礼拝説教から 2021年10月31日

  • 聖書箇所:士師記4章1-10節
  • 説教題:神様の戦い

 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを重ねて行った。エフデは死んでいた。主は、ハツォルを治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡された。ヤビンの軍の長はシセラで、ハロシェテ・ハ・ゴイムに住んでいた。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。ヤビンには鉄の戦車が九百台あり、そのうえ二十年の間、イスラエルの子らをひどく圧迫したからである。

 ラピドテの妻で女預言者のデボラが、そのころイスラエルをさばいていた。彼女は、エフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのなつめ椰子の木の下に座し、イスラエルの子らは、さばきを求めて彼女のところに上って来た。あるとき、デボラは人を遣わして、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『行って、タボル山に陣を敷け。ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を取れ。わたしはヤビンの軍の長シセラとその戦車と大軍を、キション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す』と。」バラクは彼女に言った。「もしあなたが私と一緒に行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私と一緒に行ってくださらないなら、行きません。」そこでデボラは言った。「私は必ずあなたと一緒に行きます。ただし、あなたが行こうとしている道では、あなたに誉れは与えられません。主は女の手にシセラを売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクと一緒にケデシュへ行った。バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼と一緒に上った。

 

0.はじめに

 先週から、日曜日の礼拝では、旧約聖書の士師記を開いています。

 士師記の「士師」というのは、「さばきつかさ」とも呼ばれていて、苦しみの中で叫び声を上げるイスラエルの民が救い出されるために、神様によって立てられた人々です。全部で12人の士師たちが登場します。時代は、西暦で言えば、紀元前13-11世紀頃になるでしょうか。イスラエルの民が、約束の地であるカナンに定着して、リーダーのヨシュアが死んだ後、イスラエルの国に王が立てられる前の時代です。

 先週の本文である士師記2章は、士師記全体の内容を要約したような箇所と言えるでしょう。そこで描かれているのは、イスラエルの民が、困った時にだけ神様を求めながら、次第に堕落していく姿であり、その彼らを決して諦めることなく導いていてくださる神様の真実の愛です。

1.

 イスラエルの子らは、主なる神様の目に悪であることを行いました。神様の目に悪であることというのは、直接的には、バアルを始めとした、他の神々に仕えることでしょう。偶像崇拝です。そして、それは、「重ねて」のことであると説明されています。「重ねて」というのは、「また」、「再び」ということです。

 実は、今日の本文の前に、すでに三人の士師が登場しています。一人目はオテニエル、二人目はエフデ、三人目はシャムガルです。イスラエルの新しい世代の人々は、すでに何度も神様の目に悪であることを行って、そのために異民族の支配を受けていました。オテニエルの時代には、80年間も支配を受けていました。しかし、神様が立ててくださった士師たちによって、救い出されて、穏やかに暮らしていたということです。あるいは、イスラエルの民は、偶像の神々に仕える罪の重みを、痛いほどに味わっていたと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらずということになるでしょうか。イスラエルの民は、また、同じことを繰り返しているということです。神様の目に悪であることを繰り返しているということです。そして、その結果として、今度は、ヤビンというカナンの王からひどい圧迫を受けることになりました。それは20年の間にも渡りました。決して短い期間ではありません。

 私は、今日の本文を含めて、士師記を見ると、つい、「あほちゃうか」と思ってしまったりします。「何べん同じ失敗を繰り返すんやろう」と思ってしまいます。

 どうなのでしょうか。イスラエルの民は、失敗から学ぶことができないのでしょうか。特別に愚かな人々なのでしょうか。決して、そういうことではないでしょう。彼らだけが特別なのではなくて、私たちもまた、彼らと同じなのではないでしょうか。

