礼拝説教から 2021年9月12日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙15章22-29節
  • 説教題:キリストの祝福に満ちあふれて

 そういうわけで、私は、あなたがたのところに行くのを何度も妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に私が働くべき場所はありません。また、イスパニアに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを長年切望してきたので、旅の途中であなたがたを訪問し、しばらくの間あなたがたとともにいて、まず心を満たされてから、あなたがたに送られてイスパニアに行きたいと願っています。しかし今は、聖徒たちに奉仕するために、私はエルサレムに行きます。それは、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために、喜んで援助をすることにしたからです。彼らは喜んでそうすることにしたのですが、聖徒たちに対してそうする義務もあります。異邦人は彼らの霊的なものにあずかったのですから、物質的なもので彼らに奉仕すべきです。それで私はこのことを済ませ、彼らにこの実を確かに渡してから、あなたがたのところを通ってイスパニアに行くことにします。あなたがたのところに行くときは、キリストの祝福に満ちあふれて行くことになると分かっています。

1.妨げ

 パウロは、これまでにもローマの教会に行こうとしていたことが、何度もあったようです。そのことは、ローマ人への手紙の最初の所でも語られていました。パウロは、ローマの教会に行く計画を何度も立てながらも、その度に妨げられてきたということです。

 パウロは「妨げられてきました」という言い方をしています。パウロは、計画通りに事が進んだと言っているのはありません。計画通りに事が進んで、「神様が助けてくださった、神様に感謝します」と言っているのではありません。そうではなくて、計画が妨げられたと言っているということです。

 どうでしょうか。私たちは、何か計画を立てて、その計画が妨げられることはあるでしょうか。立てた計画が妨げられると、どうでしょうか。ストレスになったり、腹立たしかったりするでしょうか。あるいは、何としてでも計画を実現させてやろうとしたりするでしょうか。

 人生というのは、決して計画通りに進むものではないでしょう。そして、それは、信仰生活も同じです。神様を信じたら、神様は私たちの計画や願いを何でもかなえてくださるということではありません。また、何でも思い通りになれば、計画通りに事が進めば、満足できるかと問われるなら、必ずしもそうではないということが言えるのではないでしょうか。思い通りに生きることが、満足につながるとは限らないということです。

 もちろん、思い通りにならない、計画通りに事が進まないというのは、決して喜ばしいことではありません。不安にさせられることであり、辛いことです。

 しかし、計画が何度も妨げられてきたと語っているパウロは、どうでしょうか。パウロは、決して落ち込んでいるのではありません。希望を失っているのでもありません。むしろ、後で分かち合っていくことになりますが、パウロは、新しい計画を立てています。壮大な計画を立てています。そして、その計画を分かち合うパウロは、大きな喜びを抱いているかのようです。

 どうしてでしょうか。それは、パウロが、神様から与えられた使命に生きていたからではないでしょうか。パウロは、自分の計画ではなくて、神様の計画こそが、より素晴らしいことを確信していたからではないでしょうか。そして、自分の計画を実現させることではなくて、神様の計画に用いられることこそが、何よりの幸いであることを、確信していたからではないでしょうか。

 使徒の働きを最後まで見ていくと、パウロが今日の本文の中で語っている計画は、必ずしも実現したとは言えないようです。スペインには行くことができなかったと考えられています。ローマに行くことは実現しましたが、その実現の仕方は、パウロの計画とは大きな違いがありました。パウロは、スペインに行く途中でローマに立ち寄ったのではなくて、囚人として、囚われ人として、エルサレムからローマに送られたということです。パウロの計画は、完全に妨げられることになります。

 しかし、使徒の働きを見ると、ローマに到着したパウロは、決して落ち込んでいたのではないことが分かります。納得がいかない様子だったということでもありません。そうではなくて、パウロは、自分の計画よりも素晴らしい神様の計画に自分を委ねながら、誇りを持って、与えられた使命に忠実であろうとしたということです。

 もちろん、計画を立てることに意味がないということではありません。計画を立てることは大切です。実際にパウロも計画を立てています。私たちも祈って計画を立てます。

 しかし、私たちの立てる計画は、決して完全なものではありません。間違っていることがあるかも知れません。私たちには計画を実現させる力がないかも知れません。計画通りに事が進んでも、満足することができないかも知れません。

