礼拝説教から 2021年10月17日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙16章21-27節
  • 説教題:イエス・キリストの福音、私の福音

 私の同労者テモテ、また私の同胞、ルキオとヤソンとソシパテロが、あなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記した私テルティオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。私と教会全体の家主であるガイオも、あなたがたによろしくと言っています。市の会計係エラストと兄弟クアルトもよろしくと言っています。

 〔私の福音、すなわち、イエス・キリストを伝える宣教によって、また、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によって――永遠の神の命令にしたがい、預言者たちの書を通して今や明らかにされ、すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを強くすることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまでありますように。アーメン。〕

 

0.はじめに

 昨年の春から、日曜日の礼拝では、ローマ人への手紙を見てきました。そのローマ人への手紙も、いよいよ最後の所まで来ました。長かったような、あっと言う間だったような気がします。今日はその最後の所から、神様の御声に耳を傾けていきたいと思います。

1.

 パウロは、ローマの教会の中で、すでに知っている人々の名前を挙げて、その人々に挨拶の言葉を送っていました。その挨拶が一度途切れた後、今度は、パウロと共にいる人々の名前が挙げられながら、その人々が挨拶を送っています。最初に名前の挙げられたテモテだけが同労者と呼ばれていますが、実際には、名前の挙げられたすべての人々がパウロの同労者だったということになるでしょう。そして、その同労者たちもまた、ローマの教会の人々を覚えて、その祝福を願っていたということが分かります。ローマの教会の人々にとっては、とてもうれしい挨拶の言葉だったのではないでしょうか。

 そして、最後にパウロは、とても長い言葉で手紙を締め括っています。

 どうでしょうか。一度読んで、あるいは、一度聞いて、すんなりと理解することができるでしょうか。分からないですよね。私などは、何回読んでも、よく分からないなぁと思っています。

 今日は、そのよく分からない最後の言葉を見ていくことになるわけですが、ローマ人への手紙の締め括りは、一般的に「頌栄」と言われる内容の言葉です。頌栄というのは、神様に栄光をお返しして、神様をほめたたえることと言えるでしょうか。毎週の礼拝のプログラムにも入っている頌栄です。私たちは、毎週の礼拝を通して、神様に栄光をお返しして、そして、その後の祝祷によって、新しい一週間の歩みへと遣わされているということです。パウロは、その頌栄によって、長い手紙を締め括っているということです。いろいろなことを書いてきましたが、最後は神様の栄光をほめたたえるということでしょう。あるいは、神様の栄光をほめたたえざるを得なかったと言ってもいいのかも知れません。

 頌栄という性格を考えるなら、25-27節の長い言葉の中心は、最後の27節になるでしょうか。パウロが言っていることの中心は、「知恵に富む唯一の神に、栄光がとこしえまでありますように」ということです。そして、その神様について、パウロは、直前の所では、「あなたがたを強くすることができる方」とも言っています。「あなたがた」というのは、直接的には、ローマの教会の人々のことであり、さらには、現在の私たちに至るまで、パウロの手紙を読むすべてのクリスチャンたちということになるでしょう。知恵に富む唯一の神様は、私たちを強くすることができる方だということです。

 ちなみに、ローマ人への手紙を含めて、新約聖書はギリシア語で書かれましたが、そのギリシア語の聖書では、「あなたがたを強くすることができる方に」という言葉は、最初に来ます。「あなたがたを強くすることができる方に」という言葉が最初に来て、その後、どのようにして「あなたがたを強くすることができるのか」について、とても長くて複雑な説明が付け加えられているということです。

 いずれにしろ、パウロは、知恵に富む唯一の神様のことを、何よりも、私たちを強くすることができる方と呼んでいます。そして、それは、私たちが弱い者であるということであり、同時に、神様によって強められていく者であるということを意味しているでしょう。あるいは、神様に栄光をお返しするというのは、本質的に、自分の弱さを認めて、同時に、その弱い自分を強めてくださる神様をほめたたえることと言ってもいいのかも知れません。

