礼拝説教から 2021年8月15日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙15章1-6節
  • 説教題:忍耐と励ましの神様が

 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、↩ 「あなたを嘲る者たちの嘲りが、↩ わたしに降りかかった」↩ と書いてあるとおりです。かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。

0.

 ローマ人への手紙14章では、教会の具体的な問題が取り上げられています。それは、食べ物、特に、偶像に供えられた後に市場で売り出された肉に関する問題です。

 主に、ユダヤ人でクリスチャンになった人々は、「偶像に供えられた肉は汚れている、真の神様を信じる者はそんな肉を食べるべきではない」と考えたようです。反対に、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々は、「イエス様の十字架の御業によって救われた者にとって、『これを食べたら汚れる』というような物はない、何でも食べることができる」と考えたようです。そして、問題は、その「食べる人」と「食べない人」との間で、対立が起こっていたということです。「食べる人」は、「食べない人」を見下していたのであり、「食べない人」は「食べる人」を裁いていたということです。パウロ自身は、何でも食べることができると考えていましたが、「食べる人」も「食べない人」も神様から受け入れられている恵みを覚えながら、互いに裁き合うことを戒めていました。

1.

 パウロは、「力のある者たち」、「力のない人たち」ということを言っています。

 この世界には、力のある人々だけがいるのではありません。反対に、力のない人々だけがいるのでもありません。力のある人々がいれば、力のない人々もいるということです。そして、理想的には、力のある人々が力のない人々を支えるということになるでしょうか。力のある人々が力のない人々を支えていくなら、それは、素晴らしい社会と言えるのではないでしょうか。そして、それは、社会全般のことだけではなくて、教会においても言えることなのだと思います。

 しかし、パウロが、今日の本文において、「力のある者たち」、「力のない人たち」と言っているのは、どのような人々のことでしょうか。力のある人々が力のない人々の「弱さを担う」というのは、どういうことなのでしょうか。

 経済的に余裕のある人が、貧しい人を助けるということでしょうか。長く信仰生活をしてきた人が、信じたばかりの人の信仰生活を助けるということでしょうか。

 パウロは、食べ物の問題を取り上げる所で、野菜しか食べない人のことを「信仰の弱い人」と言っていました。そして、その「信仰の弱い人」が「力のない人たち」ということになるでしょう。

 信仰が弱い、力がないと言えば、信仰がフラフラしているというイメージを抱くかも知れません。しかし、パウロから、「信仰の弱い人」と呼ばれていた人々が、野菜しか食べなかったのは、信仰がフラフラしていたからではありません。むしろ、その反対に、確かな信仰によって、彼らは野菜しか食べないという選択をしていたわけです。偶像に供えられて汚れた肉を食べるべきではないという信仰の選択です。パウロから「信仰の弱い人」、「力のない人たち」と呼ばれている人々は、確かな信仰を持っていたわけです。しかし、その確かな信仰を持っていた人々を、パウロは、「信仰の弱い人」、「力のない人たち」と呼んでいるということです。

 どうしてでしょうか。それは、彼らが、イエス様の無条件の愛による確かな救いの恵みを、十分には分かっていなかったということではないでしょうか。自分たちの教えや伝統を守ってではなくて、イエス様の無条件の愛を受け取る信仰によって救われたにもかかわらず、具体的な信仰生活においては、なおも、自分たちの教えや伝統にこだわっていたということです。彼らは、自分たちの生き方にこだわり、自分たちの生き方こそが正しいとして譲らなかったということです。そして、その結果として、イエス様がもたらしてくださった救いの恵みの中で、何にも囚われることなく、自由に信仰生活を送る人々を見ながら、快く受け入れることができなかったということです。

 パウロが言っている信仰の弱さ、それは、イエス様の無条件の愛による確かな救いの恵みの中にありながら、自分の生き方にこだわることです。そして、自分の生き方こそが正しいという考えにはまってしまうことです。イエス様の無条件の愛による確かな救いの恵みの中で、イエス様が与えてくださった自由を互いに受け入れ合うのではなくて、自分の生き方にこだわることです。イエス様の無条件の愛による確かな救いの恵みの中にありながらも、自分の生き方にこだわり、自分の生き方こそが正しいとして譲らないこと、それが信仰の弱さです。しかし、その自分の生き方にこだわる姿というのは、周りからは、反対に、強く見えると言えるでしょう。実際に、パウロから「信仰の弱い人」、「力のない人たち」と呼ばれていた人々は、自分たちと反対の立場にある人々を、裁いていたわけです。パウロが言っている信仰の弱さは、人と人との具体的な関係においては、裁く強さとして現れていたということです。

 私たちはどうでしょうか。「力のある者たち」でしょうか。「力のない人たち」でしょうか。

 パウロは、「私たち力のある者たちは」という言い方をしています。

 改めて、問いかけることになりますが、「私たち力のある者たち」というのは、誰のことでしょうか。ローマ人への手紙が書かれた当時においては、「私たち力のある者たち」というのは、パウロ自身を含めて、「食べる人」のことになるでしょう。

 しかし、そうすると、どういうことになるでしょうか。パウロの手紙を読む現在の私たちにとって、今日の本文は関係がないということになるのでしょうか。パウロの時代に起こっていた食べ物の問題とは、何の関係もない現在の私たちにとって、「私たち力のある者たちは」というパウロの呼びかけは、関係がないということになるのでしょうか。決して、そういうことで」はないでしょう。

