礼拝説教から 2021年8月8日

  • 聖書箇所:ローマ人への手紙14章13-23節
  • 説教題:神様の御前に持つ信仰

 なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。食べ物のために神のみわざを台無しにしてはいけません。すべての食べ物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような者にとっては、悪いものなのです。肉を食べず、ぶどう酒を飲まず、あなたの兄弟がつまずくようなことをしないのは良いことです。あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。しかし、疑いを抱く人が食べるなら、罪ありとされます。なぜなら、それは信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。(17-23)

 

0.

 ローマ人への手紙14章では、それは、食べ物に関する問題が取り上げられています。

 パウロの時代の教会では、外国の神々、偶像に供えられた後、市場で売られた肉を、「食べてよいか、食べるべきでないか」ということが問題になっていたようです。主に、ユダヤ人でクリスチャンになった人々は、「偶像に供えられた肉を食べて自分を汚してはならない」と考えました。一方で、ユダヤ人以外でクリスチャンになった人々は、「偶像なんて木や石に過ぎない、食べることができる」と考えました。問題は、その「食べる人」と「食べない人」との間で、対立が起こっていたということです。そして、パウロは、互いに裁き合うことを戒めているということです。

1.

 パウロは、神の国について語っています。

 神の国というのは、何でしょうか。それは、神様が支配しておられる国ということです。この世界は神様が造られたものであり、その意味では、神様が支配しておられると言えます。しかし、すべての人がその神様の支配を認めているわけではありません。むしろ、多くの人は、この世界全体を支配しておられる神様の存在を見失っているということになるでしょう。

 神様の支配と言われると、もしかしたら、神様が、暴力的な力で、ちっぽけな人間の私たちを押さえつけておられるというようなイメージを抱いたりするでしょうか。そうだとすると、そんな神様は、私たちにとって、恐怖でしかないのかも知れません。

 新約聖書の福音書を見ると、イエス様は「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われています。そして、神様が支配される国は、その御子であるイエス様を通して、人々の目に見える形で、その姿を現すことになりました。それは、暴力的な力で人々を支配する国ではありません。そうではなくて、イエス様の一方的な恵みによる支配が実現する国です。罪人の自分が赦されるために、新しく生きるために、イエス様が自分の代わりに十字架にかかって死んでくださった、そして、復活してくださった、そのイエス様の恵みを受け取って、イエス様を自分の主と信じ受け入れる人々の間に実現する国です。そして、私たちは、その神の国を、教会を通して見ることができます。

 もちろん、「教会=神の国」というわけではありません。しかし、イエス様を頭とする教会を通して、神様の恵みによる支配は現されているということです。そして、その神の国について、パウロは、「食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜び」だと言っています。

 どういうことでしょうか。「教会では、飲み食いというのは、どうでもいい問題だ、そうではなくて、もっと大切な問題に目を向けよう、聖霊による義と平和と喜びを求めていこう」ということでしょうか。もっともらしい考えですが、そういうことではないでしょう。そうではなくて、神の国を現す教会は、食べたり飲んだりという問題においても、どのような小さな問題においても、聖霊による義と平和と喜びを求めていくということではないでしょうか。

 それでは、聖霊による義と平和と喜びというのは、どういうことでしょうか。それは、義も、平和も、喜びも、聖霊なる神様が与えてくださるということです。

 義というのは、正しさということですが、それは、自分の義ということではありません。自分たちこそが正しいということではありません。

 神の国の姿を見せる教会というのは、人間の義、人間の正しさを明らかにする所ではありません。自分がこんな立派なことをしたということを認めてもらう所ではありません。そうではなくて、神様の義、神様の正しさが明らかにされる所です。

