礼拝説教から 2021年10月24日

  • 聖書箇所:士師記2章6-23節
  • 説教題:主の民として生きる

 ヨシュアがいた間、また、主がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいた間、民は主に仕えた。(7)

 その世代の者たちもみな、その先祖たちのもとに集められた。そして彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった。

 すると、イスラエルの子らは主の目に悪であることを行い、もろもろのバアルに仕えた。彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした。(10-12)

 そのため、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は言われた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだときに残しておいたいかなる異邦の民も、彼らの前から追い払わない。これは、先祖たちが守ったように、彼らも主の道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」(20-22)

 

0.はじめに

 今日からは、旧約聖書に移って、士師記を開きたいと思います。

 士師記というのは、ヨシュアが死んだ後、イスラエルの国に王が立てられるまでの時代を描いています。西暦で言えば、紀元前13世紀から11世紀ぐらいになるでしょうか。

 出エジプトのリーダーであるモーセが死んだ後、ヨシュアをリーダーとしたイスラエルの民は、約束の地カナンに入ります。そして、カナンに住む異民族と戦い、自分たちの相続地を獲得していきます。そのカナン征服の戦いを詳しく記しているのが、ヨシュア記です。士師記の1章では、そのカナン征服の戦いが、改めて簡単にまとめられています。そして、今日の本文の後の3章からは、その名前の通りに、士師と呼ばれる人々の活躍が描かれていきます。士師記本文の中では、「さばきつかさ」と訳されていますが、彼らは、イスラエルの民がピンチに陥った時に、神様に立てられて、民を救い出し、民を指導する統治者として用いられました。全部で12人の士師が登場します。今日の本文は、その士師たちの活躍が描かれる前に、ヨシュア以後の歴史がどういったものであったのかを要約した部分と言えるでしょう。

 ちなみに、今日の本文によれば、イスラエルの民は、同じことを繰り返しながら、次第に堕落していくことが分かります。同じことの繰り返しというのは、「第一に、イスラエルの民が、主なる神様を捨てて、偶像崇拝を行う、第二に、イスラエルの民が、敵の手に渡されて苦しみを経験する、第三に、イスラエルの民が神様に助けを求めると、神様が「士師、さばきつかさ」を起こして、イスラエル民を救ってくださる、第四に、しばらく平和な時代を過ごした後、イスラエルの民が再び偶像崇拝を行う」ということです。イスラエルの民は、自分たちの神様、真の神様ではなくて、偶像に過ぎない他の神々を求めて、その結果として、苦しみに遭って、神様に助けを求めると、神様に助けられて、平和が回復する、しかし、しばらくすると、また、神様を捨てて偶像崇拝を行う、その同じことを繰り返しながら、次第に堕落していったということです。今日はその士師記全体の内容を要約したような箇所を見ながら、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.主を知らず

 ヨシュアは、出エジプト記の中で、モーセの従者として登場します。ヨシュアは、モーセやイスラエルの民とともに、出エジプトと荒野の生活を経験しました。モーセの死後には、その後継者として、イスラエルの民を率いて、ヨルダン川を渡り、カナンの地を獲得するために戦いました。ヨシュアとその世代の人々は、神様がイスラエルのために行われたすべての大いなるわざを見ました。「見た」というのは、経験したということです。彼らは、生きて働いておられる神様のわざを経験したということです。自分たちをエジプトから救い出してくださり、マナによって養ってくださり、ヨルダン川を渡らせてくださった神様のわざを経験したということです。そして、それは、彼らが神様の愛を経験し続けてきたということです。あるいは、だからこそと言えるでしょうか。彼らは、カナンの地においても、神様に仕えました。しかし、ヨシュアの死後、ヨシュアと共に神様のわざを見て、ヨシュアより長生きした長老たちがいなくなってしまうと、状況は変わったようです。

 ヨシュアが死んで、ある程度の期間が経つと、神様を知らない世代、神様が自分たちのためにしてくださったことを知らない世代が登場することになりました。もちろん、彼らもイスラエルの民です。文字通りに、神様を知らないということはなかったでしょう。神様がなされたことも伝え聞いていたのではないでしょうか。しかし、それは、ヨシュアの世代の人々が、神様のなされたわざを「見て」、神様を「知って」いたのとは、はっきりと異なるのだと思います。

