礼拝説教から 2021年10月10日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙16章17-20節
  • 説教題:平和の神様の勝利を見つめて

 兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。

 どうか、わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。

 

 

 繰り返しになりますが、パウロは、直前の所で、ローマの教会の中で、すでに知っている人々の名前を挙げて、挨拶をしていました。それは、具体的に書かれていたり、書かれていなかったりしてはいますが、主イエス・キリストにあって、様々な労苦をした人々でした。パウロの同労者たちです。パウロは、その愛する同労者たちを覚えて、神様の祝福を祈ったということです。

 しかし、今日の本文を見ると、ローマの教会には、パウロの愛する同労者たちのような人々だけではなくて、警戒すべき人々もいたことが分かります。それは、ローマの教会の人々が学んだ教えに背いて、分裂とつまずきをもたらす人々です。驚くべきことに、パウロは、その人々から「遠ざかりなさい」とまで言っています。

 ローマの教会の人々が「学んだ教え」というのは、何のことでしょうか。それは、イエス・キリストの福音に他ならないのではないでしょうか。それは、御子イエス・キリストの十字架によって、私たちのあらゆる罪を赦してくださった神様の無条件の愛の知らせです。私たちは、神様の言葉である律法を忠実に行ったら、立派な人間になったら、神様の愛を獲得して、罪が赦されて救われるということではありません。そうではなくて、私たちは、御子イエス様の十字架の死と復活の御業を成し遂げてくださった神様の愛を信じ受け取ることによって救われるということです。神様は、自分が罪人であることにも気づかないままに、滅びへと向かう罪人の私たちを愛するが故に、御子イエス・キリストの死と復活の御業を通して、私たちに永遠の命に生きる救いの道を開いてくださったのであり、私たちは、そのイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れるだけで、その救いを受け取ることができるということです。イエス・キリストだけが救いの道だということです。だからこそ、イエス・キリストは、福音、良い知らせだということです。そして、それは、パウロ自身が、同じ手紙の中で、詳しく語ってきたことでもあります。しかし、それは、ローマの教会の人々が、イエス・キリストの福音を知らなかったということではありません。ローマの教会の人々は、すでにイエス・キリストの福音を聞いて信じていました。だからこそ、イエス・キリストの体である教会として、集まって礼拝をしていたわけです。しかし、パウロ自身が手紙の中で書いている所によれば、彼らは、そのイエス・キリストの福音を、思い起こす必要があったようです。あるいは、パウロは、最初から、ローマの教会の中に、学んだ教えに背く人々の存在を見ていたと言ってもいいのかも知れません。

 それでは、学んだ教えに背く、イエス様の福音に背くというのは、どういうことでしょうか。

 パウロは、学んだ教えに背く人々について、主キリストにではなくて、自分の欲望に仕えているということを言っています。学んだ教えに背く人々は、イエス様にではなくて、自分の欲望に仕えているということです。あるいは、自分の欲望に仕えているからこそ、学んだ教え、イエス様の福音に背いていると言ってもいいのだと思います。

 どうでしょうか。自分の欲望に仕えると言えば、もしかしたら、「やりたい放題のことをする」というようなことをイメージするでしょうか。自由奔放な生き方をイメージするかも知れません。

 しかし、自分の欲望に仕えるというのは、ただ単純に、自由奔放な生き方をするということではないでしょう。そうではなくて、それは、要するに、イエス様中心にではなくて、自分中心に生きるということです。それは、罪人の自分に救いをもたらしてくださった神様の一方的な恵みを喜んで生きるのではなくて、自分にこだわって生きるということです。神様の言葉に教えられて、神様によって変えられることを受け入れるのではなくて、自分の知恵、自分の努力、自分の成し遂げたこと、自分の何かにこだわるということです。だからこそ、何かが上手くいけば、「立てた計画が良かった」、「それだけの努力をしてきた」というようなことに注目しながら、周りから認められることを願ったりするでしょうか。あるいは、認めてもらえなければ、怒ったり批判的になったりするでしょうか。そして、反対に、上手くいかないような場合には、自分の努力不足を嘆いたり、自分の無力を嘆いたり、自分を責めたりすることがあるでしょうか。誰の役にも立てないようなことになった時には、ひどく落ち込んでしまうことになるでしょうか。それらは、いずれにしろ、自分の欲望に仕えているということであり、イエス様に仕えているのではないということです。そして、それは、福音に生きていないということであり、結果として、学んだ教えに背いていることになるでしょう。

 パウロは、学んだ教えに背く人々が、滑らかな言葉とへつらいの言葉を使って、純朴な人々の心を騙しているということを言っています。騙していると言うからには、それは、自分たちがそのような生き方をしているだけではなくて、周りの人々にも、その生き方を教えているということになるでしょうか。そして、それは、とても分かりやすい形でではなくて、とても分かりにくい形でということになるでしょう。気が付いたら、いつのまにか、イエス様の福音の教えとは異なる生き方に導かれているということです。そして、だからこそ、パウロは、警戒を促しているということです。

 次の19節を見ると、パウロは、ローマの教会の人々が神様に従順であることを認め喜んでいることが分かります。しかし、同時に、さらに一歩上のことを願っています。それは、善に聡く、悪に疎くあることです。

 善に聡く、悪に疎くというのは、分かったような、分からないような言葉ですが、どういうことでしょうか。それは、要するに、善悪に対する判断力が養われなければならないということではないでしょうか。従順であっても、判断力がなければ、簡単に騙されてしまうということです。神様の言葉に従う素直さが必要であると共に、神様の言葉に反する教えについては、「これは違う」と判断する力が必要だということです。

