礼拝説教から 2021年9月26日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙16章1-16節
  • 説教題:よろしく伝えてください

 私たちの姉妹で、ケンクレアにある教会の奉仕者であるフィベを、あなたがたに推薦します。どうか、聖徒にふさわしく、主にあって彼女を歓迎し、あなたがたの助けが必要であれば、どんなことでも助けてあげてください。彼女は、多くの人々の支援者で、私自身の支援者でもあるのです。

 キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。二人は、私のいのちを救うために自分のいのちを危険にさらしてくれました。彼らには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また彼らの家の教会によろしく伝えてください。キリストに献げられたアジアの初穂である、私の愛するエパイネトによろしく。あなたがたのために非常に労苦したマリアによろしく。私の同胞で私とともに投獄されたアンドロニコとユニアによろしく。二人は使徒たちの間でよく知られており、また私より先にキリストにある者となりました。主にあって私の愛するアンプリアトによろしく。キリストにある私たちの同労者ウルバノと、私の愛するスタキスによろしく。キリストにあって認められているアペレによろしく。アリストブロの家の人々によろしく。私の同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソの家の主にある人々によろしく。主にあって労苦している、トリファイナとトリフォサによろしく。主にあって非常に労苦した愛するペルシスによろしく。主にあって選ばれた人ルフォスによろしく。また彼と私の母によろしく。アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らとともにいる兄弟たちによろしく。フィロロゴとユリア、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、および彼らとともにいるすべての聖徒たちによろしく。あなたがたは聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべてのキリストの教会が、あなたがたによろしくと言っています。

 

0.はじめに

 昨年の4月から、実に一年半もの間に渡って、ローマ人への手紙を見てきましたが、いよいよ最後の16章に入りました。今日を含めて、何週かに分けて、最後の16章を見ていきたいと思います。

 これまでにも何度か分かち合ってきましたが、パウロはローマの教会に行ったことがありません。しかし、ローマの教会には、これまでの働きの中で、パウロと知り合いとなった人々もいたようです。今日の本文は、その知り合いの人々に挨拶をしている部分です。

1.フィベ

 パウロは、まず一人の姉妹を推薦しています。それは、ケンクレアという町にある教会の奉仕者であり、フィベという名前の姉妹です。パウロは、フィベのことを支援者とも呼んでいます。そして、今日の本文からは分かりませんが、フィベは、パウロが書いている手紙を、ローマまで運んだ人と考えられています。

 ケンクレアというのは、パウロのいるコリントからすぐ近くの町であり、奉仕者というのは、以前の新改訳3版では、「執事」と訳されていました。執事というのは、立派なお屋敷で家の中のことを取り仕切るおじいさんみたいなイメージがありますが、元々は教会の中にできた職務の一つと言えるでしょう。教会を管理しながら、兄弟姉妹たちを支えた人々です。そして、その中には、フィベのような女性たちもいたということです。現在でこそ、男女共同参画社会という言い方がされたりしますが、教会は最初から女性たちによって支えられてきたということが分かります。

 ちなみに、3節に、プリスカとアキラという夫婦の名前が出てきます。先に名前の出てくるプリスカが妻であり、後に出てくるアキラが夫です。私たち夫婦で言えば、「亜希と三郎によろしく」という感じでしょうか。現在の日本でもそうかも知れませんが、新約聖書の時代において、夫婦の名前を挙げるとすれば、先に名前が出てくるのは、やはり夫でしょう。「夫→妻」という順番です。しかし、パウロは、「妻→夫」という順番で、名前を挙げたということです。その正確な理由は分かりませんが、想像できることは、夫であるアキラよりも、妻であるプリスカの方が、教会ではより大きな働きを担っていたということではないでしょうか。いずれにしろ、教会は女性たちの働きによって支えられてきたということです。そして、それは、現在の教会でも変わらないと言ってもいいのかも知れません。

