礼拝説教から 2021年11月7日

  • 聖書箇所:士師記6章7-18節
  • 説教題:主があなたとともにおられる

 イスラエルの子らがミディアン人のゆえに主に叫び求めたとき、主は一人の預言者をイスラエルの子らに遣わされた。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。

 わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、奴隷の家から導き出し、エジプト人の手と、圧迫するすべての者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その地をあなたがたに与えた。わたしはあなたがたに言った。『わたしが主、あなたがたの神である。あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々を恐れてはならない』と。ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」

 さて主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていた。ミディアン人から隠れるためであった。主の使いが彼に現れて言った。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」ギデオンは御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちとともにおられるなら、なぜこれらすべてのことが、私たちに起こったのですか。『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。今、主は私たちを捨てて、ミディアン人の手に渡されたのです。」すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で、あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。わたしがあなたを遣わすのではないか。」ギデオンは言った。「ああ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。ご存じのように、私の氏族はマナセの中で最も弱く、そして私は父の家で一番若いのです。」主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ。」すると、ギデオンは言った。「もし私がみこころにかなうのでしたら、私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。どうか、私が戻って来るまでここを離れないでください。贈り物を持って来て、御前に供えますので。」主は、「あなたが戻って来るまで、ここにいよう」と言われた。

 

0.はじめに

 先々週から旧約聖書の士師記を開いています。先週は、士師記4章から、デボラという女性の士師を見ました。今日の本文である6章からは、ギデオンという士師が登場します。

 ギデオンの物語は、彼の子どもたちの時代までを含めると、6章から9章までになります。とても長い物語ですが、今日はその中で、ギデオンが神様から士師として立てられることになった場面を見てみたいと思います。

1.

 先週のデボラやバラクが用いられて、神様から救い出された後、イスラエルの民は、四十年の間、穏やかに暮らすことができました。しかし、イスラエルの民は、またもや、神様の目に悪であることを行いました。そして、今度は、ミディアン人と呼ばれる人々によって、苦しめられることになりました。

 ミディアン人というのは、イスラエルの民の遠い親戚に当たります。イスラエルの先祖であるアブラハムは、妻であるサラが死んだ後、新しく妻を迎えますが、その時に生まれた子どもの一人がミディアンです。ミディアン人というのは、そのミディアンから始まった民族です。ちなみに、モーセの妻もミディアン人になります。しかし、士師記の時代には、ミディアン人とイスラエルの民は、関係が良くなかったようです。親戚との関係というのは、難しいものですね。

 四十年の平和の後、イスラエルの民は、ミディアン人によって、国を荒らされることになりました。イスラエルの民が種を蒔いても、収穫はミディアン人に奪われて、さらには、羊や牛やロバのような家畜も奪われていったということです。

 神様は、イスラエルの民の叫び声を聞くと、一人の預言者を遣わされました。預言者というのは、神様の言葉を預かって語る人のことです。そして、その預言者を通して、神様は言われました。それは、簡単にまとめるなら、イスラエルの民に対する神様の愛と、その神様に対するイスラエルの民の裏切りということになるでしょうか。神様は、イスラエルの民をエジプトから救い出し、彼らの神となって、カナンの地を彼らに与えられました。そして、その時に、イスラエルの民に求められたのは、カナンの地に住む人々の神々を畏れ敬って拝むのではなくて、神様だけを礼拝することでした。神様は、イスラエルの民と共に生きることを願われたということです。しかし、イスラエルの民は、その神様の言葉に背いて、神様ではなくて、偶像に過ぎない他の神々を拝んだということです。そして、神様は、そのイスラエルの罪を、決して見逃したりはなさらなかったということです。神様は、イスラエルの民の罪について、見て見ぬふりをするような方ではないということです。あるいは、イスラエルの民が、神様に助けを求めながら、見つめなければならなかったのは、その自分たちの罪だったと言えるでしょう。

 神様は、イスラエルの民に、自分たちの罪を示されました。しかし、同時に、その罪の故に苦しむ彼らの叫びに答えて、救いの手を差し伸べてくださっています。

 主の使い、神様の使いがギデオンの前に姿を現されました。そして、ギデオンに呼びかけられました。「力ある勇士よ、主があなたとともにおられる。」神様は、ギデオンに「力ある勇士」と呼びかけられたということです。

 ちなみに、神様の使いがギデオンに前に姿を現された時、ギデオンは、ぶどうの踏み場で小麦を打っていました。そして、それは、ミディアン人から隠れるためであったと説明されています。ギデオンが、ぶどうの踏み場で小麦を打っていたのは、ミディアン人から隠れるために他ならなかったということです。ギデオンは、ミディアン人から隠れていたということです。そして、それは、ギデオンが普通の人に過ぎなかったということを示しています。ギデオンは、自分たちの国を荒らすミディアン人に、堂々と立ち向かっていたのではなくて、他の人々と同じように、隠れていたということです。しかし、神様はそのギデオンを士師として選ばれたということであり、しかも、ギデオンのことを「力ある勇士」とまで呼ばれたということです。

 どうしてでしょうか。ギデオンには、特別な力や勇気が隠されていたということでしょうか。そうではなくて、それは、神様が、ギデオンと共にいてくださるからということではないでしょうか。ギデオンは、何か特別な力や勇気があったわけではないにもかかわらず、むしろ、とても臆病だったにもかかわらず、神様が共にいてくださるからこそ、「力ある勇士」と呼ばれたということです。

 「力ある勇士」と呼ばれたら、どうでしょうか。うれしいでしょうか。「やっと分かってくれる人が出てきたか」と思うでしょうか。「いっちょ、やったろやないか」と思うでしょうか。あるいは、「力ある勇士って、そんなこと言われてもなぁ」と思いながら、逆に困ってしまうでしょうか。