 そして、その上でということになるでしょうか。パウロは、イエス様の福音に背くことを教える人々に対しては、「遠ざかりなさい」と勧めています。逆に、その人々に、イエス様の福音をしっかりと教えなさいと言っているのではありません。そのために、とことん戦いなさいと言っているのではありません。そうではなくて、遠ざかることを勧めているということです。あるいは、逃げることを勧めていると言ってもいいでしょうか。

 どういうことでしょうか。パウロは最後にサタンについて語っています。

 サタンというのは、悪魔のことです。悪魔というのは、私たちにとっては、恐ろしいものです。しかし、サタンが恐ろしいのは、サタンが怖い顔をしているということではありません。私たちが見て、「あー、サタンが来た」と、分かるような顔をして近づいてくるのではありません。また、サタンはとんでもない不幸をもたらすということでもありません。そうではなくて、サタンが恐ろしいのは、いつのまにか、私たちの間に入って来て、私たちを神様から引き離してしまうからです。私たちはクリスチャンとして当然のことをしている、「こうあるべき」と思われることをしている、しかし、その中で、それこそ、「気が付いたら、いつの間にか」、神様から引き離されているということです。

 ローマ人への手紙の中で、サタンという言葉が出てくるのは初めてであり、ちょっと突然な感じがしないわけではないですが、パウロは、イエス様の福音に背くことを教える人々の背後に、サタンの働きを見つめていたということです。そして、だからこそと言えるでしょうか。パウロは、純朴なローマの教会の人々に対して、イエス様の福音に背く人々からは遠ざかりなさいと勧めているのではないでしょうか。サタンと戦って勝つことはできないということです。サタンに対しては、戦うのではなくて、逃げるのが一番だということです。しかし、だからと言って、それは、サタンに好き勝手なことをさせてやるということではありません。そうではなくて、それは、神様に委ねるということです。サタンとの戦いを神様に委ねるということです。

 パウロは、平和の神様が、速やかに、ローマの教会の人々の足の下で、サタンを踏み砕いてくださると言っています。神様が速やかにサタンを踏み砕いてくださるという言い方をしています。

 踏み砕いてくださるという言葉からすると、それは、まだ実現していないということになるでしょう。しかし、強い確信を持って断言しています。神様は、必ずサタンを踏み砕いてくださるということです。しかも、速やかにということです。

 実は、神様は、御子イエス・キリストの十字架の死と復活の御業によって、サタンの頭を踏み砕いてくださいました。神様は、サタンに対して、決定的な勝利を宣言してくださいました。サタンは、イエス様を十字架の刑に追いやって、神様を倒したように見えましたが、神様は、逆に、その十字架の死と復活によって、私たちのために、罪が赦されて永遠の命に生きる道を開いてくださったのです。その神様の勝利は決して覆ることがありません。どんなにサタンが必死にもがいても、神様の勝利は変わりません。イエス様の十字架の死と復活によって、神様の勝利は決定したということです。

 今はまだ、その神様の勝利が完全な形で実現しているわけではありません。サタンは、パウロの時代にも、現在の私たちの時代にも、確かに働いています。だからこそ、私たちは、そのサタンの働きの中で、イエス様の福音に生きるのではなくて、自分中心に生きる罪を犯したりします。

 しかし、パウロが言っていることは何でしょうか。それは、平和の神様が速やかにサタンを踏み砕いてくださるということです。速やかに、完全な勝利をもたらしてくださるということです。そして、私たちが、イエス様の福音に背くことを教える人々から遠ざかるのは、その神様の完全な勝利を確信するからこそだということです。私たちは、すでに決定的な勝利を収めていてくださる神様に委ねて、サタンの働きから遠ざかるということです。そして、それこそが、サタンの最も嫌がることだということです。私たちが、神様にすべてを委ねて、自分の知恵や力に頼って、自分の力で戦おうとすることを止める時、サタンは何もできなくなるということです。

 サタンというのは、恐ろしいものです。その力は、決して侮るべきではありません。しかし、そのサタンに対して、神様は完全な勝利を収めていてくださいます。決して覆ることのない勝利を収めていてくださいます。そして、大切なことは、その神様の勝利を見つめることです。イエス様の十字架の死と復活を見つめながら、神様の勝利を確信して、サタンとの戦いを神様に委ねることです。そして、それが、イエス様の福音に生きることであり、善に聡く、悪に疎く生きる道につながっていくことにもなるでしょう。

 今日の本文の中で、パウロが、学んだ教えに背いてと言っているのは、偽教師と呼ばれるような人々であるのかも知れません。しかし、サタンの働きは、偽教師のような人々を通してだけではありません。サタンは、実に様々なことを通して働いているのであり、私たちを自己中心の生き方へと招いているということです。そして、その中で、私たちは、イエス様の福音を信じて、イエス様に仕える生き方へと招かれているということです。

 私たちはどうでしょうか。誰に仕えているでしょうか。何に仕えているでしょうか。主イエス・キリストでしょうか。あるいは、自分の欲望でしょうか。

 イエス様の十字架を見上げながら、イエス様が私たちのために成し遂げってくださったその救いの恵みを喜びたいと思います。その救いの恵みの中で、イエス様の変わることのない愛に支えられていることを覚えながら、自分中心に生きる道へと招き入れるサタンの働きから、遠ざかることができることを願います。イエス様にすべてを委ねて、自分にこだわる生き方から解放されることを願います。そして、イエス様に従って、イエス様によって新しく建て上げられていく者でありたいと思います。

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