2.教会

 パウロは、「プリスカとアキラによろしく伝えてください」と言っています。そして、その後、たくさんの人の名前を挙げながら、その度に「よろしく」と言っています。

 繰り返しになりますが、パウロは、フィベという姉妹を推薦しました。そして、そのフィベのことを、特別に、ケンクレアの教会の奉仕者と紹介しています。

 どうでしょうか。あまり気にしてこなかったかも知れませんが、パウロが、ローマ人への手紙の中で、「教会」という言葉を使うのは、実は、この16章1節が初めてです。パウロは、16章から成るローマ人への手紙の中で、最後の16章になって、初めて「教会」という言葉を使ったということです。そして、その教会という言葉を使いながら、パウロは、フィベという具体的な名前を挙げて、3節以降にあるように、たくさんの人の名前を挙げているということです。あるいは、パウロは、ローマの教会に宛てた手紙を書きながら、ずっとたくさんの人の名前と顔を思い浮かべていたと言ってもいいのかも知れません。そして、それは、パウロが、まだ会ったことのない人も含めて、具体的な一人一人に向けて語ったということであり、その一人一人を愛したということではないでしょうか。

 教会というのは、どのような所でしょうか。今日の本文を通して見えてくることの一つは、教会が、具体的な人の集まりということではないでしょうか。教会は、別々の具体的な名前と顔を持った人が集まる所ということです。

 私たちはどんな名前を持っているでしょうか。どんな顔を持っているでしょうか。そして、その具体的な名前を持った顔が、互いに見えているでしょうか。自分は皆からちゃんと見てもらえていると感じているでしょうか。あるいは、どのような時に、私たちは、自分の顔が周りの人にちゃんと見てもらえていると感じるでしょうか。それは、何よりも、自分が大切にされていると感じる時なのではないでしょうか。自分が受け入れられていると感じる時なのではないでしょうか。私たちは、自分が大切にされている、受け入れられていると感じる時に、具体的な一人の人として、周りから見てもらえていることを感じることができるのではないでしょうか。逆に言うと、どれだけ立派なことが語られていても、どれだけ様々な活動が行われていても、その中で、具体的な一人一人が大切にされていないとするならば、私たちは、具体的な名前を持った顔が、互いに見えていないと言ってもいいのかも知れません。そして、それは、教会も例外ではないと言ってもいいでしょう。

 例えば、教会の一致が語られる時は、どうでしょうか。何か大きなビジョンが語られる時は、どうでしょうか。一致そのものは、とても大切なことです。掲げられるビジョンは、とても大切なことなのでしょう。しかし、その大切な目標に向かって進む時、私たちの目はどこに向いているでしょうか。その目標が大切であればあるほど、大きければ大きいほど、私たちの目は、その目標に釘付けになってしまうと言えるのかも知れません。同時に、そこにいる具体的な人の顔が見えなくなってしまうと言えるのかも知れません。

 大切なことは何でしょうか。それは、それは、立派な言葉を語ることではないでしょう。たくさんの活動が活発になされることでもないでしょう。そうではなくて、それは、一人一人が大切にされることなのではないでしょうか。逆に言うと、一人一人が大切にされる時、教会の一致は実現へと向かっていくのではないでしょうか。

 大きなビジョンが掲げられるということではないとしても、教会では、様々なことが決められます。そして、何を計画し、何を目指すにしても、何よりも、共にいる互いの顔がしっかりと見えていることを願います。

3.よろしく伝えてください

 繰り返しになりますが、パウロは、プリスカとアキラを始めとして、たくさんの人の名前を挙げながら、最後に「よろしく」と言っています。

 どうでしょうか。私は、パウロが、たくさんの人の名前を挙げて、「よろしく伝えてください」と言っているのを見て、何か変な感じがしました。

 「よろしく伝えてください」というのは、どういうことでしょうか。それは、その場にいない誰かに、自分の気持ちや様子などを、良いように伝えてもらうということです。伝える具体的な内容や伝え方は相手に任せて、その場にはいない他の誰かに、自分の気持ちを伝えてもらいたい時に使う言葉ということです。

