- 聖書箇所:ローマ人への手紙15章14-21節
- 説教題:パウロの確信
私の兄弟たちよ。あなたがた自身、善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができると、この私も確信しています。ただ、あなたがたにもう一度思い起こしてもらうために、私は所々かなり大胆に書きました。私は、神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからです。私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれるささげ物となるためです。(14-16)
0.
昨年の四月から、日曜日の礼拝では、ずっとローマ人への手紙を通して、神様の御声に耳を傾けてきました。そのローマ人への手紙も、いよいよ終わりが近づいてきました。
まだ16章が残されていますが、内容的には、15章14節からが、手紙全体の締めくくりのような部分になると理解されています。親切に小見出しを付けてくれている聖書を見ると、例えば、フランシスコ会訳では、15章14節の前には、「あとがき」と記されていたりします。パウロは、ローマの教会の人々に語りたかったことを語り終えて、いよいよ最後のまとめに入ろうとしているということです。
1.
パウロは、手紙を締めくくるに当たって、ローマの教会の人々に、改めて「私の兄弟たち
よ」と呼びかけています。そして、ローマの教会の人々に対する確信を語っています。それは、ローマの教会の人々が、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」という確信です。
「あなたたちは、善意にあふれていて、あらゆる知識に満たされていて、互いに訓戒し合うことができる」というのは、すごい確信だなぁということを思いますが、どうでしょうか。私は、「何だか、ちょっと突然だなぁ」という感じがしました。「パウロさん、いきなりどうしたんですか」と思ったりしてしまいます。
ちなみに、ローマ人への手紙を最後まで読むと、パウロは、自分の手で、直接、手紙を書いているのではないことが分かります。一般的には口述筆記と言われるでしょうか。テルティオという別の人が、パウロが語る言葉を聞きながら書いたということです。
そして、確かなことではありませんが、パウロは、15章13節の所で、一度、語ることをストップして、それまでに語ってきた内容を振り返ったのではないかと考えられたりしています。自分の言葉を書き取ってくれているテルティオに、最初から読み直してもらって、改めて、その内容を確認しながら、最後のまとめに入ったということです。あるいは、次の15節の言葉を見るなら、それは、的外れな推測ではないと言ってもいいのかも知れません。
パウロは、「かなり大胆に書きました」と言っています。そして、それは、「改めて、振り返ってみると」ということになるでしょうか。パウロの手紙には、パウロ自身が見ても、「かなり大胆に書いたなぁ」と思われる所があるということです。「大胆に」というのは、「思い切って」ということです。
それでは、パウロは、何を大胆に書いたのでしょうか。
パウロが、ローマ人への手紙の中で語っていることの中心は、何よりも、神様の福音です。主イエス・キリストに関する福音、良い知らせです。それは、神様が、イエス・キリストの十字架の死と復活の御業を通して、ローマの教会の人々を、現在の私たちを、無条件に愛してくださっているということです。神様を拒む罪人の私たちは、反省をして、神様の言葉に忠実に従ったり、良い人間になったりして、その報いとして、神様に救われるのではなくて、大切なことは、罪人の自分に向けられた神様の愛を信じて受け取るということです。私たちは、罪人の自分をそのままに受け入れていてくださる神様の愛を信じて受け取ることによって救われるのであり、神様に支えられて新しく生きることができるということです。そして、パウロは、その神様の福音、素晴らしい救いの知らせを、「もう一度思い起こしてもらうために」、手紙を書いたということです。
「思い起こす」と言うからには、それは、すでに知っているということです。ローマの教会の人々は、パウロが手紙の中で語る福音を、何も知らないのではなくて、すでに知っているということです。だからこそ、クリスチャンになっていると言ってもいいでしょうか。あるいは、パウロの手紙が朗読されるのを聞きながら、「もうそんなことは知ってますがな」と思う人もいるかも知れません。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、ローマの教会の人々に、「もう一度思い起こしてもらう」必要を覚えながら、大胆に福音を語ったということです。そして、それだけではなくて、その福音を信じ受け入れて救われたクリスチャンの新しい生活について語りながら、ローマの教会の中にある問題を指摘したりもしました。具体的に、「互いに裁き合ってはならない」、「互いに受け入れ合いなさい」という忠告を加えたりもしました。そして、それは、かなり大胆な発言になるわけです。なぜなら、すでに知っているはずのことを何度も繰り返したり、問題を指摘したり、忠告したりすることは、相手に受け入れてもらうことができない可能性もあるからです。あるいは、問題を指摘したり、忠告したりすることは、かなり大胆にならなければできないと言ってもいいのかも知れません。逆に言うと、受け入れてもらうことができない可能性を考える時、私たちはどうしても慎重にならざるを得ないということです。相手に合わせて、相手が受け入れることのできる言葉を選んで語ることになります。あるいは、語ることのできる時まで待たなくてはならなかったりします。
パウロは、受け入れてもらえないかも知れないことを、大胆に語りました。
どうしてでしょうか。それは、パウロが確信をしていたからではないでしょうか。自分の手紙を受け取るローマの教会の人々は、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」、このことを確信していたからこそ、大胆に語ることができたということです。
ちなみに、ある注解書を見ると、「善意」については、「やさしく他者への思いやりに満ちている品性のことである」と説明されていました。「善意にあふれ」というのは、他者を思いやる優しさが溢れているということになるでしょうか。また、「知識」については、同じ注解書には、「あらゆる問題に対する正しい洞察と理解のことである」と説明されていました。「あらゆる知識に満たされ」というのは、どのような問題に対しても、正しい洞察と理解をすることができるということになるでしょうか。そして、互いに訓戒し合うことができるとすれば、それは、そのような善意と知識があってこそということになるでしょうか。私たちは、他の人を思いやる優しさがあって、あらゆる問題に対応することのできる知識があって、互いに訓戒をし合うことができるのであり、一緒に成長していくことができるということです。あるいは、それが、教会の姿と言ってもいいのかも知れません。