 ギデオンは納得ができなかったのでしょうか。神様が共にいてくださることについて、問い返しています。それは、神様が共にいてくださるなら、自分たちがミディアン人の手に渡されて苦しむこともなかったのではないかということです。さらには、神様が自分たちを捨ててしまわれたのではないかということです。

 どういうことでしょうか。それは、ギデオンが、神様が共にいてくださることを実感していなかったということではないでしょうか。ギデオンは、自分たちの置かれている現実を見て、とても神様が共にいてくださることを実感することができなかったということです。そして、それは、ギデオンだけのことではなくて、他のすべてのイスラエルの民も同じだったと言えるでしょう。

 私たちはどうでしょうか。私たちは、神様が共にいてくださることを、実感しているでしょうか。あるいは、どのような時に、実感することができるでしょうか。上手くいっている時でしょうか。喜びや感謝に満ちあふれている時でしょうか。逆に、状況が悪くなれば、喜びや感謝がなくなれば、神様が共にいてくださることを、実感することができなくなるでしょうか。

 納得のできないギデオンに対して、神様は、とてもシンプルに命令をされました。ご自分が共にいることを詳しく説明されたのではありません。そうではなくて、とてもシンプルに、「行って、イスラエルの民を救うのだ」と命令をされました。「わたしがあなたを遣わすのではないか」と励まされました。そして、なおも信じることのできないギデオンに対して、改めて、「わたしはあなたとともにいる」と語られました。

 神様が共にいてくださる、それは、私たちの感情に左右されることではありません。私たちの置かれている状況に左右されることではありません。私たちの置かれている状況や私たちの感情と関係なく、神様は私たちと共にいてくださるということです。誰よりも、神様ご自身が、そのことを何度も語っていてくださるということです。そして、その神様の言葉に答えて従うのが、私たちの信仰です。私たちは、置かれている状況によってではなくて、自分の感情によってではなくて、神様ご自身の言葉によって、神様がいつも共にいてくださることを信じて、神様に従っていくのだということです。

 ギデオンは、それでも、納得をすることができなかったということでしょうか。次にしるしを求めました。しるしというのは、簡単に言えば、証拠です。自分に語ってくださっているのが、神様ご自身である証拠を示してくださいということです。目に見える証拠を示してくださいということです。

 新約聖書に目を向けると、イエス様は、しるしを求めるユダヤ人たちを非難されました。目に見える証拠を求めるのは、奇跡によって確信を得ようとすることは、信仰的な態度ではないということです。なぜなら、信仰というのは、目に見えないものに目を向けることだからです。

 しかし、そうであるにもかかわらずと言えるでしょうか。神様は、目に見えるしるしを求めるギデオンに対して、「不信仰な奴め」と言われたのではありませんでした。ギデオンを叱り付けて、退けてしまわれたのではありませんでした。今日の本文には含みませんでしたが、神様は、ギデオンの要求を受け入れて、何度も何度も確かなしるしを示してくださいました。神様が共にいてくださる証拠を、何度も何度も示してくださいました。神様は、ギデオンの弱さ、臆病さ、不信仰を知り尽くした上で、ギデオンを選ばれたのであり、用いようとしておられるということです。そして、それは、現在の私たちに対しても、まったく同じだということが言えるでしょう。

 私たちはどうでしょうか。力があるでしょうか。勇気があるでしょうか。信仰があるでしょうか。自分自身を振り返る時、自分には神様の働きを成し遂げる力がある、勇気がある、信仰があると言える人は、そんなに多くないのだと思います。あるいは、一人もいないと言った方がいいのかも知れません。

 しかし、神様は、その私たち一人一人に「力ある勇士よ」と呼びかけていてくださるということです。十分な力も勇気も信仰もない私たち一人一人に、「力ある勇士よ」と呼びかけていてくださるということです。そして、それは、神様が私たちと共にいてくださるからだということです。私たちは、ギデオンと同じように、共にいてくださる神様に支えられながら、「力ある勇士」になるということです。大切なことは、その共にいてくださる神様の言葉を信じて、神様に従うことです。

 ギデオンは、神様が共にいてくださるしるしを求めました。確かな証拠を求めました。奇跡によって、神様が共にいてくださることを確信しようとしました。

 しかし、残念ながらと言ってもいいでしょうか。現在の私たちには、ギデオンに与えられたようなしるしは与えられません。もちろん、与えられない場合もないことはないでしょう。しかし、絶対に必要なものということではありません。あるいは、与えられないというよりは、必要ないと言った方がいいのかも知れません。

 どうしてでしょうか。なぜなら、私たちには、どのような奇跡にも勝る確かなしるしが、すでに与えられているからではないでしょうか。そして、それは、イエス様の十字架の死と復活というしるしです。私たちは、神様の言葉を聞きながら、イエス様の十字架の死と復活の出来事を見つめることによって、神様が共にいてくださることを信じることができるということです。奇跡的な体験があろうとなかろうと、状況や感情がどうであろうと、私たちは、イエス様の十字架の死と復活を見つめながら、神様が共にいてくださることを信じていくのだということです。

 私たちはどのような状況の中にあるでしょうか。厳しい試練の中にあるでしょうか。誘惑の中に捕らえられているでしょうか。

 ギデオンに対して、「力ある勇士よ」と呼びかけられた神様は、私たち一人一人にも同じように呼びかけていてくださいます。そして、私たちと共にいてくださることを約束してくださっています。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の十字架の死と復活を見上げながら、神様が共にいてくださることを覚えて感謝したいと思います。共にいてくださる神様によって、力づけられて、励まされて、神様と共に歩んでいきたいと思います。そして、その歩みの中で、神様を喜んで、また、信仰者として整えられていきたいと思います。

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