 私たちは罪人です。義なる者、正しい者ではありません。しかし、神様は、そんな罪人の私たちを愛してくださっています。罪人として滅びに向かう私たちを愛して、私たちが生きるために、御子イエス様が、私たちの代わりに、十字架の刑によって、私たちの罪の罰を受けてくださいました。そして、そのイエス様を救い主として信じ受け入れるすべての人に、神様との関係の中で新しく生きる道を開いてくださいました。それが、神様の義です。私たちは、罪人であるにもかかわらず、神様の一方的な恵みによって、神様の愛に支えられて生きる、そんな神様との正しい関係の中に招き入れられているということです。だからこそ、神様と私たちの間に平和が実現し、自分の置かれている状況にかかわりなく、神様から愛されている事実の故に、喜んで生きることができるということです。

 教会というのは、神様の支配を現す所です。しかし、そうであるにもかかわらず、教会は神の国そのものではありません。確かに、神様の恵みによる支配を現しているにもかかわらず、教会=神の国というわけではありません。

 どうしてでしょうか。それは、私たちが、すぐに自分の義、自分の正しさを主張してしまうからではないでしょうか。神様の義、神様の正しさを受け入れて謙遜にならなければならないのに、反対に、自分たちの正しさを主張して、それを相手に納得させようとしてしまうからではないでしょうか。そして、その結果として、神の国の特徴である、平和が損なわれ、喜びが失われるということになるのではないでしょうか。実際に、ローマの教会においては、食べ物の問題において、互いに相手を見下したり、裁いたりしていたわけです。ローマの教会だけではありません。新約聖書には、たくさんの手紙が含まれていますが、その手紙を受け取る教会は、どこも様々な問題を抱えていたわけです。そして、その問題に直面しながら、それぞれが正しさを主張して、対立が起こっていたということです。

 教会というのは、何の問題もない所ということではありません。それどころか、教会は、いつも、どこも、問題が山積みになっている所だということです。そして、もしかしたら、私たち自身も、そんな教会の姿を見て、嫌な思いをしたり失望したりすることもあるでしょうか。

 どうすればいいのでしょうか。それは、あらゆる問題を解決して無くすということではないでしょう。「教会が神の国を現す所であるならば、あらゆる問題を無くさなければならない」というようなことではないでしょう。そうではなくて、それは、様々な問題を通して、「聖霊による神の義と平和と喜び」を求めていくことではないでしょうか。

 パウロは、「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこと」を追い求めようと提案しています。

 平和に役立つことというのは、何でしょうか。武器を手放せば、平和につながるでしょうか。問題があっても、その問題に目をつぶれば、平和は保たれるでしょうか。

 パウロが「平和に役立つこと」と言っているのは、直接的には、人と人との関係についてでしょう。しかし、その人と人との関係における平和の土台として、パウロが考えているのは、やはり神様との関係における平和でしょう。神様との関係における平和の上で、私たちは人と人との関係における平和を追い求めることができるということです。

 人と人との関係において、平和に役立つこと、それは、何よりも神様との関係が平和であることです。そして、それは、神様の豊かな恵みを受け取り続けることによって実現します。自分の義、自分の正しさが神様と人から認められることを追い求めるのではなくて、十字架のイエス様の前に導かれながら、神様が罪人の自分を愛して支えていてくださる恵みを覚え続けることです。

 時には間違った選択をすることがあるかも知れません。上手に愛することができないこともあるかも知れません。しかし、私たちがどうであるかに左右されることなく、神様は無条件に私たちを愛していてくださいます。そして、大切なことは、その神様の限りない恵みの中に生きることです。あるいは、逆に言うと、その神様の豊かな恵みの中にあるなら、私たちは、それ以上、自分の義、自分の正しさを訴えて、相手に納得させる必要もなくなるということです。そして、そこから、平和は実現していくのではないでしょうか。

 もちろん、それは、問題に目をつぶるということではないでしょう。そうではなくて、どのような問題においても、神様の義の前で、謙遜になって、イエス様が代わりに死んでくださった互いを、優れた者として尊敬し合うことではないでしょうか。そして、それが、互いの成長にも役立つということです。