 生きていたら百何歳になりますが、十年ほど前に亡くなった祖母は、よく戦時中の話をしていました。直接的な空襲の経験はなかったと思いますが、B29が飛んでいく音、光が外に漏れないようにして暮らした経験を、まるで昨日のことででもあるかのように、何度も繰り返して、話していました。

 もちろん、私は、日本の戦争について、何も知らないわけではありません。学校の授業を通して、テレビや新聞、様々な本を通して、戦争について学んでいます。あるいは、戦争の時代を生きた祖母よりも、よく分かっている部分も多いと言ってもいいのかも知れません。

 しかし、祖母の話を聞いていると、やはり、自分が戦争については何も知らないということを感じさせられます。なぜなら、私は戦争を経験したわけではないからです。戦争を経験していない私は、生きた経験として、戦争を語ることはできないということを感じさせられます。

 次の11節の最初には、「すると」と書かれています。「すると」というのは、その後の内容が、その前の内容の結果であることを示しています。つまり、イスラエルの民が、神様の目に悪であることを行い、バアルという偶像の神に仕えたのは、彼らが神様を知らなかったからだということです。神様を知らないことと、偶像の神々に仕えることの間には、密接なつながりがあるということです。直結していると言っても過言ではないでしょう。イスラエルの新しい世代の民は、神様を知らないが故に、偶像の神々に仕えたということです。

 イスラエルの新しい世代の民にとって、主は<エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神>でした。彼らは、神様が父祖たちをエジプトの地から連れ出されたことを、よく知っていたはずです。しかし、彼らにとっては、あくまでも「父祖の神」だったのではないでしょうか。彼らは、同じ神様が、自分たちの具体的な生活においても、同じように生きて働いておられることを経験していなかったということです。共にいてくださる神様の愛を経験していなかったといことです。だからこそ、彼らは父祖の神である主を捨てて、周りにいる人々の神々を拝むことに、何のためらいもなかったということです。

 どうなのでしょうか。神様を知らないイスラエルの民は、どうして、他の神々、偶像の神々に仕えることになったのでしょうか。イスラエルの民を捕らえた神々、偶像というのは、何なのでしょうか。

 今日の本文には、バアルという名前の神、偶像が出てきました。私たちの生きている日本では、神社に祀られている神々が偶像になるでしょうか。そして、その本質は、人の手によって作られた神々ということです。私たちを造られた神様ではなくて、私たちが仕えるべき神様ではなくて、私たちが造った神々であり、私たちに仕える神々です。偶像というのは、名前こそ神ですが、私たちが、自分の願いや欲望を実現させるために、私たち自身の手で作り出したものだということです。だからこそ、御利益がなければ、簡単に捨てて、別の神々を求めることにもなるということです。そして、その偶像を拝むというのは、結局の所は、自分の欲望に仕えていることに他なりません。偶像崇拝というのは、自分の欲望に仕えることであり、自分中心の罪を犯すことだということです。あるいは、偶像の本質は、自分自身と言ってもいいのかも知れません。

2.試みるため

 イスラエルの民が、他の神々を拝んだことは、神様の怒りを引き起こしました。

 神様が、他の神々に仕えるイスラエルの民を見て、怒りを覚えられたということを聞けば、もしかしたら、私たちは、「神様って、何て心の狭い方なんだ」と思うかも知れません。「そんな神様なんて、窮屈で仕方ない、こっちから、ごめんだ」と思うかも知れません。

 どうなのでしょうか。神様はとても心の狭い方なのでしょうか。決して、そういうことではないでしょう。むしろ、その反対に、それは、神様がイスラエルの民との関係を大切にしておられることの現れではないでしょうか。神様は、イスラエルの民、ご自分の民を愛しておられるということです。イスラエルの民が、ご自分と共に生きることを願っておられるということです。

 20節に「契約」という言葉が出てきますが、神様は、イスラエルの民をエジプトから救い出され、彼らと契約を結んでご自分の民とされました。そして、イスラエルの民にご自分だけを愛することを求められました。イスラエルの民も神様の言葉を受け入れて、神様の言葉に従うことを誓いました。神様はイスラエルの神となられ、イスラエルは神様の民となりました。それは男女が互いに愛し合うことを誓って結婚したようなものです。

