礼拝説教から 2021年9月5日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙15章14-21節
  • 説教題:キリスト・イエスにある誇り

 ですから、神への奉仕について、私はキリスト・イエスにあって誇りを持っています。私は、異邦人を従順にするため、キリストが私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かをあえて話そうとは思いません。キリストは、ことばと行いにより、また、しるしと不思議を行う力と、神の御霊の力によって、それらを成し遂げてくださいました。こうして、私はエルサレムから始めて、イルリコに至るまでを巡り、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、ほかの人が据えた土台の上に建てないように、キリストの名がまだ語られていない場所に福音を宣べ伝えることを、私は切に求めているのです。こう書かれているとおりです。↩ 「彼のことを告げられていなかった人々が↩ 見るようになり、↩ 聞いたことのなかった人々が↩ 悟るようになる。」(17-21)

 

 パウロは、神さまへの奉仕について、誇りを持っていると言っています。

 神様への奉仕というのは、具体的には、異邦人に神様の福音を伝える働きになるでしょうか。神様の福音というのは、神様の無条件の愛の知らせです。そして、先週の内容になりますが、パウロは、異邦人に神様の福音を伝える働きを、祭司の務めと表現していました。

 祭司というのは、神様と人との関係を取り持つ人です。人々の罪が赦されるために、人々を代表して、神様にささげ物をする人のことです。

 そして、異邦人というのは、外国人という意味の言葉ですが、神様の民として選ばれていたユダヤ人の目から見れば、神様の救いから漏れていた人々でした。神様に愛されていないと考えられていた人々でした。だからこそ、ユダヤ人は自分たち以外の異邦人を見下したりしていました。

 しかし、そのユダヤ人の一人であるパウロは、イエス様と出会って救われると、異邦人もまた、神様から愛されていることに気づかされました。イエス・キリストによる神様の救いは、ユダヤ人だけではなくて、異邦人にも開かれているということです。この世界に、神様から愛されていない人は、一人もいないということです。そして、特別に、異邦人のための使徒として選ばれたパウロは、神様の福音によって、異邦人を神様の所に導く務め、異邦人が救われて神様のものされる務め、異邦人を神様にささげる祭司の務めを果たすことになったということです。パウロは、その異邦人を神様にささげる祭司の務めについて、誇りを持っていると言っているわけです。

 皆さんは誇りを持っていますか。

 誇りというのは、大切なものです。私たちは、誇りなしには、生きていくことはできないと言ってもいいのかも知れません。

 もちろん、「私には何も誇るものがない」と言う方も、中にはおられるかも知れません。しかし、「私には何も誇るものがない」と言って、「そうですよね。あなたには何も誇るものがないですよね」と言われたら、どうでしょうか。やっぱり、腹が立ちますよね。「私には何も誇るものがない」と言って、周りから、「そうそう」と同意されてしまったら、腹が立ったり、情けないと思ったりするわけです。そして、それは、プライドが傷つけられた、誇りが傷つけられたということに他なりません。

 私たちは誇りなしに生きていくことができません。私たちには誇りが必要です。あるいは、誇りというのは、自分を支えているものと言ってもいいのかも知れません。

 ちなみに、『広辞苑』で「誇り」という言葉を調べてみると、「自慢に思うこと」と説明されていました。誇りというのは、自慢に思うことであり、自慢に思う心ということです。そして、自慢というのは、当然のことながら、自分に関することです。

 私たちは、どのようなことが自慢の種になるでしょうか。自分の家柄や家族でしょうか。友だち関係でしょうか。自分が成し遂げたこと、やっていることでしょうか。あるいは、「少なくとも他人に迷惑はかけていない」というようなこともあるでしょうか。いずれにしろ、それは、自分に関することです。私たちは、自分に関することで、自慢をするのであり、誇りを持つということです。

 どうでしょうか。誇りという言葉そのものには、もしかしたら、肯定的なイメージがあるかも知れません。「誰々さんは誇り高い人だ」と言えば、それは褒め言葉になるわけです。しかし、誇りというものが、自分を自慢することであるとするなら、そのイメージはマイナスの方向に大きく傾くことになるでしょう。なぜなら、自分を自慢することは、誰もよく思わないからです。自分の自慢をして嫌がられるということは、いくらでもあるわけです。そうすると、誇りというのは、必要なものであると同時に、厄介なものでもあると言えるのかも知れません。

 パウロは、大胆に、神様への奉仕について、誇りを持っていると言っています。もちろん、奉仕と言うからには、それは自分の働きです。パウロは、自分の働きを大胆に誇っているということです。

 しかし、パウロは、同時に、その誇りについて、「キリスト・イエスにあって」という説明の言葉をくっつけています。パウロは、キリスト・イエスにあって誇りを持っているということです。

 キリスト・イエスにあって誇りを持つというのは、何だかよく分からない言葉ですが、どういうことでしょうか。

 新改訳2017で「キリスト・イエスにあって」と訳されている部分は、直訳すると、「キリスト・イエスの中で」ということになります。「キリスト・イエスにあって」というのは、キリスト・イエスの中にある状態を示しています。そして、それは、キリスト・イエスと一つになっているということになるでしょう。イエス様と自分は一つであり、切り離すことができないということです。実際に、フランシスコ会訳では、「キリスト・イエスにあって」は、「キリスト・イエスに一致して」と訳されています。

 パウロは、次の18節以降で、キリスト・イエスにあって持っている誇りを具体的に語っています。

 「異邦人を従順にする」というのは、異邦人に福音を伝えることであり、異邦人を神様に従って生きる民として整えることになるでしょうか。つまり、異邦人を神様の救いに与らせるということです。

