、また、シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたを虐げてあなたがたがわたしに叫んだとき、あなたがたを彼らの手から救ったではないか。しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦しみの時には、彼らが救ってくれるだろう。」イスラエルの子らは主に言った。私たちは罪を犯しました。あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください。ただ、どうか今日、私たちを救い出してください。彼らが自分たちのうちから異国の神々を取り去って主に仕えたので、主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた。

 

0.はじめに

 2012年も早いもので、残り一ヶ月となりました。そして、教会独自のカレンダーである教会暦では、今日からアドベントに入ります。

 アドベントというのは、「来る、到来する」という意味の言葉です。神様の御子であるイエス様が私たちの世界に来てくださるということであり、そのイエス様の到来、降誕に向かって進むのが、アドベントの期間です。そして、それは、同時に、天におられるイエス様が、もう一度、私たちの世界に来てくださる日を待ち望むことにもつながります。

 昨年までは、アドベントの期間には、クリスマスと関わりのある聖書箇所を開いてきました。今年は、普段の礼拝で開いている箇所を、続けて見ていきたいと思っています。10月から旧約聖書の士師記を開いていますが、今日は10章を見ていきたいと思います。

 先週まで、3週に渡って、ギデオンの物語を見てきましたが、ギデオンが死んだ後、イスラエルの国は混乱に陥ることになりました。それは、ギデオンの子どもたちの間で、権力争いが起こったからです。ギデオン自身は、「王にはならない」という宣言をしましたが、その子どもたちの世代になると、アビメレクという子どもが、王になることを願って、イスラエルの国を混乱に陥れたということです。そして、その混乱の後、二人の士師の時代を経て、士師記は、エフタという士師にスポットが当てられていきます。今日の本文は、そのエフタが士師として立てられる背景が描かれている箇所と言えるでしょう。

 

1.

 イスラエルの民は、再び主なる神様の目に悪であることを行いました。神様の目に悪であることというのは、具体的には、周りの国々の神々に仕えることです。人の手で造られた偶像に過ぎない神々を頼りとして礼拝することです。そして、それは、イスラエルの民が神様を捨てたことに他ならないということです。

 イスラエルの民が神様の目に悪を行ったことは、神様の怒りを引き起こしました。神様は、イスラエルの民をペリシテ人とアンモン人の手に渡されました。そして、その結果として、十八年もの間に渡って、イスラエルの民は苦しめられることになりました。

 苦しい状況の中で、イスラエルの民は神様に助けを求めて叫びました。困った時の神頼みです。しかし、続くイスラエルの民の言葉を見る時、彼らの叫びは、単純に、困った時の神頼みとして片づけられるものではないと言ってもいいのかも知れません。

 イスラエルの民は、神様に罪を犯したと言っています。そして、その罪というのは、自分たちの神様を捨てて、バアルの神々に仕えたということです。

 どうでしょうか。私たちは、大きな問題を抱える時、苦しみに遭う時、「神様がおられるなら、どうして」ということを思ったりします。「神様に捨てられたんじゃないのか」と思ったりもします。

 しかし、今日の本文の中で、イスラエルの民が告白していることは、何でしょうか。それは、イスラエルの民が神様を捨てたということではないでしょうか。神様がイスラエルの民を捨てたということではありません。イスラエルの民が神様を捨てたということです。そして、神様を捨てることこそが、イスラエルの民の罪であり、私たちの罪だということです。

 神様に対する私たちの罪、それは、神様を捨てるということです。

 神様を捨てるというのは、どういうことでしょうか。

 捨てるというのは、物として扱っているということを意味しています。私たちが何かを捨てる時、それは、その何かを物として扱っているということです。あるいは、物だからこそ、捨てることができると言ってもいいのかも知れません。役に立たなくなったら、必要がなくなったら、関心がなくなったら、私たちは捨てるということをするわけです。そして、それは、物だからこそ認められることと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、実際には、どうでしょうか。私たちは、人と人の関係においても、捨てる、捨てられるということを経験していると言ってもいいのかも知れません。役に立たなくなったら、必要がなくなったら、関心がなくなったら、切り捨てたり、切り捨てられたりすることを、私たちは様々な場面で経験しているのではないでしょうか。そして、それは、人が物のように扱われていることに他なりません。

 神様を捨てる、それは、神様を物のように扱うことです。役に立つと思ったら、大切に扱います。そこにお金をつぎ込みます。そして、満足を得ようとします。それは自分のためです。しかし、役に立たないと分かったら、必要がなくなったら、関心がなくなったら、ほったらかしになります。そして、必要になったら、困った時の神頼みのように、また神様を求めます。あるいは、困った時の神頼みというのは、まさに神様を物のように扱っていることに他ならないと言ってもいいのかも知れません。

 神様は、モーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒の中で、「自分のために偶像を造ってはならない」と命じられました。