 しかし、パウロが、「よろしく伝えてください」と言いながら、名前を挙げている人々は、どうでしょうか。プリスカとアキラを始めとして、パウロが名前を挙げている人々は、ローマの教会にいるわけです。栗東キリスト教会のように、一つの建物に全員が集まってというわけではないですが、ローマのあちこちで持たれていた小さな集まりの中にいたわけです。どこか別の所にいて、パウロの手紙を読んだ人々から、パウロの言葉を伝え聞くということではないわけです。そうではなくて、ローマの教会のメンバーとして、パウロの手紙が読まれるのを、直接聞いているということです。

 ちなみに、今日の本文の中で、「よろしく」あるいは、「よろしくお伝えください」と訳されているのは、直訳では、「挨拶する」という意味の言葉になります。「プリスカとアキラによろしく伝えてください」であれば、「プリスカとアキラに挨拶しなさい」ということになるでしょうか。ちなみに、実は、16節の「あいさつを交わしなさい」と訳されている部分も、「よろしく」と同じ言葉が使われています。

 そうすると、どういうことになるでしょうか。パウロが「よろしく伝えてください」と言っているのは、ローマの教会とは別の所にいる彼らにも挨拶を伝えてほしいということではないでしょう。そうではなくて、ローマの教会の中で、互いに挨拶を交わすことが求められているということではないでしょうか。パウロは、ローマの教会の人々が互いに挨拶を交わすことを願っているということです。

 どういうことでしょうか。ローマの教会の人々は、互いに挨拶をしなかったのでしょうか。ローマの教会の人々は、挨拶もしないような礼儀知らずの人々だったのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 私たちはどのように挨拶をするでしょうか。朝であれば、「おはようございます」、午後であれば、「こんにちは」、夜であれば、「こんばんは」でしょうか。

 パウロを始めとしたユダヤ人たちの挨拶は、「シャーローム」でした。そして、それは、ユダヤ人から始まった新しい教会においても、同じだったことでしょう。

 シャーロームというのは、「平和」や「平安」という意味の言葉です。それは、神様との間に回復する平和であり、だからこそ、神様から与えられる平安です。そして、その神様から与えられる平和と平安を祈る挨拶が、シャーロームだということです。シャーロームというのは、単なる挨拶ではなくて、神様の祝福を祈る挨拶だと言ってもいいでしょうか。

 ちなみに、パウロは、互いに挨拶を交わすことについて、「聖なる口づけをもって」と言っています。聖なる口づけによって、互いに挨拶を交わすということです。

 現在の日本に生きる私たちにとって、口づけによって挨拶をするというのは、かなりハードルが高いということになるでしょうか。もちろん、パウロは、現在の私たちにまで、互いに口づけをしなさいと言っているのではありません。

 互いに口づけをする、それは、互いのすべてを受け入れ合うということを意味しています。キリスト・イエスにある兄弟姉妹として、完全に互いを受け入れ合うということです。そして、それが、シャーロームの挨拶であり、神様の祝福を祈る挨拶だということです。そして、パウロが願っているのは、ローマの教会の人々が、互いにシャーロームの挨拶を交わすことであり、名前の挙げられた人々もまた、その挨拶の中で、神様の豊かな祝福に与ることだと言えるでしょう。

 今日は具体的に見ることができませんでしたが、パウロが名前を挙げているのは、実に様々な人々です。人種や民族、性別、社会的な身分の違いを越えた人々の名前が挙げられています。ローマの教会には、実に様々な人々が、あらゆる違いを乗り越えて、一つに集まっていたということです。そして、それは、キリスト・イエスの名前においてこそ、可能なことでした。

 神様は私たちを祝福していてくださいます。しかし、その祝福は、私たち自身がゴールなのではありません。私たちは通過点であり、神様は、私たちを通して、また別の人を祝福したいと願っておられるということです。そして、その祝福は、私たちが、シャーロームの挨拶を交わすことによって、具体的に愛することによって、伝わっていきます。

 私たちはどうでしょうか。イエス様を見上げながら、互いに聖なる口づけによって、挨拶を交わす者でありたいと思います。教会の中だけでなく、外においても、神様の祝福を伝えていく者でありたいと思います。

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