 それでは、神様は、どのようにして、ローマの教会の人々や現在の私たちを強くすることができるのでしょうか。新改訳2017の翻訳によるならば、それは、二つのことによってと言えるでしょうか。一つ目は、福音によって、二つ目は、世々にわたって隠されていた奥義の啓示によってです。神様は、福音によって、そして、世々に渡って隠されていた奥義の啓示によって、私たちを強めてくださるということです。

 パウロは、福音のことを、「イエス・キリストを伝える宣教」と言い換えています。福音というのは、良い知らせという意味の言葉ですが、それは、イエス・キリストが宣べ伝えられることによって、福音になるということです。パウロは、ローマ人への手紙の最初の所で、福音について、御子イエス・キリストに関することと言っていますが、そのイエス・キリストの福音は、イエス・キリストが、宣べ伝えられて、分かち合われて、初めて福音になるということです。

 次に、二つ目の奥義というのは、神様の秘められた計画ということです。それは、救いの計画と言ってもいいでしょう。そして、啓示というのは、その神様の秘められた救いの計画が明らかにされることです。

 パウロは奥義の啓示をさらに説明していますが、預言者たちの書というのは、旧約聖書のことです。神様は、旧約聖書を通して、ご自分の救いの計画を明らかにされたということです。そして、パウロは、その奥義の啓示について、「すべての異邦人に信仰の従順をもたらすために知らされた」という言い方をしています。信仰の従順をもたらすというのは、神様を信じて、神様に従って生きる救いの道に招き入れられるということです。神様は、最初に、ユダヤ人をご自分の民として選ばれましたが、神様の計画は、ユダヤ人だけではなくて、ユダヤ人以外の異邦人も含めて、つまり、全世界の人々が救いに招き入れられることだということです。神様は、旧約聖書の時代から、全世界の人々を救い出す計画を約束しておられたということです。そして、その神様の秘められた救いの計画を、旧約聖書の中で約束されていた救いの計画を、完全な形で明らかにしたのが、他でもなく、イエス・キリストです。世々に渡って隠されていた奥義、神様の秘められた救いの計画は、イエス・キリストによって、完全な形で明らかにされたのであり、宣べ伝えられたということです。

 パウロは、福音によって、イエス・キリストを伝える宣教によって、そして、世々に渡って隠されていた奥義の啓示によって、神様が私たちを強めてくださると言っていますが、それは、「福音によって」とまとめることができるでしょう。要するに、神様は、イエス・キリストの福音によって、私たちを強めてくださるということです。

 それでは、福音によって強められるというのは、どういうことでしょうか。

 パウロは、福音のことを、特別に「私の福音」と呼んでいます。イエス・キリストの福音でもなく、皆の福音でもなく、「私の福音」と呼んでいます。「私の福音」によって、神様は私たちを強めてくださるということです。

 どういうことなのでしょうか。それは、パウロ自身が、福音を福音として喜んでいたということではないでしょうか。イエス様の十字架の死と復活を、自分のこととして喜んでいたということではないでしょうか。イエス様が十字架にかかって、死んで復活してくださったのは、他でもなく、「私」を愛してくださったからであり、「私」が救われて新しく生きるためだったことを、信じて喜んだということではないでしょうか。そして、その宣べ伝えられたイエス・キリストの福音を、「私の福音」として信じ受け入れて喜ぶ所で、弱い私たちは強められるということです。

 しかし、どうなのでしょうか。弱い私たちが強められるというのは、どういうことなのでしょうか。どんなことでもできる者になるということでしょうか。どんな誘惑の中でも、どんな大きな試練の中でも、びくともせずに立っていることができるような者になるということでしょうか。

