礼拝説教から 2021年11月14日

  • 聖書箇所:士師記7章1-14節
  • 説教題:兵が多すぎる!

 エルバアルすなわちギデオンと、彼とともにいた兵はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミディアン人の陣営は、その北、モレの丘に沿った平地にあった。

 主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。」すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

 主はギデオンに言われた。「兵はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをより分けよう。わたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきである』と言うなら、その者はあなたと一緒に行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたと一緒に行くべきではない』と言うなら、だれも行ってはならない。」そこでギデオンは兵を連れて、水辺に下って行った。主はギデオンに言われた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にせよ。また、飲むために膝をつく者もすべてそうせよ。」すると、手で口に水を運んですすった者の数が三百人であった。残りの兵はみな、膝をついて水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手で水をすすった三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡す。残りの兵はみな、それぞれ自分のところに帰らせよ。」そこで三百人の者は、兵の食糧と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引きとどめた。ミディアン人の陣営は、彼から見て下の方の平地にあった。

 その夜、主はギデオンに言われた。「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。もし、あなたが下って行くことを恐れるなら、あなたの従者プラと一緒に陣営に下って行き、彼らが何を言っているかを聞け。その後、あなたの手は強くなって、陣営に攻め下ることができる。」ギデオンと従者プラは、陣営の中の隊列の端まで下って行った。ミディアン人やアマレク人、またすべての東方の民が、いなごのように大勢、平地に伏していた。彼らのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。ギデオンがそこに来ると、ちょうど一人の者が仲間に夢の話をしていた。「聞いてくれ。私は夢を見た。見ると、大麦のパンの塊が一つ、ミディアン人の陣営に転がって来て、天幕に至り、それを打ったので、それは崩れ落ちて、ひっくり返った。こうして天幕は倒れてしまった。」すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣でなくて何であろうか。神が彼の手に、ミディアン人と全陣営を渡されたのだ。」

 

0.

 先週はギデオンという士師を見ました。イスラエルの民が、自分たちの罪のために、ミディアン人によって苦しめられていた時に、立てられた士師です。

 神様の使いがギデオンの前に現れた時、ギデオンはミディアン人から隠れていました。ギデオンは、決して勇敢だったわけでも、特別な力があったわけでも、信仰が深かったわけでもありません。むしろ、臆病で疑い深かったと言った方がいいのかも知れません。しかし、神様は、そのミディアンのことを、「力ある勇士」と呼ばれました。それは、神様ご自身がギデオンと共にいてくださったからです。ギデオンは、神様が共にいてくださるからこそ、力ある勇士でした。

 先週に引き続いて、今週もギデオンの物語を見ていきたいと思います。ミディアン人との戦いに集まったイスラエルの兵を、神様が選び分けられた場面です。

 

1.

 ミディアン人は、他の民族の人々と連合を組んで、ヨルダン川を渡って、陣を敷きました。それに対して、ギデオンも、角笛を吹き鳴らすと、イスラエルの民が集まって来て、陣を敷きました。いよいよ戦いの始まりです。

 そして、その戦いを前にしたギデオンに神様が言われました。それは、要するに、「兵が多すぎる」ということです。「兵の数を減らせ」ということです。

 戦いにおいて、大切なことは何でしょうか。その一つは、兵の数ではないでしょうか。兵の数で相手を上回るということです。戦いにおいて、兵の数は少ないよりも、多い方が有利だということです。しかし、神様がギデオンに言われたのは、兵が多すぎるということです。多すぎる兵を減らさなければならないということです。

 ギデオンと一緒にいた兵はそんなに多かったのでしょうか。「だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ」という呼びかけに応じて、帰って行った兵は二万二千人と記されています。そして、一万人が残ったと記されています。足し算をすると、三万二千人の兵がギデオンと一緒にいたことになります。そして、その三万二千人が多いか少ないかは、相手の兵の数によって、変わってくるでしょう。今日の本文には記されていませんが、8章を見ると、ミディアンの兵は十三万五千人ほどであったことが分かります。

 ミディアンの兵は十三万五千人でした。それに対して、イスラエルの兵は三万二千人でした。イスラエルの兵が十三万五千人で、ミディアンの兵が三万二千人だったのではありません。ミディアンの兵が十三万五千人で、イスラエルの兵が三万二千人だったということです。イスラエルの兵の方がミディアンの兵よりも少ないということです。少ないどころではなくて、圧倒的に少ないということです。しかし、そうであるにもかかわらず、神様は、イスラエルの兵が多すぎると言われたということです。

 どういうことでしょうか。

 ギデオンに語られた神様の言葉によれば、それは、イスラエルの民が「自分の手で自分を救った」と言って、神様に向かって誇るといけないからだということです。イスラエルの民が、「自分の手で自分の手を救った」という誤解をして、神様に向かって誇らないために、神様は、兵の数が多すぎると言われたということです。そして、それは、現在の私たちに対する語りかけでもあるでしょう。

 信仰生活は戦いです。そして、戦いである以上は、力が必要です。力は、強ければ強いほど、大きければ大きいほど、良いでしょう。力があってこそ、私たちは戦いに勝利することができるわけです。

 しかし、神様の戦いは異なります。神様の戦いにおいては、私たちの力はかえって邪魔になるということです。なぜなら、余計な力があれば、その力に頼ってしまうからであり、その力を誇ってしまうからです。そして、実際に、私たちは、何らかの力を持っているのであり、その力によって、神様を誇るのではなくて、神様に向かって、自分を誇ってしまいやすい者だということです。あるいは、今日の本文によるならば、その余計な力を持った私たちに対して、神様がなさることは、私たちの余計な力を削ぎ落すことと言ってもいいのかも知れません。

