礼拝説教から 2021年8月21日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙15章7-13節
  • 説教題:希望の神様が

 ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。私は言います。キリストは、神の真理を現すために、割礼のある者たちのしもべとなられました。父祖たちに与えられた約束を確証するためであり、また異邦人もあわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。↩ 「それゆえ、↩ 私は異邦人の間であなたをほめたたえます。↩ あなたの御名をほめ歌います。↩ と書いてあるとおりです。↩ また、こう言われています。↩ 「異邦人よ、主の民とともに喜べ。」↩ さらに、こうあります。↩ 「すべての異邦人よ、主をほめよ。↩ すべての国民が、主をたたえるように。」↩ さらにまたイザヤは、↩ 「エッサイの根が起こる。↩ 異邦人を治めるために立ち上がる方が。↩ 異邦人はこの方に望みを置く」↩ と言っています。どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。

0.

 ローマ人への手紙を書いているパウロは、12章から、イエス様を信じて救われたクリスチャンの新しい信仰生活について語ってきました。そして、14章からは、教会の中で起こっていた食べ物の問題を取り上げていました。食べ物というのは、主に、偶像に供えられた後に、市場で売り出された肉のことになると思いますが、問題は、食べてもよいと考える人々と、食べるべきではないと考える人々との間で、対立が起こっていたということです。パウロは、食べる人も食べない人も、どちらも神様に受け入れられていることを示しながら、互いに裁き合ってはならないことを教えてきました。

 今日の本文は、先週の本文と共に、その問題のまとめとも言える部分になります。

1.

 パウロは、それまでの内容を踏まえて、結論のようなことを語っています。それは、「あなたがたも互いに受け入れ合いなさい」ということです。「あなたがた」というのは、食べ物の問題において、対立をしていたローマの教会全体です。具体的には、「食べない人」と「食べる人」の両方ということになるでしょう。そして、それは、「ユダヤ人でクリスチャンになった人々」と、「ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々」と言い換えてもいいのかも知れません。いずれにしろ、パウロは、食べ物や他の様々な問題で対立をしていた人々に、互いに受け入れ合うことを命じているということです。

 互いに受け入れ合うというのは、共生社会、共に生きる社会と言うことができるでしょうか。21世紀の現在では、世界中の人々が、互いの違いを受け入れ合いながら、共に生きる道を模索しているのだと思います。私も、様々な違いのある人々が、互いに受け入れ合って共に生きるというのは、とても素晴らしいことだなぁということを思います。

 しかし、現在の私たちが互いに受け入れ合うことを願うのは、どうしてでしょうか。自分と異なる人々と仲良くしたいということでしょうか。互いに受け入れ合うことこそが、平和の実現に他ならないということでしょうか。

 パウロは、互いに受け入れ合うことについて、「神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように」という言い方をしています。

 どういうことでしょうか。それは、イエス様が、神様の栄光のために、ローマの教会の人々や、現在の私たちを受け入れてくださったということではないでしょうか。イエス様は、神様の栄光のために、私たちを受け入れてくださったということです。そして、その神様の栄光のために、私たちを受け入れてくださったイエス様に倣って、私たちも互いに受け入れ合うのだということです。目的は神様の栄光だということです。私たちが互いに受け入れ合う目的は、神様の栄光が現されるためだということです。私たちの目が、「神様って素晴らしい」という所につながるためだということです。

 どうでしょうか。

 「神様の栄光のため」と言われると、もしかしたら、「何や、結局は、神様がほめられたいだけなんかいな」と思う人もおられるかも知れません。「神様は、『互いに受け入れ合いなさい』なんて、立派なことを言わはるけど、結局は、皆からほめられて満足したいだけなんとちゃうか」と思ったりするかも知れません。

 皆さんは、栄光を受けたいと思いますか。栄光と言われると、何か大それた感じがするかも知れませんが、大きいことであるにしろ、小さいことであるにしろ、皆から認められてほめられるとすれば、それは、やはりうれしいのではないでしょうか。栄光を受けたくないという人は、誰もいないのだと思います。