 しかし、パウロは、異邦人を従順にするために、キリストが自分を用いてくださったこと以外に、何かを敢えて話そうとは思わないということを言っています。ややこしい言い方になっていますが、それは、キリストが自分を用いて成し遂げられたことだけを話すということです。パウロは、自分のことを話すのではなくて、自分を用いてくださったキリストの働きだけを話すと言っているということです。パウロが話すのは、自分がしたことではなくて、キリストが成し遂げられたことについてだということです。そして、それが、キリスト・イエスにあって誇りを持っていることの意味だと言ってもいいでしょうか。要するに、パウロは、自分の働きではなくて、イエス様の働きを誇っているということです。

 キリスト・イエスにあって誇りを持つ、それは、自分ではなくて、イエス様を誇るということです。誇るのは、自分ではなくて、イエス様です。

 しかし、だからと言って、それは、自分のことを何も言わないということにはならないでしょう。なぜなら、イエス様は、一人で働いておられるのではないからです。イエス様は、私たちと共に働くことを願っていてくださるのであり、私たちを用いることを願っていてくださるということです。イエス様が働かれる所には、必然的に私たちが出てくるということです。しかし、私たちが誇り語るのは、私たちがしたことではなくて、イエス様が私たちを用いて成し遂げてくださったことです。

 パウロは、そのイエス様の働きに用いられた自分のことを語っています。エルサレムからイルリコに至るまでを巡りながら、キリストの福音をくまなく伝えたと言っています。エルサレムやイルリコと言われても、私たちにはなかなかピンときませんが、聖書の最後にある地図を見ると、それは地中海沿岸の地域であることが分かります。とても広い地域です。そして、いずれにしろ、それは、イエス様の名前がまだ語られていない地域です。パウロは、イエス様のことがまだ知られていない地域を巡って、イエス様の福音を語り伝えたということです。そして、さらに遠くまで行くことを切に願い求めているということです。

 どうでしょうか。私は、イエス様の働きに用いられているパウロの姿を見て、「すごいなぁ」ということを思います。そして、同時に、パウロのように用いられていない自分を見ながら、「自分は駄目な働き人だなぁ」ということを思わされたりします。さらには、現在の教会を見ながら、「誰々先生の働きはすごい」とか、「誰々先生よりはましかなぁ」ということを思ったりします。

 自分のことについて問いかけるのも何ですが、どういうことでしょうか。それは、イエス様の働きを、自分の働きとして見ているということではないでしょうか。イエス様の働きを、自分の働きとして見ながら、それを他の人と比べているということではないでしょうか。他の人との比較の中で、自分の働きを見ながら、自分の働きに誇りを持ったり持てなかったりしているということではないでしょうか。

 皆さんはどうでしょうか。

 クリスチャンであるならば、私たちは自分自身のために生きているのではありません。イエス様のために生きています。そして、イエス様のために生きるというのは、自分のしていることが、すべてイエス様の働きであることを認めることです。私たちはイエス様に用いられているということです。そして、そのイエス様の働きに優劣の違いはありません。大きな働きも小さな働きも、目立つ働きも目立たない働きも、そこに優劣の違いはありません。すべてが必要な働きです。すべてが大切な働きです。私たちは、イエス様の御心に従って、様々な働きに用いられているということです。そして、それは、伝道や教会の奉仕のようなことだけではないでしょう。私たちの生活そのものがイエス様の働きに用いられているということです。そして、そのイエス様ご自身の働きに目を向ける時、私たちは、自分を誇るのではなくて、イエス様を誇ることができるのではないでしょうか。イエス様の働きに用いられている一人一人を喜ぶことができるのではないでしょうか。

 パウロは大きく用いられました。しかし、皆がパウロになる必要があるわけではありません。皆が、パウロのように、遠くまで行って、教会のない所に教会を建てる働きに参加しなければならないということではありません。パウロのようになれなければ、駄目なクリスチャンだということでもありません。反対に、パウロが誰よりも優れているということでもありません。そうではなくて、パウロも、現在の私たちも、一人一人が、イエス様に愛されているのであり、そのイエス様の御心の中で、それぞれに相応しい形で用いられたいということです。

 大切なことは何でしょうか。それは、キリスト・イエスと一つになることではないでしょうか。キリスト・イエスにあって誇りを持つことではないでしょうか。そして、それは、イエス様の恵みの中に生かされることに他ならないでしょう。罪人の自分を赦してくださったイエス様の愛の深さに気づかされ続けていくことです。そのイエス様ご自身の愛に支えられ導かれて生きることです。そして、イエス様の愛に支えられ導かれて生きていく時、私たちは、人と人との比較の中で誇ったり誇ることができなかったりする自分にこだわる必要がなくなります。人と人との比較の中で保ったり傷ついたりする自分の誇りが砕かれて、キリスト・イエスにある誇りをいただくことができます。イエス様を見上げながら、イエス様を喜び誇りながら、そのイエス様に用いられていることを感謝することができます。イエス様に用いられている仲間を見て喜ぶことができます。

 私たちはどうでしょうか。誇りを持っているでしょうか。その誇りはどこから来ているでしょうか。人と人との比較の中から生まれてくる誇りでしょうか。あるいは、キリスト・イエスにある誇りでしょうか。

 パウロの働きを生み出したイエス様の愛を見上げたいと思います。そのイエス様の愛が自分にも注がれていることを覚えながら、イエス様を喜び誇りたいと思います。イエス様を喜び誇りながら、様々な働きの場に遣わされている互いのために祈り合いたいと思います。そして、その私たち一人一人を通して、イエス様の名前が伝えられていくことができることを、心から願います。

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