 「歴史は繰り返す」ということが、よく言われます。歴史を見ると、同じような出来事が何度も繰り返されていることに気づかされるわけです。それは、私たちが、同じような失敗や間違いを何度も繰り返しているということに他なりません。失敗や間違いの経験を生かして、何とか良い方向へ進むことを願うけれども、結局の所は、同じような失敗をしてしまっているということです。そして、それは、神様との関係においても、言えることなのだと思います。私たちは、救われて、神様の民になったからと言って、急に賢くなるのではないわけです。失敗や間違いを繰り返さないようになるのではないわけです。私たちは、何度も同じ失敗を繰り返した士師記の時代のイスラエルの民のように、愚かな罪人に過ぎないということです。しかし、その愚かな私たちを、神様が、愛していてくださり、決して諦めないで導いていてくださる、それが士師記の物語ることです。

 私たちは毎週の礼拝で主の祈りをささげます。主イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りです。教会が大切にしてきた私たちの祈りです。そして、その主の祈りの中で、イエス様は、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出し給え」と祈ることを教えてくださっています。

 イエス様は、「悪から救い出してください」と祈るように教えてくださいました。「悪に打ち勝たせてください」ではありません。「悪を克服させてください」ではありません。そうではなくて、イエス様は、「悪から救い出してください」と祈るように教えてくださったということです。

 私たちに必要なことは、悪に勝利する力を獲得することではありません。そのために、絶え間ない努力を続けることでもありません。そうではなくて、それは、私たちを悪から救い出してくださる方と結び付いていることではないでしょうか。主イエス様としっかりと結びついていることです。そして、それは、悪に打ち勝つことのできない自分の弱さを認めることであり、だからこそ、イエス様に「悪から救い出してください」と祈り求め続けていくことです。

 悪というのは何でしょうか。士師記においては、直接的には、他の神々、偶像の神々を拝むことになるでしょうか。より一般的には、神様の御心にかなわないことと言ってもいいのだと思います。神様の御心にかなうことが善であり、神様の御心にかなわないことが悪ということになるでしょう。そして、神様の民になる、クリスチャンになるというのは、その神様の御心に生きる者に変えられるということです。クリスチャンというのは、何をするにしても、自分の思いではなくて、神様の御心を求めて、神様の御心に従って生きることを願う者に変えられた人々ということです。

 どうでしょうか。私たちは神様の御心に従っているでしょうか。神様の目にかなわない悪であることではなくて、神様の目にかなう善を行っているでしょうか。自信を持って、「はい」と答えることのできる人は、一人もいないのではないでしょうか。私たちは、神様の御心に従って生きることを願いますが、実際には、それは、とても難しいことなのではないでしょうか。

 どうしてでしょうか。意志が弱いということでしょうか。祈りが足りないということでしょうか。いろいろな理由があるとは思いますが、その大きな理由の一つは、神様の御心が分からないということではないでしょうか。私たちは、いつもいつも、明確に、神様の御心を確信して行動することができるわけではないということです。私たちは、善悪を、いつもいつも、明確に判断することができるわけではないということです。そして、善悪を明確に判断することもできない私たちが、悪に打ち勝つなどということは、最初から無理な話だということです。神様の目に悪と思われることから離れていたら、自動的に善だけを行っているということではなくて、神様の目に善と思われることを求めて行いながら、いつのまにか、悪を行っていることもあるのが、私たちの現実だということです。だからこそ、そんな私たちに、主イエス様は、「悪から救い出してください」という祈りを教えてくださったということです。あるいは、善というのは、「悪から救い出してください」と祈りながら、自分の弱さを認めて、しかし、その弱い自分を愛していてくださる主イエス様に支えられて生きる歩みそのものと言ってもいいのかも知れません。

 イスラエルの民は、神様に叫び求めました。神様に助けを求めました。それは、あくまでも、困った時の神頼みのようなものだったかも知れません。しかし、神様は、その彼らの叫び声を聞いてくださいました。

 デボラという女性の預言者が出てきました。預言者というのは、神様の言葉を預かって伝える人です。そして、そのデボラは、イスラエルを裁いていたとも記されています。デボラはすでに「さばきつかさ」、「士師」としての働きを行っていたということです。