 「私たち力のある者たちは」というパウロの招き、それは、パウロと同じ考えを持っていた、当時の人々に向けられていると同時に、後の時代に、パウロの手紙を読むすべてのクリスチャンたちにも、現在の私たちにも、向けられているのではないでしょうか。現在の私たちもまた、「力のある者たち」として、パウロの呼びかけを聞くことが求められているのではないでしょうか。そして、それは、私たちが、力のない人の弱さを担う者として招かれているということです。私たちは、一人ももれることなく、力のない人の弱さを担う者として招かれているということです。あるいは、神様は、力のない私たちが、本当の意味で、力のある者になることを願っておられると言ってもいいのかも知れません。神様は、私たちが、自分にこだわって、自分と異なる人を裁き合うのではなくて、反対に、そんな弱さを担い合う者になることを願っておられるということです。

 パウロは、自分を喜ばせるべきではないと言っていましたが、次の3節では、誰よりも、キリストであるイエス様ご自身が、救い主であるイエス様ご自身が、ご自分を喜ばせることをなさらなかったと言っています。そして、旧約聖書の詩篇から、イエス様について記された箇所を紹介しています。「あなたを嘲る者の嘲りが、↩ わたしに降りかかった。」

 パウロは、自分ではなくて、隣人を喜ばせるべきことを語るために、詩篇の言葉を紹介しました。キリストも、イエス様も、ご自分を喜ばせることはなさらなかったじゃないかということです。「イエス様もご自分を喜ばせることをなさらなかったのだから、私たちも」ということです。

 どうでしょうか。

 私は、「そんなことを言われてもなぁ」ということを思ったりします。「イエス様には、できたかも知れないけれど、自分にはとてもできない」ということです。「イエス様がなさったんだから、私たちも」というのは、私たちにとっては、大きな負担としてのしかかってくることのように思えるかも知れません。

 しかし、パウロが言っていることは何でしょうか。

 パウロは、旧約聖書の詩篇を紹介しながら、その聖書が書かれた目的を記しています。そして、その目的は、私たちを教えるためだということです。パウロの時代の人々にとっては、旧約聖書が、現在の私たちにとっては、新約聖書も含めた聖書全体が書かれたのは、私たちを教えるためだということです。

 教えると言われると、それは、逆に言うと、学ぶことであるように思うかも知れません。例えば、聖書に描かれたいろいろな出来事を教訓にして、「あぁ、こんな愚かなことを繰り返してはいけないなぁ」と反省したりすることがあるでしょうか。そして、クリスチャンとしての相応しい生き方を学ぶことになるでしょうか。確かに、そのような側面はあるでしょう。

 しかし、パウロが言っていることは、何でしょうか。それは、聖書が私たちに忍耐と励ましを与えるということではないでしょうか。そして、その聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちは希望を持ち続けるということではないでしょうか。

 聖書が私たちを教えるために書かれたというのは、私たちが知識や教訓を得るためだけではありません。ふさわしい生き方を学ぶためだけではありません。それと共に、それ以上に、何よりも、聖書を通して、私たちは忍耐と励ましを受け取ることを学ぶということです。その忍耐と励ましによって、希望を持ち続けることを学ぶということです。

 どういうことでしょうか。

 何度も分かち合ってきましたが、聖書は、私たちをイエス様の十字架へと導きます。私たちを愛して、私たちと共に生きるために、私たちの罪を背負って、私たちのあらゆる弱さを担って、十字架にかかってくださったイエス様へと導きます。そして、大切なことは、そのイエス様と出会うことです。自分のために、十字架にかかってくださったイエス様の愛を受け取ることです。

 イエス様の十字架の前に立つことがなければ、私たちはどれだけ聖書を学んでも、聖書から、教訓を得ても、信仰生活に必要な知識を受け取っても、その知識は私たちを高ぶらせるだけです。

 しかし、イエス様の十字架の前で、イエス様ご自身によって、自分の罪が背負われ、自分のあらゆる弱さが担われていることに気づかされる時、私たちは、イエス様の愛を知り、そのイエス様の愛に応えて、イエス様と共に生きる歩みへと導かれます。それは、具体的には、力のない人の弱さを担う歩みです。そして、その歩みの中で、私たちは、イエス様ご自身が、諦めることなく、辛抱強く、私たち自身を支えていてくださり、励ましていてくださることに気づかされます。そのイエス様から、忍耐と励ましを受け取ることができます。力のない人の弱さを担うために必要な忍耐と励ましを受け取ることができます。

 私たちは、どうでしょうか。聖書から何を学んでいるでしょうか。何を受け取っているでしょうか。教訓でしょうか。クリスチャンとして生きるための知識でしょうか。あるいは、忍耐と励ましでしょうか。

 最後に、パウロは祈り求めています。互いに同じ思いを抱くことを、心が一つになることを祈り求めています。そして、祈り求めているというのは、実際には、同じ思いが抱かれていない、心が一つになっていないということを示しています。しかし、同時に、希望があるからこそということも示しています。パウロは、互いに同じ思いを抱くことが、心を一つにすることが、単なる夢物語ではなくて、実現する希望を抱いているからこそ、祈り求めているということです。そして、それを実現させてくださるのは、忍耐と励ましの神様です。大切なことは、聖書を通して、聖書に描かれたイエス様を通して、神様から忍耐と励ましを受け取ることであり、力のない私たちが、互いの弱さを担い合っていくことです。

 私たちはどうでしょうか。

 毎週の礼拝の中で、神様ご自身の御声に耳を傾けながら、私たちの罪を背負い、私たちのあらゆる弱さを担っていてくださるイエス様とお出会いすることができることを願います。そのイエス様の愛に応えて、私たちもまた、互いの弱さを担い合うことができることを、願います。神様ご自身から、忍耐と励ましをいただきながら、互いの弱さを担い合う者でありたいと思います。そして、同じ思いを抱き、心を一つにして、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神様をほめたたえることができることを願います。

コメントを残す