 神様は、そんな私たちを用いて、ご自分の計画を進めておられます。私たちと共に、ご自分の救いの計画を着実に進めておられます。そして、私たちにとって、大切なことは、その神様の計画に用いられることです。無計画に突き進むのではなくて、ちゃんとした計画を立てながらも、神様の御心を求めて、その神様の計画に自分を従わせていくことです。そして、神様の計画に用いられる時、私たちは、神様の働きの実を見ながら、神様と共に喜ぶことができます。

2.キリストの祝福

 ローマ人への手紙は、ギリシアのコリントという町で書かれたと考えられています。そして、パウロが「この地方に私が働くべき場所はありません」と言っていることからすると、パウロは、コリントの町がある地方での使命を果たし終えたと考えたようです。パウロは、次の新しい働きの場所を考えているようです。それは、イスパニア、現在のスペインです。

 スペインというのは、パウロの時代においては、まさに地の果てです。イエス様の名前が知られていない所です。そして、その地の果てであるスペインに行く途中に、ローマの教会に立ち寄ることを願っているということです。パウロは、しばらくの間、ローマの教会の人々との交わりを持って、彼らに送り出されて、スペインへ行くことを願っているということです。しかし、次の25節以下を見ると、パウロの計画はもう少し複雑であることが分かります。具体的には、まずエルサレムに行ってから、ローマに行くということです。

 繰り返しになりますが、パウロがローマ人への手紙を書いているコリントというのは、ギリシアの町です。ローマはコリントから比較的近い所にあります。そして、エルサレムは、コリントから見れば、ローマと反対の方向です。しかも、かなりの距離があります。日本で言うならば、四国から九州に行きたいけれども、先に東京に行って、それから九州に行くぐらいの感じになるでしょうか。そうであるにもかかわらず、パウロは、まずエルサレムに行って、それからローマに行こうとしているということです。

 どうしてでしょうか。それは、エルサレムの人々に援助金を届けるためだということです。パウロは、エルサレムの貧しい兄弟姉妹たちに、マケドニアとアカイアの人々が出し合った援助金を届けるために、まずエルサレムに行くということです。

 パウロは、マケドニアとアカイアの人々が、「喜んで援助をすることにした」と言っています。また、「喜んでそうすることにした」と繰り返しています。「喜んで」ということが強調されています。

 どうでしょうか。何気なく見ていると、そのまま素通りしてしまいそうですが、私は、マケドニアとアカイアの人々が、エルサレムの貧しい兄弟姉妹たちに喜んで援助をするというのは、驚くべきことなのではないかということを思います。

 エルサレムの兄弟姉妹たちというのは、ユダヤ人です。ユダヤ人というのは、神様からご自分の民として選ばれた人々です。神様と共に生きるために、神様に従って、神様に支えられて生きるために選ばれた人々です。

 それに対して、マケドニアやアカイアの人々というのは、主に異邦人と呼ばれる人々です。異邦人というのは、ユダヤ人から見た外国人です。しかも、単なる外国人ということではなくて、ユダヤ人から見れば、神様から愛されていないと考えられていた人々です。神様から見放されていると考えられていた人々です。そして、その異邦人たちを、ユダヤ人たちは軽蔑していました。ユダヤ人たちは、異邦人たちと交わりを持ってはいけないと考えていました。もちろん、異邦人の側でも、自分たちがユダヤ人たちから軽蔑されていることを知っていたわけです。あるいは、異邦人の側でも、そんなユダヤ人たちを嫌っていたと言ってもいいのかも知れません。実際に、パウロが手紙を送ろうとしているローマの教会でも、ユダヤ人と異邦人の間には、対立があったということです。

 しかし、その異邦人を中心とする教会の人々が、具体的には、マケドニアやアカイアの人々が、苦しんでいるエルサレムの兄弟姉妹たちのために、喜んで援助をすることにしたということです。苦しんでいるユダヤ人たちのために、喜んでお金を出し合ったということです。パウロは、一方で、異邦人が、物やお金で、ユダヤ人に奉仕することを、義務と言っていますが、マケドニアやアカイアの人々は、義務としてではなくて、嫌々ではなくて、喜んで援助をすることにしたということです。そして、それは、驚くべきことなのではないでしょうか。元々の関係を考えるなら、あり得ないことなのではないでしょうか。