 繰り返しになりますが、私たちは弱い者です。弱いというのは、力がないということです。私たちは力のない者だということです。しかし、だからと言って、私たちは、文字通りに、何もできないということではありません。私たちには、力があります。力があるからこそ、生きています。様々なことをしています。そうであるにもかかわらず、私たちは、信仰者として、自分が弱い者であることを認めて告白しています。

 どういうことなのでしょうか。

 私たちが弱いというのは、文字通りに何の力もないということではないでしょう。そうではなくて、それは、神様から離れやすいということではないでしょうか。私たちは、すぐに神様から離れてしまう弱さを持っているということです。

 信じて救われたにもかかわらず、克服することのできない罪の問題に苦しみながら、神様の前に出ることができなくなったりするでしょうか。何か、他のことに夢中になって、神様との関係が疎かになってしまったりするでしょうか。仕事や教会の奉仕が上手くいったらいったで、傲慢になって、神様ではなくて、自分を誇ったりすることがあるでしょうか。周りの人と自分を比較しながら、神様から愛されていることを忘れて、自分を認めることができなくなったりするでしょうか。

 私たちは、弱い者です。すぐに神様から離れてしまう弱さを持っている者です。しかし、神様は、その弱い私たちを強めてくださるということです。神様を信じて、神様を喜んで、神様に委ねて、神様に従って生きる者へと強めてくださいます。だからこそ、私たちを毎週の礼拝に招いていてくださいます。礼拝の中で、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていてくださいます。

 大切なことは何でしょうか。それは、何よりも、イエス・キリストの福音が、「私の福音」となることではないでしょうか。ただ単に、よいことをしてくださった方というだけのことではなくて、他でもなく、「私」自身を愛してくださった方として、イエス様を喜ぶことではないでしょうか。「私」の罪が赦されるために、「私」が新しく生きるために、十字架の死と復活を成し遂げてくださった救い主として、イエス様を信じ受け入れて喜ぶことではないでしょうか。そして、その福音の土台の上に立たせていただく時、私たちは信仰の従順に生きることができるのではないでしょうか。私たちは、イエス様の愛の福音を自分のこととして喜ぶ中で、信仰の従順に生きる強さをいただいていくということです。あるいは、その歩みそのものが、神様の栄光につながると言ってもいいのかも知れません。

 私たちは、どのようにして、神様に栄光をお返しするのでしょうか。

 パウロは、「イエス・キリストによって」ということを言っています。知恵に富む唯一の神様に、イエス・キリストによって、栄光がとこしえまであることを歌っているということです。神様は、イエス・キリストによって、栄光をお受けになるということです。そして、それは、私たちの何かによってではないということです。神様が栄光をお受けになるのは、私たちが立派な人間になることによってではなくて、私たちが成し遂げた何かによってではなくて、イエス・キリストによってだということです。弱い私たちが、イエス・キリストの福音を喜んで、イエス・キリストに支えられて、神様を信じて、神様に従う歩みの中で、神様は栄光をお受けになるということです。

 先週にも分かち合いましたが、サタンは、様々な所で働いています。私たちを神様から引き離すために、様々な形で働いています。そして、私たちには、そのサタンの働きに対抗する力がありません。まさに、弱い者です。

 しかし、神様がその弱い私たち一人一人をご自分のものとしていてくださいます。御子イエス・キリストの福音によって、私たち一人一人が神様から愛されていることを教えていてくださいます。その神様の愛は、サタンのどのような誘惑や試練によっても、決して覆されるものではないことを教えていてくださいます。

 私たちはどうでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス・キリストの福音を聞き続けたいと思います。様々な声が聞こえてくる中で、何よりもまず、イエス・キリストの福音にこそ、耳を傾ける者でありたいと思います。そして、イエス・キリストの福音を「私の福音」として、信じて喜ぶ者でありたいと思います。だからこそ、イエス様にすべてを委ねて、イエス様の言葉に従う者でありたいと思います。そして、その私たちの小さな歩みが、神様の栄光につながることを心から願います。

コメントを残す