礼拝説教から 2021年10月3日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙16章1-16節
  • 説教題:主にある労苦

 私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。

 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。二人は使徒たちの間でよく知られており、また私より先にキリストにある者となりました。主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。キリストにある私たちの同労者ウルバノと、私の愛するスタキスによろしく。キリストにあって認められているアペレによろしく。アリストブロの家の人々によろしく。私の同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソの家の主にある人々によろしく。主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らとともにいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリア、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、および彼らとともにいるすべての聖徒たちによろしく。あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべてのキリストの教会が、あなたがたによろしくと言っています。

 

0.はじめに

 先週に続いて、16章1-16節を開かせていただきました。パウロが、ローマの教会の人々に個人的な挨拶を書いている部分です。

1.マリアの労苦

 パウロはマリアという女性の名前を挙げています。マリアというのは、聖書ではとてもおなじみの名前ですが、今回のマリアがどのような人であるのかについては、よく分からないようです。そのマリアについて、パウロは、「あなたがたのために非常に労苦した」という言い方をしています。「労苦」というのは、「苦労」を反対にした言葉ですが、苦労したりもしながら、一生懸命に働くぐらいの意味になるでしょうか。マリアは、ローマの教会の人々のために、非常に労苦をした女性だということです。

 パウロはマリアの労苦を特別に取り上げています。あるいは、パウロは、マリアの労苦を高く評価している、非常に労苦したマリアを労っていると言ってもいいでしょうか。

 パウロは、手紙の中で、ずっと信仰による救いということを語ってきました。神様の言葉である律法を行うことによって、神様から認められて救われることはできないということです。救いは、神様が罪人の自分を無条件に愛していてくださる恵みを、信じて受け取ることによって実現するということです。行いには出る幕がないということです。しかし、そのパウロが、手紙の最後の部分において、マリアの労苦を取り上げながら、マリアの祝福を願っているということです。

 どういうことなのでしょうか。信仰による救いということを語ってきたパウロでしたが、「教会を支えていくためには、やっぱり行いが大切だよなぁ」ということでしょうか。何かができようが、できまいが、ありのままでいいというのは、きれいごとに過ぎないということなのでしょうか。

 パウロは、12節で、トリファイナとトリフォサ、そして、ペルシスという人々についても、「労苦している、労苦した」という言い方をしています。そして、その労苦について、「主にあって」と説明しています。トリファイナとトリフォサ、ペルシスの労苦は、主にあってのものだということです。そして、それは、先ほどのマリアの労苦にも当てはまることでしょう。

 主にあって労苦するというのは、どういうことでしょうか。それは、主イエス様を信じるからこそということではないでしょうか。主イエス様を愛するからこそということではないでしょうか。主イエス様の愛に気づかされて、その主イエス様を信じて愛するからこそ、イエス様のために労苦を厭わないということではないでしょうか。そして、その労苦には素晴らしい価値があるということです。教会の皆でその労苦を覚えながら、神様の祝福を祈りたいということです。

 13節にルフォスという名前が出てきます。ルフォスという人は、イエス様の十字架を無理やりに背負わされたクレネ人シモンの息子と考えられています。

 シモンは、「たまたま見に来た」と言えるでしょうか。あるいは、「大きな騒ぎになっているのが気になって見に来た」と言えるでしょうか。シモンは、ローマの兵士たちに捕まえられて、無理やりに、イエス様の十字架を背負わされて、ゴルゴタの丘へ向かったということです。そして、そのシモンの息子であるルフォスが、イエス様を信じて救われて、ローマの教会にいるということです。

 シモンは、決して自分の意志で十字架を背負ったのではありません。「何の罪もない人が、十字架を背負わされている、何とかわいそうに」というようなことを思って、イエス様の十字架を背負ったのではありません。「何の罪もない人が十字架を背負わされるなんて、あってはならない」というような正義感を持って、イエス様の十字架を背負ったのではありません。シモンがイエス様の十字架を背負ったのは、たまたまであり、無理やりのことでした。あるいは、ブツブツと文句を言っていたかも知れません。たくさんの人の見世物になっている自分が恥ずかしくてならなかったかも知れません。

 しかし、そのシモンの息子であるルフォスが、イエス様を信じているということです。恐らくは、シモン本人も、イエス様を信じていたと考えられます。

 とても不思議なことですが、どうしてでしょうか。それは、イエス様が選んでくださったからとしか言えないのではないでしょうか。イエス様が、シモンを、十字架を背負う者として選んでくださったということではないでしょうか。シモンは、イエス様から選ばれて、十字架を背負った経験を通して、反対に、イエス様が背負ってくださった自分の罪の重みに気づかされたということではないでしょうか。自分の罪を赦してくださったイエス様の愛の重みに気づかされたということではないでしょうか。

 神様から認められるために、人々から認められるために、一生懸命に働くことは、教会では求められていません。それは、自分の行いにこだわっていることです。

 しかし、イエス様の愛に気づかされて、そのイエス様を信じて愛する時、私たちはイエス様のために生きる者として変えられていきます。そして、それは、たとえそこに、たくさんの労苦があるとしてもです。イエス様の愛に触れた時、私たちは、労苦があるとかないとかの計算をしないで、イエス様のために生きる者に変えられていくということです。

 労苦というのは、決して歓迎したいものではありません。もしかしたら、無理やりに背負わされる場合もあるかも知れません。しかし、その労苦にも意味があることを覚えたいと思います。労苦を通して、自分の罪のために十字架を背負ってくださったイエス様の愛を受け取りたいと思います。そして、それぞれの労苦を覚えながら、神様の愛に満たされる祝福を、互いに祈り合うことができればと思います。