私たちはどうでしょうか。自分たち自身について、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」ことを、確信することができるでしょうか。
私は、ローマの教会の人々に対するパウロの確信を見ながら、違和感を覚えました。ローマの教会の人々が、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」というのは、「どうなんやろう」と思いました。なぜなら、パウロ自身の言葉によれば、ローマの教会の人々は、互いに裁いたり見下したりしていたからです。
もし、ローマの教会の人々が、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」のであれば、彼らは、最初から、互いに裁いたり見下したりすることもなかったのではないでしょうか。逆に言うと、善意にあふれていないからこそ、知識に満たされていないからこそ、互いに訓戒し合うことができないからこそ、互いに裁いたり見下したりするのではないでしょうか。だからこそ、ローマの教会の人々は、すでに聞いて知っているはずの福音を思い起こす必要があったのであり、具体的な信仰生活の問題について、パウロから教えられる必要があったのではないでしょうか。しかし、そうであるにもかかわらず、パウロは、ローマの教会の人々が、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」ことを、確信しているということです。
そうすると、どういうことになるのでしょうか。ローマの教会の人々に対するパウロの確信というのは、どこから来ているのでしょうか。パウロは、何を見て、ローマの教会の人々が、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」ことを確信しているのでしょうか。
パウロは、かなり大胆に書いた理由のようなこととして、「神が与えてくださった恵みのゆえに、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったから」という言い方をしています。パウロは、神様が与えてくださった恵みの故に、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となったからこそ、ローマの教会の人々に対して、かなり大胆な書き方をしているということです。
パウロは、自分が異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者になったと言っています。それは、具体的には、祭司の務めを果たすということです。
祭司というのは、神様と人との間に立つ人です。人を代表して、ささげ物をして、罪の赦しを祈り求める人です。旧約聖書の時代には、動物や食べ物がささげ物とされていました。旧約聖書の時代に、祭司と呼ばれる人々は、動物や食べ物をささげて、人々の罪の赦しを祈り求めたということです。そして、それは、後に、私たちの罪が赦されるためにささげられるイエス様を指し示していました。イエス様こそが、私たちの罪が赦されるために、十字架にかけられて、ご自分をささげてくださったということです。そして、そのイエス様によって、私たちは、罪人であるにもかかわらず、神様から赦されて、神様と共に新しく生きる恵みをいただいているということです。
パウロは、そのキリスト・イエスに仕える祭司として、他でもなく、異邦人を神様にささげていると言っています。
異邦人というのは、旧約聖書の時代に神様の民として選ばれていたユダヤ人以外の人々です。神様の前に出ることのできない人々、神様の救いから漏れていると考えられていた人々です。しかし、その異邦人を、パウロは、神様に喜ばれるささげ物として整えているということです。
とは言っても、それは、パウロ自身が、異邦人を訓練しているということではありません。パウロが、自分の力で、異邦人を、神様の喜ばれるささげ物として整えようとしているのではありません。
パウロは、異邦人というささげ物について、「聖霊によって聖なるものとされた」という言い方をしています。異邦人が神様の喜ばれるささげ物になるのは、聖霊によるということです。神様ご自身の力によるということです。すでに、イエス様を信じて、与えられた聖霊によって、神様のものとされている異邦人を、神様の喜ばれるささげ物として整えているのは、聖霊であり、神様ご自身だということです。そして、それは、異邦人にしろ、ユダヤ人にしろ、イエス様によって救われたローマの教会の一人一人が、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」者として、整えられていることと言ってもいいのかも知れません。神様ご自身が、ローマの教会の一人一人を、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」者として、整えていてくださるということです。そして、パウロが確信しているのは、その神様ご自身の働きであり、だからこそ、パウロは大胆に語ることができたと言えるのではないでしょうか。
私たちは、必ずしも、善意に溢れていることがないかも知れません。あらゆる知識に満たされていることがないかも知れません。だからこそ、互いに訓戒し合うこともできないかも知れません。私たちは、自分たちの未熟な姿を見ながら、大胆にではなくて、当たり障りのないことしか語り合うことができないということも多いかも知れません。あるいは、最初から、何かを言うことを諦めてしまったりするかも知れません。
しかし、パウロが言っていることは、何でしょうか。それは、そんな私たちを、神様が喜んで受け入れていてくださるということではないでしょうか。神様は、御子イエス・キリストの故に、私たちをご自分のものとして整えていてくださるということです。そして、その神様の恵みによる働きを覚える時、私たちは確信を持つことができるのではないでしょうか。神様ご自身が、私たちを、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」者として整えていてくださることを、確信することができるのではないでしょうか。そして、その神様の恵みの中にあることを覚える時、私たちが大胆に語り合うことのできる道は開かれてくるのではないでしょうか。大切なことは、私たち一人一人を愛して、ご自分のものとして整えていてくださる神様の恵みによる働きに信頼することです。その神様に、自分をささげ、互いをささげることです。
毎週の礼拝の中で、イエス・キリストの故に、神様が私たち一人一人を喜んで受け入れていてくださることを覚えたいと思います。神様ご自身が、私たち一人一人を、「善意にあふれ、あらゆる知識に満たされ、互いに訓戒し合うことができる」者として、整えていてくださることを確信したいと思います。だからこそ、その神様に、自分自身を、互いを、ささげたいと思います。そして、私たちを整えていてくださる神様の働きに、共に用いられていくことができればと思います。