礼拝説教から 2021年11月21日

  • 聖書箇所:士師記8章22-28節
  • 説教題:主が治められる

 イスラエル人はギデオンに言った。「あなたも、あなたの子も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミディアン人の手から救ったのですから。」しかしギデオンは彼らに言った。私はあなたがたを治めません。また、私の息子も治めません。主があなたがたを治められます。ギデオンはまた彼らに言った。「あなたがたに一つお願いしたい。各自の分捕り物の耳輪を私に下さい。」殺された者たちはイシュマエル人で、金の耳輪をつけていた。彼らは「もちろん差し上げます」と答えて、上着を広げ、各自がその分捕り物の耳輪をその中に投げ込んだ。ギデオンが求めた金の耳輪の重さは、金千七百シェケルであった。このほかに、三日月形の飾りや、耳飾りや、ミディアンの王たちの着ていた赤紫の衣、またほかに、彼らのらくだの首に掛けてあった首飾りなどもあった。ギデオンは、それでエポデを一つ作り、彼の町オフラにそれを置いた。イスラエルはみなそれを慕って、そこで淫行を行った。それはギデオンとその一族にとって罠となった。こうしてミディアン人はイスラエル人の前に屈服させられ、二度とその頭を上げなかった。国はギデオンの時代、四十年の間、穏やかであった。

 

0.はじめに

 先々週は、ギデオンが神様によって選ばれた場面、先週は、ミディアン人と戦うイスラエルの兵が神様によって徹底的に減らされた場面を見ました。

 ミディアン人と戦うために集まったイスラエルの兵は、ミディアンの兵よりも圧倒的に少ない数でした。そうであるにもかかわらず、神様は、集まったイスラエルの兵が多すぎると言って、イスラエルの兵を減らされました。それは、イスラエルの民が自分の手で自分を救ったと言いながら、神様に向かって誇らないようにするためでした。そして、その結果として、イスラエルの兵はたったの三百人になりました。ミディアンの兵は十三万五千人でした。桁が三つ違います。イスラエルの兵は、自分たちの力では絶対に勝つことができない数にまで減らされたということです。ギデオンとイスラエルの兵に求められていたのは、自分たちの力に頼ることではなくて、勝利を約束してくださっている神様の言葉を信頼することに他なりませんでした。そして、ギデオンとイスラエルの兵は、その神様の約束の通りに、ミディアン人との戦いに勝利をすることができました。

 今日は、イスラエルの民がミディアン人との戦いに勝利した後の出来事を見ていきたいと思います。

 

1.

 イスラエルの民はギデオンに言いました。それは、自分たちイスラエルの民をギデオンに治めてほしいということです。自分たちイスラエルの民を治めてほしいというのは、自分たちの王になってほしいということです。イスラエルの国の王になってほしいということです。そして、それは、ギデオン一人だけのことではなくて、ギデオンの子どもにも、ギデオンの孫にも、自分たちの王になってほしいということです。イスラエルの民は、ギデオンとその子孫たちが、自分たちの王となって、国を治めてくれることを願ったということです。

 士師記の時代、イスラエルの国には王がいませんでした。士師たちは、王とよく似た役割を果たす部分もありましたが、王ではありませんでした。士師たちは、苦しみの中にあるイスラエルの民が救い出されるために、その時その時に、神様ご自身によって選ばれて用いられた指導者であり、子どもたちが後を継いで、続けて国を治めていくようなことはありませんでした。そして、そのような状況の中で、イスラエルの民は、ギデオンとその子孫が、自分たちの王となることを願ったということです。

 どういうことでしょうか。イスラエルの民は、ギデオンが自分たちの王になることを願う理由として、ギデオンが自分たちをミディアン人の手から救ったからだと説明をしています。自分たちをミディアン人の手から救い出してくだれた英雄であるギデオンこそが、自分たちの王に相応しいということです。

