礼拝説教から 2021年9月19日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙15章30-33節
  • 説教題:希望の神様が

 兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によってお願いします。私のために、私とともに力を尽くして、神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

 

0.はじめに

 先月から、ローマ人への手紙全体の「あとがき」と言えるような部分を見ています。先週は、パウロが、今後の計画を分かち合っている部分を見ました。パウロは、まずマケドニアとアカイアの人々が出し合った援助金を持ってエルサレムに行き、それから、ローマに立ち寄って、イスパニアに行きたいという計画を分かち合っていました。今日の本文は、その計画を分かち合う最後の部分です。

1.祈ってください

 パウロは、ローマの教会の人々に、「兄弟たち」と呼びかけながら、お願いをしています。それは、神様に祈ってくださいというお願いです。

 どうでしょうか。皆さんは、誰かに何かをお願いすることがあるでしょうか。どんなお願いをするでしょうか。小学生だったら、友だちに宿題を見せてほしいというお願いをするでしょうか。大人だったら、お金を貸してほしいというお願いをすることがあるでしょうか。私たちは、様々なお願いをしたりされたりしながら、生活をしています。

 しかし、祈りのお願いをする、「祈ってほしい」というお願いをするのは、どうでしょうか。祈りのお願いをするというのは、教会でなければ、経験することができないことなのではないでしょうか。

 もちろん、クリスチャンでなくても、祈ることはあるでしょう。健康や安全を祈ったりすることがあります。子どもが受験生であれば、合格を祈ったりします。しかし、自分が必要を感じて祈ることはあるとしても、誰かに祈りをお願いするというのは、教会でなければ、経験することができないわけです。あるいは、教会の特徴の一つは、誰かのために祈ること、一緒に祈ることと言ってもいいのかも知れません。

 パウロは、「私のために、私とともに力を尽くして」と言っています。「私とともに力を尽くして」という表現からすると、パウロはとても必死であることが分かります。実際に、その後に続く祈りの内容を見ると、パウロは命懸けでエルサレムに行こうとしていたことが分かります。ローマ人への手紙には書かれていませんが、実際に、エルサレムには、パウロを殺してやろうという人々が待ち構えていました。また、イエス様を信じているユダヤ人のクリスチャンたちも、ずっと彼らが見下してきた異邦人からの援助金を、喜んで受け取ってくれるという保証はありませんでした。パウロは、自分の命が危険にさらされる働き、難しい働きを前にして、共に祈ってほしい、祈りにおいて、共に戦ってほしいというお願いをしているということです。

 クリスチャンであるならば、私たちもまた、人生の大事な場面や、大切な働きを前にして、祈りのお願いをすることがあると思いますが、どうでしょうか。私たちは、誰に祈りのお願いをするでしょうか。牧師でしょうか。誰か信頼のできる先輩のクリスチャンでしょうか。あるいは、洗礼を受けたばかりのクリスチャンでしょうか。信仰がふらふらしているクリスチャンでしょうか。

 ちなみに、パウロはローマの教会に行ったことがありません。知っている人はいたようですが、パウロは、ローマの教会を直接的に知っていたわけではありません。パウロは、ローマの教会のことを、よくは知りませんでした。聞いて知っているだけです。

 そして、そのローマの教会の人々は、パウロが書いている手紙によれば、改めて、イエス様の福音を思い起こさなければならなかったことが分かります。ローマの教会の人々は、イエス様によってもたらされた救いの恵みについて、分かっているようで、分かっていない部分があったということになるでしょうか。あるいは、そのことと関連してということになるのかも知れませんが、具体的な問題もありました。ユダヤ人でクリスチャンになった人々と、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々が、様々なことで対立していました。だからこそ、パウロは、対立している人々に、互いに受け入れ合うことを勧めなければなりませんでした。そして、そんなローマの教会の人々の姿は、パウロの目には「未熟」と映っていたかも知れません。

 しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、ローマの教会の人々に祈りのお願いをしました。あるいは、命懸けの働きを前にして、祈りのお願いをせざるを得なかったと言ってもいいのかも知れません。

 どうしてでしょうか。それは、ローマの教会の人々が、とても立派なクリスチャンたちだったからということではないでしょう。ローマの教会の人々の祈りには、とても効き目があると思ったからということではないでしょう。そうではなくて、それは、パウロが、ローマの教会の人々もまた、主イエス・キリストにおいて新しく生まれた兄弟姉妹であり、同じ聖霊の愛を受け取っていることに、目を向けていたからではないでしょうか。パウロは、ローマの教会の人々もまた、主イエス・キリストにある同じ兄弟姉妹だからこそ、同じ聖霊の愛をいただいているからこそ、彼らのことを祈りの仲間として信頼することができたのではないでしょうか。そして、それと同時に、その彼らの祈りを、父なる神様が確かに聞いていてくださることを確信していたということではないでしょうか。

 皆さんはどうでしょうか。

 私は教会につながって約二十年になりますが、祈りのお願いをしたりされたりということが、いつのまにか当たり前のことになってしまっていたように思います。しかし、今日の本文を通して、改めて考えてみると、祈りのお願いをしたりされたりというのは、本当に不思議なことであり、決して当たり前のことではないことに気づかされます。お願いをして、お願いをされて、共に祈り合うことができるのは、神様が、ご自分の御子イエス・キリストの命を犠牲にするほどに、私たち一人一人を愛してくださったからであり、聖霊によって、その愛を受け取らせてくださったからであることに気づかされます。神様の愛によって、同じ兄弟姉妹であることを受け入れるからこそであることに気づかされます。神様の愛を知らない人々には、決して得ることのできない特別な交わりの祝福であることに気づかされます。