 パウロは、最後に、信仰を、神様の御前で自分の信仰として持っていなさいと言っています。信仰を自分の信仰として持つというのは、自分の信仰を他の人に押しつけないということです。ローマの教会においては、具体的には、自由に食べることができる信仰を持っているとしても、その信仰を、食べてよいかどうかと迷っている人に押しつけないということです。そして、その理由は、疑いを抱きながら食べる人に、罪を犯させることになるからだということです。

 パウロは、疑いを抱く人が食べるなら、それは罪になると言っています。なぜなら、それは、信仰から出ていないからだということです。そして、信仰から出ていないことは、すべて罪だとも言っています。

 「疑いながら」と訳されている言葉は、「ためらう」という意味を持っています。それは、自分がしっかりと立っていない状態を示しています。フラフラしているということです。

 私たちは疑うことがあるでしょうか。ためらうことがあるでしょうか。恐らくは、あるのではないでしょうか。難しい問題にぶつかって、私たちは、疑ったり、ためらったりしながら、何かをすることがあるのではないでしょうか。

 そうすると、どうなるのでしょうか。私たちが、疑ったり、ためらったりしながら、何かをするとすれば、それは、信仰から出ていないことであり、罪を犯しているということになるのでしょうか。そうだとすれば、それは、大変なことです。私たちは恐くて何もすることができなくなります。

 パウロが、疑いを抱いて食べると言っているのは、神様の前ではなくて、人の前に立っているということです。人の顔色を見て、どうしようかを決定しようとしているということです。そして、それは、人に気に入られようとしているということです。あるいは、「この世と調子を合わせる」ことと言ってもいいでしょう。そして、だからこそ、それは、信仰から出ていないということです。自分の信仰によるなら、「食べない」のだけれども、人々から受け入れられるためには、人々との関係を上手に保とうとするなら、「食べたほうがよいか、どうしようか」、そんな疑いやためらいを持って、何かをするなら、それは、罪になるということです。なぜなら、それは、神様の前に立っていることではないからです。神様ではなくて、人に気に入られようとすることだからです。

 ちなみに、人の顔色を見て行動を変えるというようなことは、イエス様の一番弟子であり、新しく誕生した教会のリーダーとして立てられたペテロにもありました。リーダーであるペテロもまた、神様ではなくて、人の顔色を見て行動することがあったということです。

 パウロは、信仰を、神様の前で、自分の信仰として持ちなさいと言いました。「神様の前で」です。

 人の前に立つ時、私たちはしっかりと立つことができなくなります。なぜなら、神様ではなくて、人の顔色を見てしまうことになるからです。そして、自分の信仰によらない行動を、疑いながら、迷いながら、取ってしまうことになることもあるでしょうか。しかも、人々との関係を考えて取った行動が、必ずしも、平和に役立つとは限らないわけです。

 しかし、神様の前に立つ時、私たちは、人の顔を見なくてもすみます。そして、神様から与えられた自分の信仰を持っていることができます。自分の信仰によって行動することができます。もちろん、判断に迷うことはあるでしょう。間違うこともあるでしょう。しかし、神様はそのすべてを用いて、最善へと導いてくださいます。なぜなら、神様は私たちを愛していてくださるからです。

 私たちはどうでしょうか。どこに立っているでしょうか。神様の前でしょうか。人の前でしょうか。

 いつも神様の前に立たせていただきたいと思います。何よりも、イエス様の十字架の前に立たせていただきたいと思います。神様から無条件に愛されている者であることを覚えたいと思います。イエス様が、身代わりになって、十字架にかかってくださったほどに、愛されているお互いであることを覚えたいと思います。そして、そのイエス様の前で、愛されていることを覚えながら、与えられた信仰を、自分の信仰として持っていることができることを願います。その信仰によって、平和に役立つことや互いの成長に役立つことを追い求めたいと思います。

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