 繰り返しになりますが、イスラエルの民は、ギデオンが自分たちをミディアン人の手から救ったと言っています。

 どうでしょうか。イスラエルの民をミディアン人の手から救い出したのは、誰だったでしょうか。ギデオンだったでしょうか。それは、ギデオンではなくて、神様だったのではないでしょうか。神様ご自身がイスラエルの民をミディアン人の手から救い出してくださったのではないでしょうか。ギデオンは、イスラエルの民の救いのために、神様によって用いられたに過ぎなかったのではないでしょうか。神様ご自身が自分たちを救ってくださったことを知るために、イスラエルの兵は三百人にまで減らされたのではなかったでしょうか。神様ご自身の力によって、わずか三百人のイスラエルの兵は、十三万五千人にもなるミディアンの兵に勝つことができたのではなかったでしょうか。しかし、そうであるにもかかわらず、イスラエルの民は、その神様に目を向けるのではなくて、ギデオンに目を向けたということです。

 どういうことでしょうか。それは、イスラエルの民が、見えない神様ではなくて、見えるギデオンこそを頼りにしたということではないでしょうか。ギデオンとその子孫たちが王として国を治めてくれたなら、自分たちは安心だということです。そして、それは、見えない神様なんて、何の頼りにならないということでもあります。

 ギデオンの答えはどうでしょうか。ギデオンはイスラエルの民を治めないと言いました。自分の息子も納めないと言いました。そして、主なる神様こそがイスラエルの民を治められると言いました。そして、それは、神様ご自身がイスラエルの王だということを意味しています。ギデオンは、自分ではなくて、神様こそが、イスラエルの王であり、イスラエルの民を治められることを宣言したということです。

 私たちは目に見える人を当てにしてしまいます。目に見える人を頼りにしてしまいます。そして、優れた能力を持つ人が頼りになることは確かです。優れた能力を持つ人が指導者になれば安心です。反対に、頼りになる人がいなければ、希望を持つことができなかったりするでしょう。そして、それは、神様の国おいても、教会においても、同じだと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、ギデオンの信仰告白を通して、神様が教えてくださっているのは、どういうことでしょうか。それは、神様ご自身が私たちを治めていてくださるということではないでしょうか。人がたくさんいるとか、頼りになる人がいるというようなことではありません。そうではなくて、神様こそが私たちを支えていてくださるということです。そして、その神様を頼りとして生きることが、私たちの信仰生活です。

 目に見えない神様が、私たちを愛する王として治めていてくださることを見失う時、私たちは人を見ることになります。「どれだけの人がいるか」、「頼りになる人か」、「自分たちの利益になる人か」というような目で、人を見てしまったりします。そして、それは、神様が、その罪を赦して、あるがままに受け入れてくださった一人一人に、改めて、ランク付けをしてしまうことです。

 しかし、目に見えない神様が、私たちを愛する王として治めていてくださることを信じる時、私たちは安心することができます。そして、神様が受け入れていてくださっているままに、互いに受け入れ合うことのできる道が開かれてきます。大切なことは、目に見えない神様こそが、私たちを愛する王であることを信じ受け入れることであり、その神様を頼りとして生きることです。

 

2.

 神様がイスラエルの民を治められると宣言したギデオンは、同時に、一つのお願いをしました。それは、分捕り物の耳輪がほしいということでした。ギデオンは、イスラエルの民に対して、戦いで相手から分捕った耳輪を求めたということです。そして、「ギデオンの願うことなら、喜んで」ということでしょうか。イスラエルの民は、ギデオンが求めた耳輪だけではなくて、三日月形の飾りや、耳飾りや、ミディアンの王たちが着ていた赤紫の衣や、らくだの首に掛けてあった首飾りなども差し出しました。実にたくさんの分捕り物がギデオンの許に集まりました。

 ギデオンは、イスラエルの民が差し出した分捕り物で一つのエポデを作りました。エポデというのは、出エジプト記によると、元々は、神殿で仕える大祭司が身に着けた衣装の一つです。しかし、ギデオンの造ったエポデが、金の耳輪を材料にしていることからすると、それは、衣装であるよりは、像のようなものであったと言えるのかも知れません。もちろん、エポデと呼ばれている以上は、それは、周りの国の人々が信じる神々を象った偶像ということではなかったでしょう。本来のエポデそのものは、聖なる衣装の一つであるわけです。エポデと呼ばれる以上は、自分たちの神様へと目を向けさせるものだったということになるでしょう。あるいは、ギデオンがエポデを造って町に置いたのは、神様が与えてくださった勝利を記念するためだったと言ってもいいのかも知れません。イスラエルの民が、神様によって与えられた勝利を覚えて、神様を信頼し続けていくためだったと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、ギデオンの意図がどこにあったかに関わりなく、結果として起こったことは、何でしょうか。それは、イスラエルの民が、エポデを慕って、そこで淫行を行ったということです。