 次の4節を見ると、神様はさらに驚くべきことを言われていることが分かります。それは、「まだ兵が多すぎる」ということです。

 イスラエルの兵は、すでに三万二千人から一万人に減っていました。十三万五千人のミディアン軍に対して、イスラエルは一万人の兵で戦わなければなりませんでした。そうであるにもかかわらず、神様は、「まだ兵が多すぎる」と言われたということです。

 どうでしょうか。確かに、十三万五千人に対して、三万二千人、一万人というのは、圧倒的に少ないです。しかし、もしかしたら、絶対に勝ち目がないということでもないのかも知れません。実際に、少ない兵の数で、大軍を打ち破るようなことは、歴史を振り返れば、いくらでも見つけることができるでしょう。「素晴らしい作戦を練って、その作戦の通りに戦うことができるならば、あるいは、勝つことができるかも知れない」、十三万五千人対三万二千人や、十三万五千人対一万人というのは、それぐらいの兵力差であると言ってもいいのかも知れません。そして、そのような不利な状況を乗り越えて勝つことができるとすれば、それは自分たちの力を誇ることにつながると言えるのかも知れません。神様の力ではなくて、自分たちの力を誇ることになるということです。

 神様は、イスラエルの兵の数を減らすために、ギデオンに具体的な方法を指示されました。それは、とても奇妙な方法です。それは、水辺で、「犬がなめるように、舌で水をなめる者を別にする」、また、「飲むために膝をつく者を別にする」ということです。水の飲み方で区別がされたということです。

 結果はどうだったでしょうか。三百人の兵が「手で口に水を運んですすった」ようです。残りの兵は、「膝をついて水を飲んだ」ようです。そして、神様は「手で水をすすった三百人」を、ミディアン人と戦う兵として選ばれました。残りの九千七百人は家に帰されることになりました。

 選ばれた三百人と選ばれなかった九千七百人とは、どのような違いがあったのでしょうか。

 以前から説明されてきたこととしては、「膝をついて、はいつくばって、水を飲むのは、あまりにも無防備であり、戦いに臨む姿勢がなっていない」というようなことになるでしょうか。それに対して、三百人の兵は、いつ敵が襲ってきても対応できるように、油断をしないで、手で水をすくって飲んだということです。戦いに対する備えがしっかりとできているということです。そして、そうだとすると、三百人は、選ばれるべくして選ばれたということになるでしょう。

 しかし、この5-7節の部分というのは、実際には、とても理解の難しい文章だと言われています。6節と7節で「すすった」と訳されている部分は、5節で「なめる」と訳されている部分と、ヘブル語では同じ言葉が使われています。また、7節の「手で水をすすった」という部分も、ヘブル語では「手で」という言葉がありません。そうすると、7節の「手で水をすすった三百人」というのは、「水をなめた三百人」ということになります。

 選ばれた三百人は、戦いに対する備えがしっかりとできていたからなのでしょうか。あるいは、何か他の理由があったのでしょうか。正確な理由は分かりません。しかし、はっきりしていることは、兵の数が三百人にまで減らされたということです。三万二千人や一万人のような、中途半端な人数ではありません。たったの三百人にまで、徹底的に減らされたということです。十三万五千人のミディアン軍に打ち勝つことなど、絶対にできない人数にまで減らされたということです。イスラエルの兵は、ミディアン軍に勝つ力を完全に失ったということです。勝つことができるとすれば、それは、ただひたすら、神様の力と認めざるを得ない状況に追い込まれたということです。逆に言うと、ギデオンとイスラエルの兵は、共にいると約束してくださっている神様を、ただ、信頼することしかできない状況に追い込まれていったということです。ギデオンに求められていたのは、自分たちの力を大きくすることではなくて、力のない者として、とにかく神様を信頼することに他ならなかったということです。

 神様はギデオンに語りかけてくださいました。それは、ミディアンの陣営をギデオンの手に渡した、ミディアンの陣営に攻め下れということです。しかし、恐れがあるなら、プラという従者と一緒に、ミディアンの陣営に行って、彼らの話していることを聞いてみなさいということでした。

 ギデオンはプラという従者と一緒にミディアンの兵たちが話していることを聞きました。そして、それは、要するに、神様がミディアン人とその陣営をギデオンの手に渡されたということであり、ミディアンの陣営が倒れてしまうということです。ギデオンだけではなくて、ミディアンの兵たちも、神様が、ミディアンの陣営をギデオンの手に渡されたことを、神様から語りかけられていたということです。そして、ギデオンは、その神様の語りかけを聞いて、神様の勝利を確信して、戦いに臨むことができたということです。

 繰り返しになりますが、信仰生活は最後まで戦いです。そして、その信仰生活において、大切なことは、力を蓄えることではありません。そうではなくて、自分の無力を知ることです。自分には、与えられた救いを守る力も、完成させる力もないことを認め続けることです。しかし、そんな自分と共にいてくださる神様を信頼することです。そして、勝利を約束していてくださる神様の言葉に、静かに耳を傾け続けながら、神様ご自身の戦いに用いられていくことです。

 私たちはどうでしょうか。余計な力を持っていることはないでしょうか。自分の固い決意や努力によって、信仰生活の実を結ぼうとしていることはないでしょうか。

 ギデオンに対して、まだ兵が多すぎると語られた神様は、私たちにも同じように語っていてくださいます。

 イエス様の十字架の前で、自分が、罪の前で完全に無力な者であったことを覚えたいと思います。救われている今も、同じように、罪に対して無力な者であることを覚えたいと思います。しかし、神様が、その自分を愛して救い出してくださったのであり、最後まで導いていてくださることを確信したいと思います。そして、勝利を約束してくださっている神様の言葉を静かに聞き続けながら、余計な力を捨てることができればと思います。力がある者としてではなくて、無力な者として、神様に用いられることができればと思います。

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