 それでは、神様はどうなのでしょうか。神様が栄光を求められるのも、私たちと同じように、皆からほめられて満足したいということなのでしょうか。恐らくは、そういうことではないのだと思います。むしろ、その反対に、神様が栄光を求められるのは、私たちのため、私たちが互いに受け入れ合うためなのではないでしょうか。

 栄光は神様だけのものです。栄光は神様にお返しするものです。

しかし、その栄光を私たちが求めることになれば、どうでしょうか。それこそ、一致というのは、あり得ないことになるのではないでしょうか。私たちは、それぞれが自分の栄光を求めて、互いに争い合うことになるのではないでしょうか。自分が認められることを求めて、自分の正しさを主張して、反対に、互いに受け入れ合うことを妨げてしまうのではないでしょうか。互いに受け入れ合うということにおいても、主導権を巡って争ったりするのではないでしょうか。

 ちなみに、聖書の中で「栄光」と訳されている言葉を、聖書辞典で調べてみると、元々のヘブル語では、基本的には「重い」という意味になるようです。栄光というのは、重いということです。

 どうでしょうか。

 皆さんは重いものが好きですか。私は重いものが嫌いです。重いものを持つのは、重荷でしかありません。

 繰り返しになりますが、栄光は神様だけのものです。栄光は神様にお返しするものです。

 どうしてでしょうか。それは、栄光が、私たちには重すぎるからではないでしょうか。小さな人間である私たちにとって、栄光は荷が重いということです。栄光は私たちの自由になるものではなくて、反対に、私たちの重荷になり、私たちを押し潰すということです。栄光は、神様でなければ、担うことができないということです。あるいは、神様が、ご自分の栄光を求められるのは、反対に、私たちのためと言ってもいいのではないでしょうか。神様は、私たちが、自分の栄光を求める生き方から自由になることを願っておられるということです。

 神様の栄光のために、それは、あらゆる栄光を神様にお返しすることです。そして、それは、逆に言うと、私たちが自分の栄光を求めないということです。それぞれが、自分の栄光を求めることを止めるということです。自分の栄光を求めて、自分が認められてほめられることを求めて、自分の正しさを主張することを止めるということです。むしろ、その反対に、自分もまた、あるいは、自分こそが、イエス様に愛されて受け入れられている罪人に過ぎないことを覚えることです。罪人の自分を愛して受け入れていてくださるイエス様を、誇りとすることであり、喜ぶことです。自分の誇りとしているものが砕かれて、その自分を支えていてくださるイエス様を誇り喜ぶことです。そして、私たちが互いに受け入れ合う道は、そのようにイエス様に愛されて受け入れられている罪人として、イエス様を喜ぶ所から、開かれてくるのではないでしょうか。私たちは、自分ではなくて、イエス様を喜び誇りとする所で、同じように、そのイエス様から愛されて受け入れられている誰かを、受け入れていくことができるのではないでしょうか。そして、そこに、神様の栄光は現されるのではないでしょうか。神様の栄光は、イエス様に愛されて受け入れられている互いが、イエス様を誇り喜びながら、謙遜に受け入れ合っていく所に現されるということです。

2.

 次の8節以降の所を見ると、パウロは、改めて、二つのグループの人々を取り上げています。それは、「割礼のある者たち」と「異邦人」です。

 「割礼のある者たち」というのは、旧約聖書の時代に、神様の民として選ばれたユダヤ人のことです。そして、異邦人というのは、そのユダヤ人以外の人々です。とは言っても、それは、ただ単に、ユダヤ人から見た外国人ということではありません。ユダヤ人たちが、自分たち以外の人々を異邦人と呼ぶ時、それは、神様から選ばれていない人々という意味が込められています。神様から愛されていない人々、神様の救いから漏れている人々という意味が込められています。そして、ユダヤ人たちは、そんな異邦人を見下していたということです。もちろん、ユダヤ人が異邦人と一緒にいることは、あり得ないことでした。