 淫行というのは、文字通りには淫らな行いであり、結婚した夫婦以外の性的な行いをイメージさせるでしょう。しかし、ここで淫行を行ったと表現されているのは、男女が性的に淫らな行いをしたということではなくて、イスラエルの民がエポデを拝んだということです。イスラエルの民がエポデを偶像として拝んだということです。そして、それは、自分たちの王であり、夫である神様に対して、不倫の罪を犯したということです。

 繰り返しになりますが、ギデオンが造って町に置いたものは、あくまでもエポデと呼ばれるものであり、神様に目を向けさせるためのものということになるでしょう。あるいは、エポデを慕うイスラエルの民からすれば、「何が悪いんだ」ということだったかも知れません。神様を礼拝しているつもりだったと言ってもいいのかも知れません。しかし、神様の目から見れば、エポデを慕うことは、確かに偶像崇拝だということです。

 どういうことでしょうか。それは、イスラエルの民が、目に見えない神様ではなくて、目に見えるエポデによって安心を得ようとしたということではないでしょうか。エポデを慕うイスラエルの民は、目に見えるエポデが、自分たちの願い通りに動いてくれることを、自分たちの願いをかなえてくれることを、期待したということです。イスラエルの民は、自分たちが守られるために、自分たちの願いがかなえられるために、エポデを利用したということです。そして、それは、あくまでも、自分たちが主人であるということです。目に見える偶像を拝むというのは、自分の願いをかなえるためであり、自分こそが神であろうとすることに他ならないということです。そして、イスラエルの民は、ギデオンの造ったエポデを、そのような偶像の一つにしたということです。あるいは、エポデによってイメージされる神様ご自身を、偶像にしてしまったと言ってもいいのかも知れません。

 真の神様は目に見えません。この世界を造り、命懸けで私たちを愛していてくださる神様は、目に見えません。そして、真の神様が目に見えないというのは、私たちの自由にはできないということです。私たちの願い通りには動いてくださらないということです。神様は、私たちの願いをかなえるために、私たち自身の手で造られた偶像とは、はっきりと異なるということです。神様は、私たちの願い期待する所ではなくて、自由にご自分の御心を行われる方だということです。だからこそ、真の神様なのであり、信頼することのできる方だということです。そして、その神様を信頼して、神様に仕えていくことが、私たちの礼拝であり信仰生活です。

 ギデオンを通して、神様から救われたイスラエルの民は、エポデによって、偶像崇拝の罪を犯しました。そして、それは、現在の私たちの姿でもあると言ってもいいのかも知れません。

 私たちはどうでしょうか。私たちは、少なくとも、神社や寺に行って、お参りをしたりはしないかも知れません。星占いをしたりはしないかも知れません。しかし、神様との関係はどうでしょうか。神様が、自分の願いをかなえてもらうだけの存在になっていることはないでしょうか。そして、私たちが主人になって、神様が私たちの僕になっていることはないでしょうか。

 神様は私たちの願い通りには動いてくださいません。しかし、私たちが願う以上のことをしてくださっています。私たちにとって本当に必要なことのために、働いていてくださいます。そして、そのことを、私たちは、イエス様の十字架の死と復活を通して確信することができます。御子イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、私たちは、この世界を造られた神様が、小さな私たちを愛していてくださるのであり、今も生きて、私たちと共にいてくださることを信じることができます。私たちのために、最善を行っていてくださることを信じることができます。

 毎週の礼拝を通して、目に見える何かに注目するのではなくて、目に見えない神様の言葉に耳を傾け続けていきたいと思います。神様の言葉を通して、御子イエス・キリストの十字架の死と復活を見つめたいと思います。そのイエス様の十字架の死と復活を通して、神様から愛されていることを覚えたいと思います。神様が共にいてくださることを覚えたいと思います。その神様と共に生きることこそが、私たちの幸いであることを覚えたいと思います。そして、だからこそ、神様の御心に従って生きる者でありたいと思います。

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