 次の28節では、パウロは、エルサレムのユダヤ人たちに、集まった援助金を「確かに渡してから」と言っています。パウロ自身が、集まった援助金を渡そうとしているわけです。

 どうでしょうか。単なる援助金であるならば、パウロ自身が、わざわざエルサレムまで行って、自分の手で渡す必要もなかったのかも知れません。援助金は、別の人がエルサレムまで持って行って、パウロは、ずっと行きたくて仕方のなかったローマに立ち寄って、そして、イスパニアに行けばよかったのではないでしょうか。その方が効率的です。しかし、パウロは、そうしませんでした。パウロは、マケドニアとアカイアの人々が出し合った援助金を、自分の手でエルサレムのユダヤ人たちに渡すことにこだわったということです。

 どうしてでしょうか。それは、援助金を渡すことが、単なる助け合いとは違ったからではないでしょうか。援助金を渡すことは、ユダヤ人と異邦人が、キリスト・イエスの中で、交わりを持つことであり、一つとなることであり、パウロが建て上げようとしていた教会の姿そのものだったからではないでしょうか。マケドニアとアカイアの人々が出し合った援助金をエルサレムの兄弟姉妹たちに手渡すことは、決して一緒にいることのできなかったはずのユダヤ人と異邦人が、イエス様の祝福を共に分かち合う新しい教会の姿そのものだったからではないでしょうか。そして、だからこそ、それは、パウロ自身が見届けなければならないことだったのではないでしょうか。パウロは、キリスト・イエスの中で実現するユダヤ人と異邦人の豊かな交わりの祝福を、ぜひ自分の目で見たいと願ったのではないでしょうか。あるいは、その祝福を、ローマの教会の人々にも分かち合いたいと思っていたということになるのかも知れません。

 パウロは最後に、ローマに行く時には、キリストの祝福に満ち溢れて行くことになると言っています。

 キリストの祝福というのは、何でしょうか。それは、パウロが、エルサレムで経験することになる祝福ではないでしょうか。そして、それは、他でもなく、ユダヤ人と異邦人がキリスト・イエスの中で一つになる祝福ではないでしょうか。決して一緒にいることのできなかったユダヤ人と異邦人が、イエス様によって救われた同じ兄弟姉妹として、互いに受け入れ合い、支え合う祝福ではないでしょうか。そして、パウロは、ローマの教会も、そのキリストの祝福を味わってほしいと願っていたのではないでしょうか。

 ちなみに、新改訳2017で、「キリストの祝福に満ちあふれて」と訳されている部分は、フランシスコ会訳では、「キリストの満ち溢れる祝福を持って」となっています。聖書協会共同訳でも、「キリストの祝福を溢れるほど携えて」となっています。パウロは、キリストの祝福を持ち運んでいるということです。あるいは、クリスチャンというのは、キリストの祝福を持ち運ぶ人と言ってもいいのかも知れません。

 いつ頃からでしょうか。分断という言葉がよく用いられるようになっています。社会が分断されているということです。意見の違いがあるでしょうか。立場の違いがあるでしょうか。いずれにしろ、様々な所に見えない分断があるということです。そして、私たちは、その分断のある社会に生きています。生きているというのは、神様から遣わされているということです。キリストの祝福をもたらす者として、交わりの祝福をもたらす者として遣わされているということです。あるいは、機械的にイエス様の名前を伝えることではなくて、キリスト・イエスによる交わりの祝福を持ち運ぶことこそが、伝道と言ってもいいのかも知れません。そして、それは、私たち自身が、隣人を愛していくことから始まります。

 私たちはどうでしょうか。

 毎週の礼拝を通して、イエス様の愛を覚えたいと思います。イエス様に愛されているお互いを受け入れ合っていきたいと思います。イエス様の中においてこそ実現する交わりの祝福に満たされたいと思います。そして、遣わされて行く先々に、イエス様の中においてこそ実現する交わりの祝福を持ち運ぶ者でありたいと思います。具体的に隣人を愛していく者でありたいと思います。

コメントを残す