 しかし、パウロが、ローマ人への手紙全体において、そして、今日の本文の中で、語っていることは、何でしょうか。それは、神様がユダヤ人だけではなくて、ユダヤ人以外の人々をも、憐れんでいてくださっているということではないでしょうか。しかも、それは、イエス様が来られてからということではなくて、イエス様が来られる前から、旧約聖書の中に証しされているということです。神様は、最初から、ユダヤ人だけではなくて、ユダヤ人以外の人々をも、救いの計画の中に入れておられたということです。そして、だからこそ、救い主であるイエス様を通して、ローマの教会には、ユダヤ人もいれば、ユダヤ人以外の人もいたということです。

 教会の中に、ユダヤ人と異邦人が一緒にいたというのは、その事実そのものが、驚くべきことです。教会には、決して一緒にいることのできない人々が、一緒にいたということです。そして、それは、イエス様を頭とする教会だからこそ、可能だったことです。しかし、それでもなお、そこには、食べ物や特定の日を重んじることなど、様々なことで対立が起こっていたということです。

 先週の本文もそうでしたが、パウロは最後に祈っています。

 パウロは、ローマの教会の中に、ユダヤ人のグループと異邦人のグループの間で、対立があることを覚えながら、互いに受け入れ合うことを勧めてきました。旧約聖書を引用して、神様の言葉を根拠にして、互いに受け入れ合うべき理由を説明してきました。それは、とても説得力のある言葉です。しかし、最後には、祈っています。あるいは、最後の最後には、祈ることしかできなかったということになるでしょうか。

 一つ前の段落では、パウロは、「忍耐と励ましの神が」と言っていました。そして、今日の段落では、「希望の神が」と言っています。

 どういうことでしょうか。それは、神様こそが希望だということではないでしょうか。希望を与えてくださるのは、神様ご自身だということではないでしょうか。

 パウロは、ローマの教会の人々のために、「希望にあふれさせてくださいますように」と祈っています。「希望にあふれさせてください」と祈っていることからすると、ローマの教会の人々は希望に溢れていなかったということになるでしょうか。そして、その原因は、もしかしたら、教会の中で起こっている対立だったということになるでしょうか。教会の中で起こっている対立を見ながら、希望を見失っていたということになるでしょうか。

 希望というのは大切です。希望があるからこそ、日々の歩みの中でも、喜びを持つことができるのだと思います。希望があるからこそ、問題や課題に立ち向かっていくことができるでしょう。

 しかし、どうでしょうか。私たちはいつも希望を持っているでしょうか。

 目の前の現実を見る時、私たちは希望を持つことができないかも知れません。自分自身を見る時、私たちは希望を見るどころか、絶望をしてしまうかも知れません。目の前の現実や自分自身を見る時、私たちの希望は、状況によって左右されるばかりです。状況によって、希望を持ったり失ったりの繰り返しです。

 しかし、神様を見上げる時、私たちは希望を持つことができます。なぜなら、神様ご自身が希望だからです。神様は私たちの希望の源だからです。そして、その希望の源である神様によって、私たちは、どのような状況の中でも、喜びと平安をいただくことができます。問題や課題が解決されてではなくて、問題や課題の中で、希望の神様ご自身から、喜びと平安をいただくことができます。そして、課題や問題に向き合っていく知恵と力が与えられます。大切なことは、信仰によって、希望の神様を見上げることであり、神様から喜びと平安をいただくことです。

 私たちはどうでしょうか。どこを見ているでしょうか。目の前の現実でしょうか。自分自身でしょうか。あるいは、神様でしょうか。

 毎週の礼拝を通して、主イエス・キリストの死と復活の御業を通して、希望の神様を見上げたいと思います。神様こそが希望の源であることを覚えたいと思います。そして、神様から喜びと平安をいただいて、置かれている状況の中で、目の前の現実と向き合っていきたいと思います。

 

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