2.憩いを得る

 パウロは、具体的に、二つのことを祈ってほしいとお願いしています。一つ目は、31節です。ユダヤにいる不信仰な人々から救い出されて、奉仕がエルサレムの兄弟姉妹たちに受け入れられるようにということです。そして、そのエルサレムでの働きが無事に終わることと関わっているでしょうか。二つ目の祈りは、神様の御心によって、喜びをもってローマの教会に行き、ローマの教会の人々と共に、憩いを得るということです。

 パウロは、「あなたがたとともに、憩いを得ることができるように」と言っています。憩いを得たいということです。

 ちなみに、『広辞苑』で「憩う」という言葉を調べてみると、「息をつぐ、やすむ、のんびり休息する」と説明されていました。憩うというのは、少しのんびりと休息するぐらいの感じでしょうか。

 皆さんはどうでしょうか。憩いを得ておられますか。あるいは、憩いを得ているとするならば、それはどのような時でしょうか。一日の仕事を終えて、一人でゆっくりと、テレビを見たり、音楽を聞いたりしている時でしょうか。一人でゆっくりと、お風呂に入っている時でしょうか。一人で静かに聖書を読んで祈る時にも、憩いを得ることができるでしょうか。あるいは、憩いというのは、一人でのんびりと過ごす時に得ることができると言ってもいいのかも知れません。憩いというのは、誰にも煩わされることのない時に、あらゆる問題から解放された時に、得ることができるのであり、そのためには、一人になる必要があると言ってもいいのかも知れません。

 繰り返しになりますが、パウロは、「あなたがたとともに、憩いを得ることができるように」と言っています。「あなたがたとともに」です。パウロは、決して一人で憩いたいと言っているのではありません。ローマに行ったら、一人でゆっくりと休むことができるように、誰にも邪魔されることのない部屋を準備しておいてほしいと言っているのではありません。そうではなくて、「あなたがたとともに」、ローマの教会の人々と一緒に憩うことができることを願っているということです。あるいは、教会というのは、一緒に憩いを得る所と言ってもいいのかも知れません。一人でではなくて、皆で一緒に憩いを得る所、それが教会だということです。

 もちろん、人が集まる所には、必ず問題が起こります。争いや対立が起こります。そして、争いや対立がある所では、決して憩うことができません。つまり、人が集まる所で憩いを得るというのは、とても難しいということです。そして、それは、教会も例外ではないでしょう。

 そうすると、どういうことになるのでしょうか。ローマの教会の人々と一緒に憩いを得たいと願っているパウロは、物事が何も分かっていないということになるのでしょうか。あるいは、ただ単に、楽観的なだけのことなのでしょうか。決してそういうことではないでしょう。

 パウロは、平和の神様がローマの教会の人々と共にいてくださることを願い求めています。

 パウロは、これまでにも、「忍耐と励ましの神」、「希望の神」という言い方をしてきました。「忍耐と励ましの神」というのは、神様こそが忍耐と励ましを与えてくださる方、「希望の神」というのは、神様こそが希望を与えてくださる方ということです。そして、今日の「平和の神」というのは、神様こそが平和を与えてくださる方ということです。パウロは、その平和を与えてくださる神様が、ローマの教会の人々と共にいてくださることを願っているということです。

 繰り返しになりますが、ローマの教会の中では、様々な問題で対立が起こっていました。ユダヤ人でクリスチャンになった人々と、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々との間で、対立が起こっていました。そして、そんな対立が起こっている教会に行っても、パウロは決して憩うことができないでしょう。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、ローマに行くことを願っているのであり、ローマの教会の人々と共に憩いを得ることを願っているということです。

 どうしてでしょうか。それは、パウロが、平和の神様を見上げていたからではないでしょうか。神様が実現させてくださる平和を見つめていたからではないでしょうか。パウロは、ユダヤ人たちも、ユダヤ人以外の人々も、同じ神様の愛に満たされて、彼らが互いを兄弟姉妹として受け入れ合う平和の実現を見つめていたということではないでしょうか。パウロは、その平和の実現を味わいながら、彼らと一緒に憩うことを願ったということです。そして、新しく力を得て、彼らから送り出されて、新しい働きの場に出て行くことを願ったということです。

 私たちはどうでしょうか。一緒に憩いを得ているでしょうか。神様に招かれて、共に神様を礼拝する場において、憩いを得ているでしょうか。

 私たちはすぐに争ってしまいます。すぐに対立してしまいます。そして、そんな自分たち自身の姿を見る時、私たちは「平和なんて夢のまた夢」と思うかも知れません。最初から平和の実現を諦めてしまうかも知れません。しかし、平和の神様は、その私たちと共にいてくださるということです。

 平和の神様は、私たちが一緒に憩いを得ることを願っていてくださいます。別々にではなくて、神様ご自身が実現させてくださる平和の中で、一緒に憩いを得ることを願っていてくださいます。だからこそ、私たちと共にいてくださいます。同じ兄弟姉妹として、私たちを一つの礼拝に招いていてくださいます。

 毎週の礼拝を通して、神様こそが私たちに平和を与えてくださる方であることを覚えたいと思います。その平和の神様との関係の中で、私たちが、一人ももれることなく、神様から愛されている者であることを覚えたいと思います。だからこそ、神様から愛されているお互いを、同じ兄弟姉妹として、受け入れ合いたいと思います。その平和の中で、共に憩いを得ることができることを願い求めていきたいと思います。そして、そこから、それぞれの働きの場に遣わされていきたいと思います。

コメントを残す