 神様は、そのデボラを通して、バラクという人を招かれました。そして、バラクに神様の言葉が伝えられました。それは、ナフタリ族とゼブルン族の中から一万人を選んで、タボル山に陣を敷くという命令でした。そうすれば、神様が、ヤビンの軍の長であるシセラとその軍隊を、バラクの手に引き渡すという約束でした。神様がイスラエルの民を救い出すために動かれたということです。そして、それは、イスラエルの民の救いが、神様の戦いであることを意味しています。イスラエルの民の救い、現在の私たちも含めて、神様の民の救いは、本質的に神様の戦いだということです。

 どうでしょうか。もしかしたら、神様の戦いと言えば、私たちは、「じゃ、すべてを神様に任せておけばいいんだね、自分は何もしなくていいんだね」ということを思うかも知れません。

 しかし、今日の本文の中に描かれている神様の戦いというのは、どのようなものでしょうか。それは、神様が、人々を用いておられるということではないでしょうか。神様は、イスラエルの民を救い出す戦いに、デボラやバラクを用いておられるということではないでしょうか。

 バラクはデボラに言いました。それは、「もし、デボラが、自分と一緒に行ってくれるならば行く、一緒に行ってくれないならば行かない」ということでした。

 どういうことでしょうか。自分一人では不安だけれども、デボラが一緒ならば心強いということでしょうか。バラクは神様の言葉を信じることができなかったということでしょうか。あるいは、預言者であるデボラが一緒にいてくれることで、神様が一緒にいてくださることを確信することができたということでしょうか。

 正確なことは分かりませんが、いずれにしろ、デボラは、バラクと一緒に行くことを約束しました。それと同時に、最終的な誉れを受け取るのは、別の女性であることを告げました。そして、そのこともまた、イスラエルの民の救いは、神様の戦いであることを示しています。

 神様の民の救い、私たちの救い、それは、神様の戦いです。私たちの戦いではありません。私たちが、自分の力で勝利しなければならない戦いではありません。そうではなくて、神様が始められた戦いであり、神様が勝利を約束してくださっている戦いだということです。神様が責任を負っていてくださる戦いだということです。しかし、だからと言って、それは、私たちが何もしなくてもいいということを意味しているのではありません。私たちもまた、神様の戦いに用いられるということです。そして、私たちがすべきことは、神様の言葉に従うということです。私たちは、神様の言葉に従うことによって、神様の戦いに用いられていくということです。あるいは、その戦いを通して、私たちは神様と共に生きる信仰が整えられると言ってもいいのかも知れません。

 イエス様を信じる私たちは救われています。しかし、その救いは、まだ完成していません。救いが完成するのは、イエス様がもう一度来てくださる時です。そして、そこに至るまで、私たちの信仰生活には、戦いが伴います。

 信仰生活というのは戦いです。戦いというのは、困難があるということです。敵から刃を向けられることがあるでしょうか。確保していた食糧がなくなることもあるでしょうか。仲間同士の連携が上手くいかないこともあるでしょうか。いずれにしろ、それは、命が危険にさらされることです。決して喜ばしいことではありません。しかし、その戦いの中で、私たちは、総大将であるイエス様に対する信仰が整えられていくということです。私たちは、様々な戦いを通して、与えられた信仰が整えられていくということです。

 私たちの信仰生活には、どのような戦いがあるでしょうか。

 どのようなものであるにしろ、それは、神様の戦いであることを覚えたいと思います。私たちが責任を負っている戦いではなくて、神様が責任を負っていてくださる戦いであることを覚えたいと思います。私たちが勝利を獲得しなければならない戦いではなくて、神様が勝利を約束してくださっている戦いであることを覚えたいと思います。だからこそ、肩の力を抜いて、その神様を信頼して、神様に従う者でありたいと思います。そして、その神様の戦いに用いられながら、私たち一人一人の信仰が一緒に整えられていくことを願います。

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