 結婚生活は、互いが愛の誓約を忠実に守り続けることによってのみ維持されます。イスラエルの民が他の神々に心を傾けるなら、妻が夫以外の男と関係を持って、夫に対して罪を犯すようなものです。そして、そのような事情においては、夫が妻に怒りの感情を持つのは自然なことです。逆に、夫が妻の不倫を知りながら、何も感じないで、不倫を認めているとすれば、それは、反対に、妻に対する夫の愛が疑われることにならないでしょうか。「愛」の反対は、「怒り」ではなく、「無関心」だからです。夫が妻の不倫に怒りを覚えるのは、愛するがゆえであり、愛の表現と言ってもいいでしょう。神様がイスラエルの偶像崇拝に怒られたのも、それと同じです。それは、神様が、イスラエルの民を愛しておられるからこそのことです。そして、その証拠ででもあるかのように、イスラエルの民が苦しみの中で助けを求めてくる時、神様は、すぐに士師を立てて、彼らを敵の手から救われました。神様はイスラエルの民を愛しておられるということです。

 ヨシュアが死んだ時、カナンの地には、本来なら完全に追い払っておかなければならなかった国民がいくつも残っていました。神様はご自分との契約を破ったイスラエルの民の前から、これらの国民を追い払わないと言われました。そして、その理由は、「先祖たちが守ったように、彼らも主の道を守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるため」と記されています。

 「試みる」というのは、テストをするということです。テストには評価がつきものです。もちろん高く評価されるのが良いことであり、低く評価されるのが良くないことです。

 テストの結果によっては、人生が左右されることもあるでしょう。だからこそ、テストという言葉には、私たちを緊張させるものがあります。神様の試み、神様のテストにも、私たちは大きな緊張感を覚えることになります。しかし、神様の試みには、そうした緊張感以上のものがあるように思います。

 イスラエルの新しい世代は、先祖たちよりもいっそう堕落しました。神様の評価は最悪だったでしょう。しかし、だからと言って、神様は、決してイスラエルの民を見捨てられたのではありませんでした。イスラエルの民は何度も神様を裏切りつづけましたが、神様は、その度に、彼らを救われました。そして、そこに、私たちは神様の愛を見ることができるのではないでしょうか。イスラエルの民が神様の道を守って歩むかどうかを評価すること以上に、イスラエルの民と共に歩みたいという神様のもっと積極的な願いを感じ取ることができるのではないでしょうか。テストの真の目的は、イスラエルの民が神様に従うかどうかを評価しながら、何よりも、イスラエルの民と共に歩むことを願っておられる神様の愛を知らせることにあるのではないかということです。

 イスラエルの民は、苦しい時に神様を求めました。苦しい時にだけ、神様を求めたと言ってもいいのかも知れません。困った時の神頼みです。しかし、神様は、いつもイスラエルの民と共に歩むことを願われました。彼らが、喜んでいる時も、怒っている時も、哀しんでいる時も、楽しんでいる時も、神様はイスラエルの民と共に歩むことを願われました。そして、それは、現在の私たちに対しても同じです。イスラエルの民を愛し、彼らと共に歩むことを願われた神様は、私たちにも「共に歩みたい」と語りかけてくださっています。そして、その神様の語りかけを聞いて、神様と共に歩むことが、私たちに開かれた救いの道であり、信仰生活です。

 大切なことは、神様を知ることです。罪人の自分が、赦されて新しく生きるために、十字架にかかってくださった神様の愛を知ることです。死んで復活してくださって、いつも共にいてくださる神様の愛を経験し続けることです。そして、その神様の言葉を聞いて、神様と共に歩むことです。

 毎週の礼拝を通して、聖書の言葉を通して、イエス・キリストを見上げながら、「共に歩みたい」という神様からの語りかけを聞き取りたいと思います。私たちと共に歩むことを願っていてくださる神様の愛を受け取りたいと思います。そして、その愛に応えて、私たちも神様を愛し、神様に従って歩む者でありたいと思います。

コメントを残す