2.私の愛するエパイネト

 パウロは、そのプリスカとアキラの家の教会によろしく伝えてくださいとお願いしながら、一人の名前を挙げています。エパイネトです。エパイネトについては、「キリストに献げられたアジアの初穂」と説明されています。「アジアの初穂」というのは、アジアという地域で救われた最初のクリスチャンということです。そして、そのエパイネトについて、パウロは、さらに「私の愛する」という言い方をしています。アジアで最初に救われたエパイネトを、パウロは特別に愛したということでしょうか。

 そして、8-9節を見ると、同じように「私の愛する」と紹介されている人の名前が、何人か出てきます。アンプリアトとスタキスです。

 さきほどのマリア、トリファイナとトリフォサについては、「非常に労苦した」、「労苦している」と語られていました。また、労苦という言葉こそ使われていませんが、プリスカとアキラも、パウロのために自分の命を危険にさらすような労苦をしています。マリアの次に出てくるアンドロニコとユニアもそうです。彼らは、イエス様を信じるが故に、パウロと共に、投獄されていました。プリスカとアキラ、アンドロニコとユニアも、主イエス・キリストにあって、大変な労苦を味わったと言えるでしょう。

 しかし、エパイネト、アンプリアト、スタキスはどうでしょうか。エパイネト、アンプリアト、スタキスについては、何も取り上げられていません。何も取り上げられていないというのは、特別な労苦がなかったということでしょうか。特別な働き、特別な貢献がなかったということでしょうか。あるいは、実際には、様々な労苦があり、働きや貢献があったけれども、敢えて、取り上げられなかっただけなのでしょうか。恐らくは、大変な労苦を経験していたのだと思います。

 繰り返しになりますが、エパイネトは「アジアの初穂」でした。初めてクリスチャンになった人です。

 どこかの家の中で、どこかの地域で、初めてクリスチャンになるというのは、どうでしょうか。「わあ、良かったね」ということになるでしょうか。そうはならないでしょう。むしろ、誰からも理解されないのではないでしょうか。必ずということではないかも知れませんが、初めてのクリスチャンであるなら、多くの戦いを経験することになるのではないでしょうか。

 また、アンプリアトというのは、奴隷の名前だったと言われたりしています。私たちは、奴隷ということを聞けば、鞭打たれながら、無理やりに働かされたり、ものすごい差別を受けたりということを想像するでしょうか。新約聖書に出てくる奴隷が、私たちのイメージする奴隷とピッタリ一致するかどうかは分かりませんが、いずれにしろ、奴隷であるというのは、多くの問題を抱えることになるでしょう。それこそ、鞭打たれながら、無理やりに働かされる奴隷もいたかも知れません。

 エパイネト、アンプリアト、スタキスについては、特に書かれてはいませんが、実際には、たくさんの労苦があったものと想像されます。

 しかし、いずれにしろ、パウロは、彼らについて、「あんな労苦があった、こんな労苦があった」というようなことは、何も取り上げていないわけです。そして、その代わりに、「私の愛する」と言っているということです。パウロは、何よりも彼らを愛していたということです。

 どういうことでしょうか。少なくとも言えることは、パウロが彼らを愛するのは、彼らが、どのような労苦をしたか、どのような働きや貢献をしたかということとは、一切の関わりがないということです。パウロが彼らを愛するのは、彼らの労苦、彼らの働きや貢献を見てのことではないということです。パウロは、彼らが何をしたかというようなことと関係なく、彼らのことを、ありのままに受け入れたということです。あるいは、パウロが見ていたのは、彼らを愛して受け入れてくださった主イエス・キリストと言ってもいいのかも知れません。パウロは、ただ、主イエス・キリストにある兄弟姉妹として、彼らを愛したということです。そして、その主イエス・キリストの故に、互いを認め合うことのできる場所、一緒にいることのできる場所、それが教会の姿と言えるでしょう。

 何かができる、誰かの役に立つ、それは、とても素晴らしいことです。私も、何かができると、誰かの役に立つと、とてもうれしいです。皆さんも、そうなのではないかと思います。それは、決して否定されるべきことではないでしょう。

 しかし、その一方で、何かができる、役に立っているということばかりが強調されるなら、それは、とても生きづらい世界になるでしょう。社会から認められて、安心して暮らすために、自分の価値を自分で認めるために、何かができなければならない、誰かの役に立たなければならないとするならば、それは、本当に大変なことです。私たちは、いつまで経っても、安心することができないでしょう。

 社会においては、自分で自分の価値を作り出さなければならないかも知れません。何かができることによって、何かの役に立つことによって、自分の価値を示し続けていかなければならないかも知れません。

 しかし、教会においては異なります。教会においては、神様ご自身が私たちの価値を認めていてくださいます。何かができる、誰かの役に立っている、あるいは、教会の役に立っているというようなこととは、何の関係もありません。神様ご自身が私たちをありのままに受け入れていてくださいます。そして、その神様の愛を受け取って、神様に自分を献げて、新しい歩みへと遣わされていくのが、主の日の礼拝です。

 毎週の主の日の礼拝を通して、イエス様の十字架の死と復活を見上げながら、神様の愛を覚えて受け取りたいと思います。そして、その愛に応えて、神様に自分を献げて、新しい歩みへと遣わされていきたいと思います。神様のために労苦を惜しまない者とならせていただきたいと思います。

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