 どういうことでしょうか。その大きな意味の一つは、神様が物ではないということではないでしょうか。神様は、捨てたり拾ったりすることのできる物ではないということです。私たちが、自分の欲望を満足させるために、利用することのできる物ではないということです。神様は、人と人のように、私たちとの人格的な関係を望んでおられる方だということです。私たちとの互いに愛し合う関係を望んでおられる方だということです。

 神様の答えはどうでしょうか。それは、要するに、「自分たちの選んだ神々に助けを求めよ」ということです。他の神々を選んだ以上は、その神々に助けてもらえばいいということです。

 どうでしょうか。「神様って、冷たい方だなぁ」と思われるでしょうか。「ちょっと厳しすぎるんじゃないか」と思われるでしょうか。

 私は、神様の対応を見て、「まあ、仕方ないかなぁ」ということを思いました。なぜなら、イスラエルの民が苦しんでいるのは、明らかに自業自得だからです。イスラエルの民は、自分の考えで神様を捨てて、痛い目に遭ったのであり、「痛い目に遭ったから助けてほしい」というのは、都合がよすぎるということです。それは、人と人との関係を考えてみれば、すぐに分かることです。

 イスラエルの民はどうしたでしょうか。イスラエルの民は、改めて、自分たちの罪を告白しています。そして、神様が良いと思われるように、何でも自分たちにしてくださいと言っています。神様が良いと思うようにしてくださってかまわないということです。

 どういうことでしょうか。それは、イスラエルの民が、神様のなさることに、すべてを委ねているということではないでしょうか。イスラエルの民は、神様がどのような対応をされるとしても、その神様の対応をそのままに受け入れようとしているということではないでしょうか。たとえ助けてもらうことができないとしても、文句を言う資格がないことを弁えているということではないでしょうか。神様との関係を軽んじてきた自分たちの罪に対して、一切の弁解をしようとしていないということではないでしょうか。そして、それは、イスラエルの民が死を覚悟しているということです。

 しかし、その一方でということになるでしょうか。イスラエルの民は、改めて、神様に救いを願い求めています。神様に何も文句を言う資格がないことを弁えた上で、改めて、必死に神様に救いを願い求めています。

 どういうことでしょうか。それは、イスラエルの民が、神様の憐れみを知っていたということではないでしょうか。イスラエルの民は、神様が憐れみ深い方であることを知っていたということではないでしょうか。そして、神様との関係に生きることこそが、自分たちの幸いであることを知っていたということではないでしょうか。だからこそ、文句を言う資格がないことを弁える一方で、神様に救いを願い求めることができたということではないでしょうか。

 イスラエルの民は、単なる言葉だけではなくて、自分たちの中にある外国の神々を取り去りました。そして、主なる神様に仕えました。仕えたというのは、礼拝をしたということです。物を扱うようにではなくて、罪人として、神様と向き合って、神様に自分たち自身をささげたということです。そして、何と、神様はそのイスラエルの民を受け入れてくださいました。「イスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた」というのは、神様が、居ても立ってもいられなくなられたということです。「もう見ていられない」と思われたということです。

 イスラエルの民は、何度も神様を捨てました。まるで物ででもあるかのように、神様を何度も捨てました。しかし、神様はそのイスラエルの民を決して捨てられませんでした。何度捨てられても、神様はイスラエルの民を捨てようとはされませんでした。そして、それは、神様がイスラエルの民との関係を大切にされたということです。イスラエルの民を、いつでも捨てることのできる物のように扱われたのではなくて、互いに愛し合う人と人のように、イスラエルの民との関係を大切にされたということです。そして、それは、現在の私たちに対しても、何も変わりがありません。

 士師記に描かれた神様は、真の人となって、小さな赤ちゃんとなって、私たちの世界に来てくださいました。それは、私たちと共に生きるためです。私たちから捨てられても、神様は、私たちを捨てることができないために、私たちの世界に生まれてきてくださいました。神様なしに生きる私たちの苦しみを見ながら、じっとしていることができなくて、私たちの世界に生まれてきてくださいました。それが、クリスマスの出来事です。

 イスラエルの民は、苦しみの中で、神様を捨てた自分たちの罪に気づかされました。そして、その罪に気づかされた時、彼らは、何の弁解もすることができませんでした。「あなたが良いと思われるように何でも私たちにしてください」と言いながら、自分の命を神様に委ねました。そして、神様の深い憐れみによって救われました。

 私たちはどうでしょうか。

 アドベントの期間、イエス様の誕生を記念するクリスマスへと向かいながら、神様が、私たちを、物のようにではなくて、一人の人として、大切にしていてくださることを、改めて覚えたいと思います。本来なら捨てられても文句の言えない罪人の私たちが生かされている恵みを覚えたいと思います。だからこそ、私たちもまた、神様を愛し、神様に自分を委ねて仕える者でありたいと思います。そして、神様の御心に適う者へと変えられていくことを、心から願います。

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